7_さて! 土曜1時
どれなら爽やかに見えるか。こんなに鏡を見るのは就職面接以来だ。髪はこの前の初訪問前にカットしている。不自然にワックスか何かで固めるのをやめた。笑い方の練習も止め。自然体でいたい。
実家に行って改めて思った。自然体が一番いい。喋り方、的確な質問に的確な回答。そうではなくて、ぎこちない会話。咄嗟に出る言葉。上手く行くか行かないか相手のミットが見えない状況での会話のキャッチボール。それを楽しみたい。きっと宇野家ではそれが出来る。
不安で怖くて楽しみな宇野家訪問。失敗したくない。でも失敗しても自分が正直ならきっと許される。許してもらえなかったらちゃんと謝って、訂正して、分かってもらいたいという姿勢を見せればやり直しのチャンスがもらえるかもしれない。つまり望みがある。
もう一度鏡を見る。薄い青一色のシャツに、ジーンズ。羽織るのは薄手のグレイのジップアップパーカー。
(砕けすぎか? でもきちんとし過ぎた格好は気を許していないっていう表明になるかも)
変なところで計算してしまうのは、きっと実家に行ってきた名残なのだと思う。あの一日で一ヶ月分くらいの緊張を使い果たしてしまった。楽でいたい。
1時ということは、昼食を一緒に取らなくていいと言うことだ。これは広岡にとっては有難い。食事から始まったらきっと会話と食事とを並行出来ない。それはまだ無理だ、もっと打ち解けてから。
格好については納得することにした。いつまで見ていてもキリがない。今は10時半。次は土産だ。あえて哲平にも莉々にもアドバイスをもらわない。有名店はだめ。気取り過ぎた箱や包装の物はやめよう。哲平を見て分かることを考える。
(アイツはそういうことに関心を持たない。自分で食べて美味いものを選ぶ。そういうヤツだ)
昨日も考えたのだ、食べたことのある物。自分の中での鉄板。
(駅ビルにある煎餅屋。あそこは煎餅と和菓子をお好みで選べる。箱も普通だし。やっぱりあそこにしよう!)
後、どうしてもおさらいしておきたいこと。パソコンを起ち上げる。お気に入りに入れた幾つかの将棋入門のサイト。そばに目覚まし時計を置いて読み直す。何度も読んだところを。
(……俺も将棋買おうかな)
この何気なく思ったことが広岡を救うことになる。
5分前に宇野家に着いた。左手には紙袋に入ったお菓子。チャイムを押した途端に玄関が開いたから驚いた。
「いらっしゃい、まぁくん!」
後ろを振り向いて大声で言う。
「私の勝ちっ! ね、ちゃんと5分前にチャイム鳴ったでしょ?」
広岡に向き直ってにこっと笑った。
「ありがとう! 今日の買い物当番一知花
正解の答えは何だろう。
「……良かったね」
「あっそ!」
すぐに一知花か二知花の突っ込みが入って首を竦める。
「いーの、いーの。入って」
「あ、これ。皆さんで」
「わっ、ありがとう! お土産貰ったよー」
茉莉が飛び出してくる。
「なに?」
「行儀が悪いわよ!」
一知花か二知花の叱責が飛ぶが茉莉は袋を覗き込んだ。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
笑って返した。明け透けな茉莉が今のところこの家で一番の味方だ。台所に入った茉莉がビリビリと包装紙を開けるのが聞こえる。
「お煎餅と大福だよ!」
大福と聞いて出てきたのは勝子。
「あら、この大福大きい!」
笑いがこみ上げてくる。
(いい! この家、絶対にいい!)
哲平はなるべくしてああなったのか。すごく分かる。
(確かにこれじゃちょっとやそっと頑張ったって自己主張しているようには見えないだろうな)
哲平のことを『大人しい』と言っていたのも思い出す。
莉々のお父さんがいた。部屋に入りながら「こんにちは、お邪魔します!」と言うと一瞬笑顔になっていかつい顔に戻った。
「いらっしゃい」
「この前は失礼しました。反省してます」
頭を下げると足元を見られた。
「正座は止めなさい」
途端に自分で真っ赤になるのが分かる。慌てて胡坐に返ると、またしても彦助の顔が緩んで、引き締まった。
「もう騒ぎを起こして欲しくないから」
なぜか言い訳に聞こえた。
莉々が冷たいお茶を持って来た。うっすらと汗をかいている広岡は(助かった!)という顔を莉々に向けた。笑顔が返る。お盆を持ったままそこに座り込んだ。
「で、お父さんが言ったから来たんだよ。なにをどうすればいいの?」
(ば、ばか、そんな風に言ったらお父さんが困るじゃないか!)
「何がしたい?」
自分にその質問が回されて焦る。莉々に助けを求めようと顔を向けると、唇で(ほら)と返事が返って来た。恐る恐る返事をする。
「将棋を、教えてもらえませんか?」
「将棋?」
彦助が莉々を睨んだ。
「君はそれをすれば私の機嫌が取れるとでも吹き込まれたのか?」
(う!)
