007 薬箱(前)
姉弟が必死になって逃げようとしている。
それは多鎖にもすぐに伝わった。
「うわっ、なんだってんだ」
自分の左側のすぐ横の空間が裂けて何かが現れようとしている。
立ち上がる途中で、足がもつれて尻餅をついた。
姉弟はその背中に隠れる。
が、そこに見えたのは彼には見慣れたものだった。
「ん?」
幅30cm、7段の焦げ茶色のそれは、
自室の本棚の横の隙間にちょうど良いと購入したスリムチェストだ。
一番下の引き出しを引く。
「どういう理屈だ?」
薬だ。
脳梗塞の処方薬の他にも、頭痛薬や風邪薬、絆創膏などが生前の配置のままにある。
上の段も次々に開けていくが、すべて記憶のままだ。
天板の上におりたたみ傘やジョギングの際に使っていたスマートケースまで載っている。
外観で異なるのは、天板の正面に刻まれた数字と点灯したボタンらしきものくらいだ。
[主人として、再誕祝いに贈り物の一つくらいやらねば、な]
元はすべてが多鎖のものだが……。
「食事はおじさんに任せろ」
そう言って、4-5段目から非常食を取り出した。
本来はそこにはPC関連の外付けHDやUSBメモリなどの記憶媒体にカードリーダーや各種コード類などが入っていたのだが、終活で記憶媒体は通帳などと共に
洋服タンスなども処分して、アウターは
非常食の定番とも言えるパックライスとレトルトカレーもあるが、今の姉弟に刺激物は避けたほうが良いだろう。
暖かくて、お腹に優しいもの……これだな。引き出しをすべて締めれば、黒の裂け目も閉じた。
非常食と言っても、ホームセンターの災害グッズ売場に有りがちな乾パンやパン缶、おこわなどはない。袋麺はあるが、場所を取るカップ麺はない。
有るのは近所のスーパーやコンビニで買えるようなものばかりだ。その方が、
釜戸には火が入っていた。埋め火はしっかりと守っていたようだ。
木皿に大匙で人数分の分量を出して鳥ガラ出汁を振って、お湯が沸くのを待つ。
沸いたら、それをざっと鍋に空けて、タレ味の焼鳥缶も放り込んで少しの間、かき混ぜるだけだ。
出来たのは焼鳥風味のポリッジ(オートミール粥)だ。
オートミールは多鎖が嚥下に障害が出てから使い始めたが、米粥よりも圧倒的に調理時間が短い。
「食べてごらん」
そう言って、多鎖自身も木匙で口に運ぶ。
姉弟からすれば、得体の知れないテカテカした袋と金属の缶から出てきたものだ。しかも、それらは怪しさ満点の黒の裂け目から現れた。
匂いを嗅ぐ。
食べている多鎖の様子を確認する。
一掬いした木匙には肉片がのっている。意を決した表情で口に運び、目を丸くした。
朝めしと昼めしを一緒にしたと言うならば、“あひるめし”か。
道理で幼い子らががうがう言いながら食べているはずだ。
肉片を見つけると動きが止まって目を輝かせるのが、見ていて快い。
「大丈夫だ。なくならないから、しっかり噛んで、ゆっくりとお食べ」
ねいちゃは頭を撫でる手も気にならないらしい。先程まであった野良猫ばりの警戒心はどこにいったのだろうか。いや、猫は喰ってる最中に手を出したら威嚇するな……。
さてと、食べ終えたら、身だしなみと健康状態のチェックだな。
姉弟を連れて。水路際の共同の水場に移動する。
水路からは水車で水が組み上げられ濾過されて、台に常に水が流れるようになっている。恐らくは、ここで炊事や洗濯をしているのだろう。それらしき道具が散見された。
たくさんの鍋でお湯を沸かす。
その間に、卓と椅子に水を掛けて、ヘチマたわしのようなもので洗う。暖かい日差しですぐに渇くだろう。
「どこか、痛いところはないか」
触って、目視で確認していく。弟くんの足裏の裂傷が一番ひどかったが、幸いにして化膿している様子はない。
手の爪を見る。
爪を押す。血の返りが遅く感じる。やはり、食料事情に問題がありそうだ。
「よっし、じゃあ水浴びをしていくか」
外套を脱いで干し台に掛けて腕まくりをして、自分にも気合を入れる。
洗濯用だろう大きなタライに水を張って、お湯を足してぬるま湯にする。
三つ用意した。姉弟と替えの分だ。
きゃっきゃっ。
良かった。二人とも水を嫌がる子じゃなかった。
シャンプーはないが、固形石鹸はある。
「よーし、自分でゴシゴシしろー。ゴシゴシー、ゴシゴシ―。
きれいになったな。じゃあ、じぇいはねえちゃの背中を洗ってやれ。上手だなー、次はねえちゃに洗ってもらえー」
石鹸をつけたタオルを渡して、自分たちで身体を洗わせる。
「目をぎゅっとつむれ。目がイタイイタイになるからなー」
急いで髪の毛を洗う。ぬるま湯で流す。弟くんが、ばふぅーと息を吐いた。
「よぉーし、ちょっと、ねえちゃの方に移動しろー」
タライの水を交換して、次はねえちゃの番だ。
「どうだ、さっぱりしたか」
「「うん」」
「良かったー」
椅子に立たせて、タオルで身体を拭いていく。
で、着替えだが案の定、持たされてなかったので、多鎖の下着を代用する。
身長が1cm縮んで178.5cmになった多鎖だが、彼の半袖の下着は幼児たちにはワンピースの丈になった。
腰を紐で結んで、椅子に座らせておく。
パンツはタオルをふんどしのように使い代用した。見た目がおしめの様で二人は嫌がったが、今晩だけだからと納得させた。
そして、姉弟が着ていた服を洗う。穴が開いていたりするが、着れないことはない。ちなみに二人とも下着はつけてなかった。こちらの習慣なのかは判断がつかないが……。
その間、幼児たちは幼児たちはふぅふぅしながら、ココアを飲んでいる。飲料の備蓄は別の場所だった。ココアは食物繊維を多く含んでいるそうだ。整腸作用の一助にならないだろうか。
どうすっかな、寝具の敷布……明日にしよう。予想以上の重労働だ。左半身の後遺症のことを忘れるほどにはきつい。
左手を確認する。温痛覚がないから、切れていても感じない。リハビリのために買ったフードプロセッサーを洗った時に、シンクが血だらけになってから左手に裂傷がたくさん出来ていたことに気付いた事件以降は気を付けろようにしている。
服を干したら、次は弟くんの足の治療だ。
「痛かったら、言うんだぞ」
傷口は渇いている。ティッシュをあてると少し血がにじんでくる。
ねえちゃが覗き込む。
興味を持っているというよりも、弟くんに変な事をしないか、見ているつもりなのだろう。(ねいちゃは治療そのものは、母親の施術を見ている)
化膿止めの軟膏を塗って、ガーゼをあてて包帯を巻く。周囲の細かい傷にはワセリンを塗る。そして、100均のレジ袋で足を包んだ。
チューブの軟膏を使った時に、匂いを嗅ぎにいったが、「臭くない」と首を傾げていた。
ねえちゃの方は、手にすり傷があったので絆創膏を貼る。そして、二人そろって薬用ハンドクリームで手を揉ませる。
手の匂いを嗅ぎっこして喜んでいる。オレンジパウダーが入っているからね。
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