5_地獄に仏……?
「来たよー」
「こんばんわー」
頭がぐわんぐわんしていて声の主が判別出来なかった。上から声がして誰かが下りてきた。
「兄ちゃん、お帰り! 千枝さん、いらっしゃい!」
「お土産、今日はシュークリーム! 後でみんなで食べよ」
「わぁ! 千枝さん大好きっ!」
(哲平か? 哲平が来たのか?)
途端に涙が滲んできた。地獄に仏。この危機的状況を乗り越えるにはもはや自力では無理! と諦めかけていた。
千枝はそのまま茉莉と台所に行ったらしい。賑やかなお喋りが聞こえる。
「よ! 頑張ってるか?」
哲平は姉妹が座っていた場所に胡坐で座った。さっきまでそこからは広岡目がけて手榴弾が投げられていた。今は目の前に彦助。左に莉々。右に哲平。
(てっぺいーーー)
泣きそうな顔を見た哲平がにやっと笑った。
「莉々、話どこまで行った?」
莉々がため息交じりに説明した。
「今、広岡さんが私のことを『ちゃんと自分から押し倒して抱ける!」』って宣言したところ」
目を丸くする哲平。
(そうだよな、こんな大事な日に一体何を言ってるんだ、俺は…… さすがに哲平も呆れ)
「やるな! すごいじゃないか、広岡! ウチの連中にやられてパニック起こしてるかと心配してたけどそこまで言えたのか!」
(このお兄さんは自分の妹が押し倒されたと言われても平気なのか?)
「哲平! そこまでって、そこまでの過程を知っていたと言うことか!」
「知っちゃいないけどさ。だって打ち明けられたの一昨日だもん。まさかこんなに早くここに来るとは思わなかったくらいだ。お前って見かけによらず度胸あるよな」
気が抜けている。哲平の顔を見たせいもあるが、莉々が再現した自分の言葉はあまりにも生々しく自分の耳にヒットした。なのにそれを哲平は褒めている。今日一日でエレベーターで1階から100階まで何回往復していることか。心拍が早い。息が切れそうだ。
「こいつさ、真っ正直なヤツなんだよ」
「そうみたいだね、言わなくていいことまでぺらぺら口にするんだから。こんなに口の軽い男に莉々を嫁にやってお前は平気なのかい?」
「母ちゃん。娘を信じろよ。それに俺のことも。そういうヤツならここに来る前に俺が撃退してる。ウチの職場は人に恵まれててさ、いいヤツばっかりだよ。誰が一番って言えないくらい。でもいざって時に安心して千枝を預けられるのはこいつだって思ってる」
「哲平……」
「広岡、一昨日もだけど今日も頑張ったな。ホントに変わったよ、お前は」
あんまり哲平が嬉しそうに言うから彦助と勝子の顔が和らいだ。
「広岡さん。しばらく結婚の話は横に置いといてウチに遊びに来たらどう? 私も父ちゃんもまだ広岡さんのこと知らないから。今のところ悪い所しか見えてないし」
「すみません、穴掘って入りたいです……」
小さくなる広岡。出来るなら(莉々の実家に行く!)と決める前に戻りたい。なぜ急いだのだろう、せめて防弾チョッキくらいは用意しておくべきだったのに……
「父ちゃん、それならいいよね? 何回か来てもらってそれから考えようよ」
「お母さん……莉々さんのお母さん、ありがとうございます!」
「誰も許可したわけじゃない!」
「莉々さんのお父さん、今日の俺は良くなかったと思います。焦ってばっかりで変なこと口走って。でもそういうんじゃなくて、どんなに莉々さんを大事に思っているかを知ってもらいたかったんです。なのに…… 自分でぶち壊しました。ご不快な思いをさせて本当に申し訳ありませんでした。どうかチャンスをいただけませんか? もっと俺を知ってもらいたいです」
真剣な顔で彦助を見つめた。ここを頑張るべきだ、まずここからだ。睨んでくる目を真摯な態度で見つめ返す。哲平も莉々も口を出さない。今広岡は頑張っているのだから。
「……今度の土曜日、午後一時。君はその時初めて我が家に来る。今日じゃない。そうするならいい」
「父ちゃん……それ、『設定』って言うんだよ。止めようよ。そういう『無かったことにしよう』みたいなこと」
「哲平の言う通りだよ。いつもの父ちゃんみたいに男らしくビシッと決めておくれよ」
(『いつもの』って、いつもビシッと決めてんのは母ちゃんのくせに)
広岡のために、今それを口にするのはやめておこうと哲平は口を閉じた。
彦助はまるで不貞腐れたかのように立ち上がって広岡に背を向けた。
「今度の土曜日、午後一時」
その一言だけ言って部屋から出て行った。
「男だねぇ…… 惚れ惚れするよ」
「母ちゃんだけだから、そこでそれ言うの」
離れていく足音に広岡は大声で叫んだ。
「莉々さんのお父さん! ありがとうございますっ!」
「お茶を入れてくるから」
そう言って勝子が立とうとした。少しは広岡に気を許したようだ。
「足を崩していいよ。莉々、座布団渡しておやり」
