6_激突!

 広岡は莉々の実家を乗り越え、別の敵地に乗り込むところだ。これは誰の力も借りるわけには行かない。何より、莉々に知られてはならない。

(これは純粋に俺の問題だ)

 今回は必要なものを先に摂取した。薬だ。それも倍の量。難攻不落の城に討ち入る。ただ、負けたとしても敵陣に下るつもりは無い。別れを告げるだけ。


 深呼吸をしてチャイムを鳴らした。


 庭は型通りに手入れされている。雑草は生きることを許されていないかのように殲滅され、芝は測らずともきっちり20ミリを保っているだろう。美しさと維持のしやすさのバランスがいいとされている長さだ。家の周囲も塵一つ無く、玄関はあまりにも完璧に維持管理されているからまるで入ることを拒まれているようにも見える。

 つまり、これはモデルハウスと変わらない。それも外壁しか見せないモデルハウス。その管理をしているのは母だ。この家では役割分担が粛々と遂行されており、そこに疑問を持つことさえ奇異なこととみなされる。

 そして、自分はこの家の『奇異の塊』なのだ。


『どちらさまでしょうか?』

「ご無沙汰してます。真伸です」

『少々お待ちください』

 少ししてドアが開いた。白のスカートにベージュのアンサンブル。髪はショートで細い顔には細くて黒い枠のある眼鏡がある。

(相変わらずキツイ顔だ)

母なのに温かく感じたことが無い。どこの世界に訪ねてきた息子に『少々お待ちください』などと言う母親がいるだろう。


 私立女学校の教師をしている母は辛辣だ。父は進学校の教頭。その下で一人っ子の長男はいつも抑えつけられて育てられてきた。テストは最低で85点以上。成績は上位を保たねばならない。

 広岡のパニックが始まったのは高校受験の時だ。受験すべき高校は父が教頭をしている学校ただ一つに絞られた。成績は良かったが父は推薦入学を許さなかった。自分が手心を加えたと見られるのを嫌ったからだ。

 重圧は重かった。カロリー計算された食事。両親に立てられたスケジュールの中での勉強。週1度父から出されるテストは90点以上必須。母から出されるテストは3日置き。

 そしてある日頭が働かなくなった。続けて50点以下を取った広岡は、毎日テストをされた。シャーペンを持てない、問題が頭に入ってこない、答えをどこに書いていいか分からない。

 やっと広岡の異常に気付いたのは、パニックが高じて窒息感を訴え呼吸困難を起こし救急車で運ばれた時だった。

 病院のベッドの横で両親は呆れたように言った。

『情けない。広岡家の長男が』


 父の学校への進学は敵わなかった。ぎりぎり公立高校に補欠で受かった。父が話しかけてくることは減り、家の中で味わうのは疎外感と屈辱感。

『広岡家の息子なのに』

『期待するだけ無駄』

『まさか負け組の息子を持つなんて』



「久しぶりですね、真伸さん」

「お母さん、お元気そうで何よりです。今日は大事な話が合って来ました。お父さんもいますか?」

「どうぞ」

 他人行儀なこの会話、両親にはこれで普通なのだ。宇野家とのギャップが激しい。


 居間に案内され、茶托に載ったお茶が出た。時間を見計らったように父が書斎から出てきた。

「元気そうだな。相変わらず薬の厄介になっているのか?」

 心配しているのか、侮辱しているのか。間違いなく後の方だと広岡は思う。

「お蔭さまで症状はだいぶ良くなりました。今日はお父さんとお母さんにご報告があって来ました」


 5月なのだ、冬じゃない。なのにこの家の中では冷気しか感じない。莉々をこの家に入れたくない。


 母が座るのを待って両親の好む『きちんとした座り方』をする。背筋をピンと伸ばし手は軽く握って両膝の上。

「結婚を前提としておつき合いしている女性がいます。ご両親にもご挨拶しました」

「どういう方ですか? 学歴やご家族の系図などを用意して来ましたか?」

 母だ。こんな教師に教わる子どもたちは可哀そうだと思う。

「いえ。彼女は宇野莉々さんといいます。僕より一歳年下です。彼女のお兄さんは私の上司です」

「上役の妹さんか。出世に繋がるのだな?」

「お父さん、それを考えてのおつき合いじゃありません。この先もこの結婚による利益というものは発生しません」

(莉々、ごめん…… 君のことをこんな風に説明するしかないなんて)

