第3話 100万ドルの夜景

ビルの2階、扉の奥には20畳ほどのスペースが広がっていた。


古びた長机に割れたガラスの扉が目立つ本棚。電気もついていない室内は、夕陽に少し照らされながら寂しげな雰囲気を醸し出す。以前は貸事務所だったのだろうが、もはや当時の雰囲気はない。


そんな一室で、少女が金髪の男2人に肩を掴まれていた。周りには10人弱の、これまた絵に描いたような不良風の男たち。誰もいない雑居ビルは彼らのたまり場だったのだ。


そんな中に誰もが目を引く美少女が入ってきたとなると、絡まれるのはむしろ当然のことだろう。俺が扉の前に立つと、少女の肩を掴んでいた2人と、その奥にいた数人がこちらの姿を視界に捉え……るかどうかのタイミングで、足を動かす。


「やめてください……」


少女がもう一度消え入るような声を出すのと同時に、俺は左手にいた金髪Aとの距離を詰め、腹にボディを一発食らわせる。Aは「ヴっ……」とくぐもった声を上げ、膝を折り曲げて床に沈んだ。


「あ?」


右手にいた金髪Bが声を出すか出さないかのところで、同じくくぐもった声を上げ倒れこんだ。


一瞬の出来事に、周りにいた他の男たちも声が出ない。状況をうまく咀嚼できていなかったのだろう。白鳥さんも声をあげないあたり、まだ現実を飲み込めていないらしい。


周りの男たちはようやく現実を飲み込み、声を荒げながら立ち上がってこちらに近づこうとする。男たちが拳を振り下ろす前に俺は右足を踏み込むと、手前にいた男との距離を詰め、鳩尾に拳を入れていく。驚きのあまり再度固まる男たち。


好都合だ。俺はフットワークを駆使して次々に近づき、男たちにボディーブローを入れていった。


思わぬ客に驚いていた金髪Cが、近くにあった鉄の棒を握ると叫びながら俺へと振り下ろす。遅い。見た目は不良風で怖いが、動きは素人。いつも『京和のゴリラ』のスパーリングの相手をしている俺からしたら、まるでスローモーションだ。


冷静に自分の左手側へ移動し交わすと、タイミングを合わせる形で鳩尾付近に右のストレートを打つ。金髪Cはめり込んだ拳に我慢しきれず、床に沈んでいく。


すると今度は金髪Dが「この野郎!」と声を上げながら殴りかかってきた。普段腐れ縁とのスパーリングでは恐ろしい速さで飛んでくる右ストレートを相手にしている。こんなモーションの大きい右ストレートなんて、幼稚園児の遊びのパンチに見える。


振り下ろされた右拳を体をひねって交わすと、ガラ空きになった腹に、ややカウンター気味にこちらの右拳を入れていく。「カハっ……」と声を上げ体を折り曲げた金髪Dがその場に沈んだ。


状況が完全に掴めていなかった4人のチンピラが、怒りに身を任せて体を動かしこちらに迫る。俺は一番手前の男に近づき即座に右の拳をアゴに入れると、スマッシュヒットした右拳によりその体が宙に浮き、男は音を立ててその場に倒れた。


残り3人。


フットワークで左端の男と距離を詰めると、相手が俺を掴む前に腕の中に侵入し、小刻みな右のジャブを放った。耐久力がなかったのか、男が悶えながら倒れる。


その流れのまま左足を踏み込むと、右隣にいた男にもボディを食らわせる。あっけに取られていた男の腹にもほぼノーモーションで拳を入れると、男はその直前に殴られた男と同じように床に沈んだ。


この間、わずか20秒あまり。8人のチンピラたちが床に崩れ落ちた。残るは一番奥に座っていた小太りの金髪ただ一人。……とその時、後ろにいた女の子から声が掛かった。


「え、薬師寺くん……?」


振り向くと、そこには恐怖にゆがみ、泣く寸前の表情を浮かべた、俺の好きな女の子がいた。声を掛けられ一瞬振り向いたものの、現在の状況を思い出して、すぐ視線を小太りの男に戻す。


小太りの男はあまりの怒りに冷静さを欠いているようで、額に汗を浮かべながら、ポケットから光るモノを取り出す。小型の折り畳みナイフだ。


「んっ……」


後ろから、恐怖を感じた白鳥さん叫び声に近い声が耳に入る。絶対にこの金髪を彼女の元に到達させてはいけない。


俺が左足を少し前に出し、再度、オーソドックススタイルで構えた。その瞬間、俺と小太りの男の前に、更に体格の大きな男が立ちはだかる。


「ダーメーよ?♡そんな危ないものを持って♡」

「ヒィ!?」


小太りの男が蛇に睨まれたカエルのような声を出した。俺は腐れ縁の発したその艶めかしい声が耳に入って、冷静さを取り戻す。


「おとなしくしなさい?ねっ♡」


カブが小太りの男にウインクすると、男はそのまま泡を吹くように倒れてしまった。……ウインクだけで大の男を沈めることができる人間が、この世に何人いるのだろう。


「必殺、100万ドルの夜景……!」


技名があるのか、そのウインクに……。そんなことを思っていたところで、後ろから女性の声が響いた。


「あ、あの……歌舞くんに薬師寺くん……?」


冷静になってからこれまでの状況に気づいてしまった。俺は好きな子の前で、一体何をしたんだろう。あまりの怒りに我を忘れて、つい足が動き、手が出てしまった。


「あ、あの……」


目の前に、黒く長い髪を後ろで一つにまとめた美少女が立っている。その顔には恐怖感が漂っていた。大好きな白鳥さんが声をかけてくるが、助けるためとはいえ彼女の前で無意識に8人を殴り倒した俺の頭には入ってこない。


彼女の足は震えている。当然だろう、ここまで怖い思いをしたのだから。もしかすると俺に対しても恐怖感があるのかもしれない。そう思うと俺は声も出ず、足も前に進まなかった。


一瞬、時間が止まったような感覚に襲われ、呼吸をすることも忘れていた俺は、なんとか言葉を絞り出す。


「急にごめん!」


ようやく絞り出せたのはこれだけ。情けない。俺はそれだけ言い残して、その場から立ち去ってしまった。


階段を下りた記憶まではある。その後、近所の公園で缶コーヒーを飲むところまで、ほとんど記憶がなかった。

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