感覚が消えていて忘れていた。足が麻痺している。正座を解こうとして動けないことに気がついた。
「て、てっぺい、手をかして」
「どうした? おい……動けないのか!? 母ちゃん、お茶より水っ! 多分こいつ、発作起こしてる! 蒼褪めてるし痙攣起こしそうだ!」
「え!?」
勝子は台所に文字通り走った。冷蔵庫を開け水のペットボトルを左手に掴み、取って返す右手で食器棚を開けグラスを掴んだ。戻るまでに約15秒。
この前広岡は薬を飲まずに頑張ったのだ。今日はさらに頑張って普段言わないはずのことまで口走った。大パニックを起こしていても不思議はない。痺れすぎて動けず喋るのも厳しい広岡のスーツのポケットを探る。
「どこに入れた!? 無いぞ、あ、尻のポケットかっ」
哲平がむんずと広岡を抱き上げた。莉々がすかさず後ろのポケットに手を突っ込む。だが無理に起こされた下半身が大きなスパークを放った。
「うあ……あ」
「広岡っ、広岡っ、母ちゃん、布団だっ! 莉々、薬はあったか!?」
「あった!」
またもや哲平に錠剤を口に入れられ、何を言う間もなくグラスを傾けられごくりと飲まなくていい薬を飲んだ。
「ち、ちが、うごかさ、ないで、あ、痛い、てっぺ、りり、やめて」
二人してすぐ脇に勝子が敷いた布団に広岡を横たえる。
「いいから! 無理するな、俺が脱がせてやる」
ネクタイは莉々が解いた。ワイシャツのボタンを外され、きちっと絞った冷たいタオルを勝子が胸に置く。
「医者呼んだ方がいいかもっ! 息が浅いし心臓がバクバクしてる……まあくん! 私を置いて死んじゃヤダ!」
「死ぬって……?」
「最近は治まってたんだ、こんなにひどい発作は初めて見るよ、父ちゃんも母ちゃんも広岡を甚振り過ぎたんだろっ!」
言いながら哲平がベルトを外しズボンを脱がせ靴下を脱がせ…… 涙目で歯を食いしばっている広岡。
(ちがう、ちがうんだ、でもしゃべれない、りり、たのむ、足もまないで)
足が硬直している! と、必死に足を擦る莉々。涙が落ちた、震える手で莉々へ手を伸ばす。
(やめて、おねがい、りり、やめて)
広岡の手を見て莉々はすぐに足から離れ、その手を握った。
「大丈夫、私、ここよ。ごめんね、まあくん、無理させちゃった……」
「なかないで、ちがう、りりの、せいじゃない」
囁くような声を聞き、勝子が「救急車!」と叫んだ……
「今度から正座は止めなさい」
勝子の声が冷たい。目も冷たい。あれから広岡は引き絞るように言った。
『あし、が、しびれて、るんです、きゅう、きゅうしゃ、いらないです』
今はもう剥き出しの足を投げ出して座っていた。かなり感覚が戻ってきて、莉々は甲斐甲斐しく広岡の足をマッサージしている。鬼の顔の勝子の横で笑い転げているのは哲平だ。そのさらに横で涙を流して笑っているのは千枝。そしてそこに茉莉が来て、何ごとかと駆け下りてきた一知花と二知花が「バッカみたい」と切ない言葉を広岡に投げつけてきた。
「面目ないです……」
情けない格好だ。ワイシャツを着て下はパンツ一枚。愛する人をいただきに来たのに、愛する人からマッサージをしていただいている。
「なんにしろ、頑張ったよ。考えて見たら1時間以上正座してたんだよな、畳の上で。お前、真面目だからピクリとも足を動かさなかったんだろう?」
その言葉で勝子の顔が少し緩んだ。
「あんたね、真面目過ぎるといいこと無いよ。哲平をご覧。こんなに大人しいのに何とかやってこれたのは真面目じゃないからだよ。今度はもっと気を楽にして遊びにおいで」
やっとスーツをきちんと戻して玄関で最敬礼した。さすがに無礼だと思ったのか、彦助も玄関に出てきた。
「本当にお騒がせしました」
「まったくだよ」
勝子が容赦ない。だが顔は少し笑っている。
「今度はスーツで来るな」
黙っていた彦助の言葉に、広岡は感動した。
「あり、ありがとう、ございます…… 今度の土曜、1時。必ず来ます」
哲平と一緒に後部座席に座った。窓を開けて見送りに出てきた莉々に手を振る。
「おやすみ!」
「おやすみなさい! また明日会おうね!」
車が静かに走り出…… いや、急発進の上、アクセルがすでに頑張っていた。
「て、てっぺい、事故……」
「だいじょぶだって。まだ一度も事故って無いんだぞ。スリル満点だろ?」
遅い時間だ、車も少ない。ギリで辿り着いた黄色信号がパッと赤に変わった。
「チッ!」
ギョッとする。運転席からの舌打ち。青になるとまるでブレーキを踏んでいなかったかのような発進に、背中が思い切り後ろに叩きつけられた。
「な! ウチのかみさん、運転が『神』だろ!?」
(宇野家……こわい)
早くも土曜が恐ろしい。
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