2_待望の

 悶々とする夜のデートを何度過ごしただろう。そろそろ自分からアプローチをするべきだろうか。

 相手は海外で暮らしていたのだから日本の奥手男にいつまで興味を示してくれるだろう? その辺りが不安で不安で仕方ない。

(この恋愛が上手く行かなかったら……きっと次の恋愛は30年後だ)

 30年近く生きてきて初めてのおつき合いなのだ。周期としてはそれくらいになると思っている。


 堂々と『結婚』の金文字を頭に掲げている哲平が酔っぱらうと言う。

「お前、いいの見つかんないの? 男の旬は30よ」

(その『いいの』って、あなたの妹さんです、お兄さん)

そして次の言葉が出てくる。

(経験無くて女性を抱く時、何に気をつけたらいいでしょうか、お兄さん)

 だんだんそれがストレスに近づきつつある。


 そこで別のストレスが最近広岡を蝕んできた。ストレスというより、ジレンマにも似たものだ。

(結婚の申し込みもしない内にそんな行為に及ぶなんて道徳的にどうなんだろう)

 なまじ固い両親の下で育ったばかりに、男の欲求の合間合間にそれが見え隠れするようになり始めている。

 周りの結婚した男たちを考えてみた。花はきりりと自分で決断する男だ。何の迷いもなくプロポーズし夜を共にしたことだろう。

 池沢は大人だ、三途川も。だから余裕のある付き合い方をしたに違いない。

 小野寺は? あれは参考にならない、若いからぐいぐいと勢いに乗って内気な砂原を我がものにしたに違いない。

 柏木は論外だ。日本人枠を超えている。

(誰も参考にならない……)


 同期で上長の兄を持つ、海外帰りで活発なうんとうんと美人の彼女に童貞男が愛を囁くにはどうしたらいいのか。

(俺、変なところで煮詰まっているのかもしれない)

そうは思うのだ。それより先にきっと大事なことがあるに違いない。けれど『童貞』という負い目が重く重くのしかかっている。

(慎ましく過ごしてきた俺にこんな罠が待っていたなんて)

男の劣等感が『正常な広岡たるもの』をなし崩しに粉砕していく……


「広岡さん、この頃変だよ」

 ジェイだ。思わず『おいで』をして近寄って来たジェイを抱き締めた。

「ジェイ、俺はだめなヤツなんだ…… どうしていいか分からない。これから先……どう生きて行ったらいいんだろう……」

 それがまずかった。ジェイは躊躇いが無い。広岡を揺さぶりながら大きな涙声で叫んだ。

「広岡さん! だめだよ、負けちゃ! きっといいことがあるよ、そんな……死んじゃうなんてだめ! 生きるのを諦めちゃだめだよ!」

 オフィスがしんとしたと思ったら飛んで来たのは哲平と花。

「何があったんだ! 思いつめるな、広岡! 俺がそばにいる、なんでも相談しろ、早まるな!」

「広岡さん、水臭いよ! そりゃ俺なんか頼りにならないかもしんないけど、いくらでも言ってよ、抱え込まないで!」

 そしてとどめが来た。

「広岡、ミーティングルームに来い」

 有無を言わさぬ声、口調、真剣な目つき。

「……はい」


 いろんないい話をしてくれた。上長として、男として、仲間として、最後には友人として。

(課長…… 本当に熱くて頼りになる人だ…… でも今の俺にはちょっとピントがズレてるんです……)

 そこで閃く。課長は昔人事の女性と付き合っていた。今は女性との噂を聞かないがもしかしたら恋愛相談に乗ってくれるかもしれない……?

「課長! 俺、今すごく悩んでいることがあるんです」

 思い切って言ってみた。課長が真剣な顔で次の言葉を待っている。

「どう……」

(童貞で女性に愛を囁くのは29歳ではもう遅いでしょうか)

「どう、その次は?」

「どう……どう目の前の問題をクリアしたらいいか分からなくて」

 質問の趣旨としては間違ってはいない。

「どんな問題だ?」

「どう……」

(どう言ったらいいんだろう)

さすがに最初の2文字しか口から出てこない。

「広岡、何でも言え。俺はお前の力になりたい」

「どう……どう巡りしてるので、もうちょっと頭が整理ついたら相談に乗ってください」

「無理には聞かない。だがお前のためにいつでも時間を空けるからな」



 疲れていた。悩み過ぎだ。莉々の顔を見ていて苦しい。

「広岡さん…… 私といて楽しくない? 私って図々しいからごめんなさい。気がつかないことが多いんだと思う、ガサツだから」

「何を言ってるんだよ! 君みたいに女性的で可愛い人と一緒にいられるなんて、こんな幸運な男は他にはいないっていつも思ってる……怖いんだ、いつか君を失うかもしれないと思うと。いや、聞いてほしい。俺は今まで女性との恋愛なんて夢のまた夢だと思っていた…… こんなに愛しく思える人が見つかるなんて思いもしなかった。自分の人生が鮮やかに彩られて…… これは君のお蔭なんだ。なのに俺は…… なのに俺は君にどう接していったらいいか分からずにいる……」

 悩みと迷いのドツボに嵌っている広岡に、今理性が全く働いていない。だからこそ言えた、心の中のことを全部。

「広岡さん、マンションに行ってもいい? お願い、はしたない女だなんて思わないで。広岡さんに軽蔑されるのは耐えられないもの。でもこんな気持ちになったのは初めて。お願い、今夜私、帰りたくない」


 頭に莉々の言った言葉が浸透するのに恐ろしく時間がかかった。今はかたつむりが制限速度を守って進んでいるような感覚だ。

「あの、確認させて。帰りたくないって……泊まりたいってこと?」

 真剣に頷く莉々の手をその時にはもう掴んでいた。喫茶店にでも入るつもりだった広岡はそのまま道路に向かって手を上げていた。


 タクシーの中で無言で手を握ってくる莉々と指を絡めた。もう頭に『童貞』なんて言葉はチラとも出てこない。

 マンションの鍵を開ける前から口づけていた。縺れ合うようにそのままドアを開け靴を脱ぎ飛ばし、後ろ手に鍵をかけ、ベッドへ着くまでに互いを脱がせ合った。頭の芯まで痺れる感覚。本能は考える必要も無く広岡を衝き動かしていく。細身の莉々をしっかりと抱き締め肌に手を這わせた。若く艶やかで弾力性のある莉々の体が広岡の手の下で震え、跳ねる……


 気がつけば全てが終わっていた。自分の腕枕に頭を乗せているのは莉々だ。夢の中にいるようで、その愛らしい唇にまたキスをした。今度はうっとりとした顔で莉々が広岡の唇を舐めてくる。主導権が莉々に移る。

「私が……初めてなんでしょう?」

 素直に頷いた。

「ありがとう…… 私、嬉しい!」



 結局、悩んでいたハードルを呆気なく飛び越えた広岡は、何を悩んでいたのかさえ忘れてしまった。

「広岡、時間あるぞ」

「広岡、一人で悩むなよ。お前は俺の大切な同期なんだから」

「広岡さん、良かったら帰りに飲みに行かない? 洒落たお店見つけたんだ」

「広岡さん、俺そばにいるから。落ち着かない時はいつでも言ってね」


 晴れやかな声で広岡は答えた。

「すみません、今夜デートなんです。みんな、心配してくれてありがとう!」

 いそいそとオフィスを出て行く広岡を見て呟きが漏れた。

「まさか恋の悩みだった?」

 異口同音の3人の声。

「『どうしていいか分からない』って言ってたけど。広岡さん、何したかったんだろう」

 その言葉の真意を汲み取れる者は誰もいなかった。

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