「ならなぜ結婚するんだ?」

「彼女を心から愛しています。それだけでいいと思っています」

「愛だけで結婚? お前の成長は止まったままか?」


 もう帰りたい。そもそも報告の必要があるだろうか。理解さえ望めないのに言えば言うほど莉々を辱めて行くような気がしてならない。


「どう仰られても構いません。結婚するつもりだと言うことをご報告に来ただけですから」

「その女性の最終学歴を言いなさい」

 カッとなった。この家で感情を露わにしたことはほとんど無い。

「学歴が全てじゃありません、お母さん」

 恋愛結婚ではないこの二人に自分たちのことが分かるわけがない。見合いをする前に互いの学歴書を交換し結婚に至った両親は、まるでAIだ。

「では六大学ではないのですね?」

「彼女は高卒で、自分のことをきちんとコントロールし分別を持った女性です。僕は彼女を誇りに思っています」


「……高卒? 大学に行かず何をしていたのですか、どこかの事務員でもしているのですか?」

「高校を卒業して、彼女はすぐに単身でノルウェーに行きました。大胆でウィットに富んだ魅力的な人です」

「ノルウェーに留学ということですか?」

「いえ。観光船で料理見習いをしていました。彼女の料理は本当に美味しいですよ。彼女と食事をする時、いつもお喋りをしながら楽しい時間を過ごしています」

「食事中は喋るべきではありません」

「観光船で料理見習い…… 彼女の操は?」

「あなた、それは下品ではありませんか?」

「大切なことだろう」

「僕はそこに関心はありません。彼女の本質を愛していますから」

「どちらにしろ、その結婚はおやめなさい。結婚は一種のステータスでもあります。どこに出しても恥ずかしくない妻を」


もう、ここまでだ。


「お母さん! 僕は恥ずべき人と付き合ってはいません。彼女は尊敬に値する女性です。『生きる』ということや『思いやる』ということを理解出来る人です。彼女がいれば僕は幸せです」

 立ち上がった。

「ご報告は以上です。彼女は一緒にここに挨拶に来たがっていますが今日は一人で来ました。今後のことは二人で話し合って決めていきたいと思っています。失礼します」

「待ちなさい。真伸、1ヶ月ほどこの家に彼女を預けて見ないか? きちんとした花嫁修業にもなるだろう。本当に広岡家の嫁として相応しいのか見極めたい」

「お父さん、その必要は無いです。僕が彼女に相応しいか、僕にはその方がもっと重要な問題なんです。僕はお父さんお母さんに理解してもらうより、彼女のご両親に認めてもらうために努力します」

 広岡は返事の無い両親に頭を下げて家を出た。



「まぁくん、お家に私も伺わなくちゃ。お父さんとお母さんにご挨拶したいの」

「そんな心配しなくていいから。莉々の気にすることじゃないよ」

「良くないよ、そういうの! まぁくんは一人息子でしょう? きっと『嫁になるのはどんな娘だ?』って思ってるよ。私は自分の口で『よろしくお願いいたします』って言いたい」

 広岡は莉々を抱き締めた。さっきまで愛し合っていたから互いの肌がしっとりと汗ばんでいる。これは心地いい汗だ。昼間は寒気すらして汗も出なかった。莉々の唇に小さなキスを落とす。

「僕には土曜の1時っていう大事な約束があるんだ。今はそのことだけ考えたいんだよ。ね、どんな賄賂ならお父さん、喜んでくれるかな」

 莉々がくすりと笑う。

「そうねぇ、将棋とか一緒にしたらどうかな」

「駒の役目くらいしか知らないよ!」

「それはお誂え向き! 教えてほしいって言えば父さん、イチコロよ」

 頬にキスする。

「悪い娘だ、俺を将棋で売るつもりだな?」


 からかうつもりで重ねた唇がゆっくり深くなっていく。広岡の手が莉々を愛していく。重なり合えば莉々の口から愛らしい声が漏れ始めた。その声に蕩けながら、今はこの声だけ聞いていたいと思った。

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