第15話 芦花

「今日も良い天気だことで」


芦花は美術館の駐車場の車の中で一人呟いた。

心づもりが不十分なまま、この時がきてしまったことを少しだけ後悔していた。

今日は11月28日。

現在時刻10時00分。

あと2時間で正午。

イブキトラノオの予告した時間になる。

イブキトラノオの予告には正午と言っていた。

しかし正確には何時に盗むかは分からない。

いつものことなら1時間前後はずれる可能性はある。


今日のミズノト美術館は臨時休館である。

しかし駐車場は開放されていて、マスコミやイブキトラノオの見物客でいっぱいになっている。

警備に当たっている警察官は全部で30人。

それぞれ配置と動きは指示してある。

多くの警察官は山城の間の出入り口を見張ったり、ミズノト美術館の周囲を見張ったりしている。

ちなみに美術館の周囲にはマスコミも大勢待機している。

芦花は直接イブキトラノオを捕まえる係。


「んん?」


晴瑠が芦花の顔を覗き込む。

芦花の機嫌を伺っているかのようだった。


「まだ寝ていていいよ。イブキトラノオが来るのはもうちょっと時間があるから」


芦花は晴瑠の頭を優しく撫でた。

晴瑠はゆっくり目をつむった。

車の後部座席に座っていた芦花は、こんこんと窓ガラスがノックされたのに気が付いた。


「準備するの早くない?」


イブキトラノオがやってきた。

後部座席、芦花の隣に座り込んでくる。

芦花は、うとうとしていた晴瑠を膝の上に乗せる。


「あんたと違って、こっちは組織で動いているの。早めの準備が必要なのよ」


芦花はイブキトラノオに目も合わせなかった。

手元の手帳を見て、警備の段取りを確認していた。


「大人数を動員できる組織はいいよね。派手なことがいっぱいできて」

「影分身の術でもできないの?」

「あたしをなんだと思っているのよ?」


芸盗イブキトラノオである。


「それで、今日はどうやって盗むつもり? 出入口は警官でかためているし、ちょっとやそっとでは盗めないわよ」

「おっつしえっませ~ん!」


イブキトラノオは芦花に舌を見せてきた。


「侵入する時間くらい教えてもらえないかしら。無駄に気を張るのは疲れるのよ」

「嫌よ。あなたたち警官を疲れさせるのも、作戦の内なんだから」


イブキトラノオは晴瑠の頭を撫でていた。

晴瑠は気持ちよさそうに目を閉じた。


「このまま車を運転して、あなたを警察署まで連行しようかしら」


芦花は無理だろうと思いつつ言ってみる。


「そんなことをしたら、骨の一本や二本くらい折れるのを覚悟して、車から飛び降りるわよ」

「危ないことはしないでよ?」


芦花としてもイブキトラノオが怪我をするのは避けたい。


「それに道路も渋滞しているから、いくらパトランプを鳴らしたって、そこまで速く運転できないでしょ」


今日のミズノト美術館周辺はとても渋滞している。

干支町内外から多くの見物客が来ている。


「確かに」

「正々堂々戦いましょう。お互いそれが一番気持ち良いんだから」

「そうね」


そう。

イブキトラノオの芸術盗賊ショーは伊緒と芦花が気持ちよくなるためにやっている。


「正々堂々ついでに言っておきたいのだけれど、晴瑠ちゃんを使うのはずるくない?」

「晴瑠は警察の一員よ。ちゃんと盗賊VS警察の構図は保たれているわ」

「それはそうなんだけどさぁ。毎回この子から逃げるのが一番苦労するのよ?」

「まるで私から逃げるのは簡単みたいに言うわね」

「それは簡単だし」


腹立たしいな。


「それで、結局何時に盗みに入るのかしら?」

「ん~~~あと一時間くらいしたら準備しようかな。別にいつでもいいんだけどね」

「そういえば、なんで今回はお昼にしたの? 盗むなら人目に付きにくい夜じゃないの?」

「今回のトリックはいつでも良いからね。せっかくだし、あとで映像を見返した時に派手な方が良いかなって思ったから正午にしたの」

「そういうのも考えているんだ」

「エンターテイナーですから」


芸盗イブキトラノオは犯罪者ではない。

イブキトラノオの窃盗は犯罪ではない。

たくさんの人たちに楽しんでもらうためのショーである。

警察にも美術館にも盗みに入る届け出を出している。

盗むために美術館の人間が手伝っていることもよくあるし、警察側もショーを面白くするために人員を割いてくれている。

ただし、イブキトラノオの正体を知っているのは芦花だけである。


「ちょっと散歩でもして辺りの様子見てくるわ」


伊緒は晴瑠を座席に置いて、車から出ようとした。


「ちょっと待って」


芦花が呼び止めた。


「ん?」

「んっ」


芦花は伊緒に唇を重ねた。

静かな車内に水音が響いた。

少し驚いた伊緒もすぐに受け入れて舌を絡ませた。

甘い痺れが脳に届く。

このまま二人で溶けていくような高揚感。

しかし、伊緒はすぐに唇を離してしまった。


「じゃあ、行ってくるわね」

「もう行くの?」

芦花は名残惜しそうだった。


「続きは仕事を終えてからね」

「そうね。それじゃあ、正々堂々と勝負しましょう、伊緒」

「もう、仕事なんだからイブキトラノオって呼ばないとだめだよ」


芦花は伊緒を見送った。

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