3_ちょっと待て

「え、あ、明日!?」

「ええ、明日」

「本気で言ってるの?」

「本気よ。お願い、まぁくん、もう腹括ってちょうだい。難しいの分かってる。でも、いつか乗り越えないと。遅くても早くても同じでしょ?」

「そ、そうだけど……」


 広岡は怖気づいていた。正直この恋愛は莉々に主導権があっていつも広岡は彼女の後押しで決意したり一歩踏み出したり。分かっている、分かっているのだ、これじゃいけないと。けれどパニックが起こりそうになる、何もかも初めての経験に。

 そして、とうとう一つの山を乗り越えることになった。それも、一人きりで。男として、恋人として、未来の夫として、この試練に立ち向かわなくちゃならない。

 手の平の錠剤を見る。いつもの倍の量。それを何度も転がす。左手には水のペットボトル。天を仰ぐ。しばし目を閉じた。そして目を開けると錠剤を道端に投げ捨てた。水を煽って空にし、ペットボトルをボックスに捨てた。

 居酒屋の入り口を開ける。


「ここ! おい、いつまで待たせんだよ!」

(明るいなぁ、お前は……)

こういう時には特に羨ましくなる。

「悪い、遅くなった」

「まったくだよ、ま、いいや。なんだよ、話って」

「哲平、悪いんだけどさ、ブースに移りたいんだけど」

「なんだよ、そんな深刻な話なのか?」

 通りかかったお姉ちゃんに早速哲平が手を合わせて話しかける。

「お願い、恵子ちゃん。どっかブース空いてる? できれば端っこがいいかな」

「しょうがないなぁ、待ってて、今片付けてるとこがあるから」

「サンキュー! いっつも思うけど恵子ちゃんの対応って最高だよね!」

「哲平さんって口が上手いんだからぁ!」

「俺、口で生きてるし」


 本当に凄いと思う。その口をたった今貸してほしい。哲平と交代したい。哲平ならきっと上手く話してくれる……

(だめだ、俺のやるべきことだ)

今こそ男として頑張らなければならない。


 ブースに移って料理も全部運んでもらった。

「何飲む?」

「なんでもいい」

「珍しいな、お前にしちゃ。なんだ? 自棄になってる? ……この前デートがどうのと言ってたよな! 失恋か? それで自棄になってんのか? ならつき合う、ビールなんて甘ったるいこと言ってないで日本酒だ!」

「失恋、って」

 その先を言おうとした。失恋じゃない、もう恋は愛に変わっている。

「ちょっと待て、まず酒が来てからだ!」

 恵子ちゃんがすぐに日本酒を持って来た。

「よし! 飲め! なんでも聞いてやる!」


 持たされた酒を見つめる。そしてトンとそこに置いた。座布団を脇に置く。両手を正座した両膝の上に。

「おい」

「哲平! ……いや、お兄さん!」

「お兄さん? は?」

「莉々と……いや、やり直す! 妹の莉々さんときちんとおつき合いしたいです! お兄さんとして許可をください!」


(い、言えた…… 薬無し、酒無しで言えた……)

言えたことにホッとして、哲平の顔付が変わったのに気づかなかった。広岡が置いたより大きな音で、ダン! とコップ酒が置かれた。

「なんだと?」

 恐ろしく静かな声。

(え?)

 大らかな哲平から攻略していこう、と莉々は広岡に知恵を授けた。誰よりも理解してくれるはずだと。


「いつからだ、そんなよこしまな気持ちで莉々を見始めたのは」

「よこし…… 違う! そういう気持ちじゃない! 俺は真剣に言ってるんだ。莉々が好きなんだ」

「莉々? 莉々さんまたは妹さんと言え!」

「哲平……」

「お前な! 俺の大事な妹をどうしようって言うんだ? かどわかして甘ったるい言葉でも囁いて毒牙にかける気か!?」

「ま、待て、ちょっと待て! 俺がどういう男か知ってるだろ!?」

「ああ、知ってる! 30が旬だって俺に言われて恋愛に焦ってる男だってな! ……あ! 結婚式ん時だな? 目を付けたのは!」


 パニックの波に呑まれそうだ。でも薬は胸のポケットの中。今哲平の目の前で薬を取り出して飲むなんて出来ない。


「俺は! 真剣なんだ、哲平! 初めてなんだ、こんな気持ち。俺は彼女に誓った、誰よりも幸せにするって。そのために男として努力したいって。こういうこと、俺は苦手だ、正直荷が重い。今日は薬も飲んでない、飲みそうになったのを道路に捨ててきた。そういう力を借りずにお前に話したかった、莉々とのこと。俺は、俺は彼女を愛してるんだ!」


 哲平は腕組みをしてじっと広岡を見た。その目を広岡が見つめ直す。

「合格!」

「へ?」

「結婚しちまえ、莉々と」

「哲平?」

「認めるよ。っていうより、莉々が認めたんだもんな、お前を男として。ただ俺は確認したかっただけだ。お前の思いがどれくらいのもんかって。兄ちゃんとしては当然のことだろ? 大丈夫だ、お前なら安心して莉々を任せられる。この言葉、莉々には内緒な? 任せるなんて言ったら俺が『なに様だ!』って怒られちまうからさ。さ、飲めよ。座布団使えって」


 気が抜けている。目の前の男は笑って……笑って?

「哲平! お前、俺を試したんだな!?」

「そうだよ」

 何が悪い? といわんばかり。

「ふざけんな、俺はどんなに心ん中じゃ震えてたか!」

「怒るなよ、兄心ってやつだ。分かるだろ?」

「分からん! 俺は真面目に言ったんだ!」

「分かってるって、ちょっと待てよ、悪かった。ホント、ごめん! でもな、俺見直したよ。薬も飲まなかったって? すげぇ! よく言えたな、それで」

 そうだ。こんなに大変なことを薬無しで言えた。飲まない決意を自分でした。

「哲平……俺、いいんだよな? プロポーズして」

「あ、それはだめ」

「だめ? なんで?」

「お前、俺で終わりか? じゃないだろ? 肝心なの、落としてないじゃないか。娘を嫁に出すのって、親父に取っちゃ莉々が初めてだ」

 あ! という顔の広岡。

「頑張れよ、今日の調子で。いい予行練習になったろ? 今お前は『父親にとって最大の敵になる』って宣言したんだ。健闘を祈る!」


 やっと一山。目の前の小山に『うん』と言われてその向こうの大山に目を向けるのを忘れた。

(もう一度? もう一度頑張るんだよな?)

 次の山はデカい。そう思った。デカすぎる。

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