図星を刺されるとたいがい自爆する広岡。
「それもですが! でも教えてほしいです。まだ莉々に……莉々さんに一度も勝てないで用を言いつけられてしまいます、勝ちたいです!」
あの後、莉々が少し相手をしてくれた。
『私が一回かったら一つお願いを聞いてね」
そして4回負けた。1つはいいと言うまでマッサージをさせられた。後の3つは『貯めとく!』と言われてしまった。
じゃ、と彦助は将棋盤と駒を取りに行く。その間に莉々にこそっと言う。
「莉々、怖いよ。まるでだめって分かったら怒られるかな」
「ううん、喜ぶと思う! それに私も楽しみ。いい? お父さんに教わった後私とやって負けたらまたお願い聞いてね」
言い返そうとした時に彦助が戻ってきた。理不尽だと言いたかったのに言えない。(じゃ楽しみにしてるねー)と小声で言って台所に行ってしまった。女のお喋りが始まっている。
「この大福、美味しいねぇ」
「わざと大きな声で言わないでまぁくんに『次も買ってきて』って言えばいいじゃない」
「そんな強制的なことは言わないよ」
また大きな声。
(買ってきます、いくらでも)
お母さんを可愛く感じた。
「よそ見しないで。いいか、こうやって配置する時に気持ちを整える。将棋に向かい合う。最初の一齣をどこに打つか、相手がどこにどう置いたらどうするかを想像する」
「出来るんですか? 始まってもいないのに考えるなんて」
「今は無理かもしれない、だがそういう思考回路を自分の中に習性づけておくことが大事だ。上手い相手はそれをするし、相手が先手なら打ち方の傾向が掴みやすい。目標は私に勝てるところまで」
「あの、それは無理かと……」
「男子たるもの! 低い目標は人間を小さくする。心するように!」
「はい! お父さん、カッコいいですね、すごく大きい人だと思います」
つい、思うままに言ってしまったが彦助が真っ赤になったのを見て驚いた。途端に勝子が飛んで来た。
「そう思うかい!? 思うよねぇ、あんた見る目がある!」
「母さん、父さんは今のうちに広岡さんに自分の印象を男らしいって擦り込みたいだけでしょ」
後ろから来た一知花か二知花が言い、さら後ろから来た一知花か二知花が言葉を重ねた。
「今の内だもんね、カッコよく思ってもらえるの」
勝子が口を開ける前に広岡は言ってしまった。
「お父さんの素晴らしさを家族が分かってないなんて罰当たりです!」
自分の父となんと違うことか。
「広岡さん…… いや、『まぁくん』って私も呼ぶよ」
広岡の手を両手で勝子が握りしめる。意外と勝子は握力がある。
(痛いです、お母さん)
「父ちゃんの真の姿はあんたの見た通りだよ…… 嬉しいねぇ。そうだろ、父ちゃん? 父ちゃん、私はこの子と莉々を結婚させるからね。そのつもりで」
(あれ? 言ってたことと微妙に違ってないか?)
将棋の勉強が始まった。並べ終わった後、それぞれの駒の役割、使い方、基本的なルールを広岡に言わせていく。その中で違っているところを彦助は訂正していった。
「なるほど!」
「そうだったんですか!」
「へぇ!」
実父とは違う教え方に感動。まず喋らせてからの修正だから混乱が少ない。間違っているのがなぜかまで言ってくれる。頭に沁み込むまで待って、再度広岡の口から聞く。そのうちに彦助の手が止まった。
「おい…… どうした?」
気遣わし気な声になっている。
「え、何か?」
「何か悪いことを言ったか? なんで泣いてる?」
慌てている彦助。立ち上がって走って行き、タオルを掴んできた。
「ほら」
言われるまで気づかなかった、泣いていた、本当に。
(お父さんと違う)
そう考えていただけだった。
「すみません…… たいしたことじゃないです」
「男子たるもの! 泣くには大きな理由があるだろう。だが聞かずにおく。話したくなったらいつでも聞くから」
いつの間にか来ていた勝子の相の手がすかさず入る。
「男だねぇ……」
顔を拭きながらくすっとなる。
(お母さん、お父さんにべた惚れなんだなぁ)
なんとなく嬉しい。
真っ赤になったままの彦助が多少荒くなった息で聞いて来た。
「君、ちゃんと将棋盤を持っているか?」
「持ってないんです。紙に書いた碁盤に紙の駒を動かすんですが、それが厄介で。すごくやりにくくて」
彦助がすっくと立った。
「将棋盤を買いに行こう! 私が選んでやる」
彦助は嬉しかった。哲平にも教えたがあまり興味を持ってくれなかった。駒の采配は上手いのに、本人がやりたいと思ってないから教えがいも無い。だが広岡は食いつくように話を聞いてくれる。しかも何が原因かは分からないが泣いていた。そしてそれを胸にしまった。彦助の父性本能が働く。あまりそれを必要として来なかった哲平に比べ、広岡には手を差し伸べてやりたい。
「着替えてくるからちょっと待ってなさい」
急な展開に広岡は何も言えなかった。
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