第6話 芦花

「ただいま」


芦花(ろか)が家のドアを開けると、伊緒(いお)が三つ指をついて迎えてくれた。


「お帰りなさいませ」


伊緒は玄関で正座して、ゆっくりと頭を床に着ける。


「どうしたの?」


春照伊緒(すのはらいお)。

芦花の同居人。

普段からこういうことをする人物というわけではない。


「最近、あまり構ってくれないから、趣向を変えてみた」


伊緒はそう言って立ち上がった。

ピンクの着物を私に見せつける。

ぱっと見ただけでは着物に見えたが、やたら生地が薄い。

素肌と下着が透けて見える。

着物というよりネグリジェだった。

服の保温ステータスは無に近い。


「構ってくれないって言われても、忙しかったのは伊緒の方じゃない」

「一段落着いたから遊んで欲しいの!」


伊緒は袖を持って芦花の目の前で揺らす。

猫じゃらしを垂らして遊ぶ子供のようだ。


「その前にご飯にしましょう」


芦花は伊緒の誘いを振り切って、ダイニングに向かおうとした。

帰りの車の中で見たメッセージによると今日の夕飯はハンバーグ。

伊緒が捏ねて揉んで作ったものだ。

私は美術館で大勢の人に揉まれて疲れているのだ。

早く空の胃を満たしたい。


「かまってよぉ」


伊緒は私の後ろから抱き着く。

優しい重さがまとわりつく。

シャンプーの香りはいつものフローラル。

芦花と同じ。


「今日は何をしていたの?」


芦花は伊緒に訊く。

芦花がダイニングに向かって歩くのを、伊緒は背中にまとわりつきながら付いてくる。


「イブキトラノオの動画についていたコメントを見ながら、記事を書いていた」

「今回の見どころは何なの?」

「ミズノト美術館は広いからね。警察側もそれなりに人員を割けばイブキトラノオ捕獲のチャンスがあるかもしれない」

「美術館が広いと警察側が有利なの?」

「ん~と。例えば盗む品にたどり着くまでに、10人の目を欺けばよいのか1000人の目を欺けばよいのかだと、難しさが全然違うよね?」

「広さというよりかは、警備の人数なのね。監視カメラとか警備センサーとかは気にならないの?」

「気にはなるけどね。いくらカメラやセンサーで見つかったとしても、最後に泥棒を捕まえるのは人だからね。大事なのは捕まえる側の人の能力よ」

「こんなふうに?」


芦花は、まとわりついていた伊緒を、身体を捻って引きはがす。

伊緒はカーペットの上にごろんと転がった。

勢いでピンクの着物がはだけていく。


「いやん、えっち!」

「馬鹿な事を言っていないでご飯にしましょう。お腹が空いたのよ」

「はーい!」


伊緒ははだけた着物を直しながら席につく。

その服でご飯を食べるのか。


「今日から一週間は晴れるみたいよ」

「へぇ、そっか」

ベッドの隣で横たわる伊緒が私に話しかけてきた。

スマホで天気予報を見ていたらしい。

ただ、私はそんな内容に関心は無い。

雨が降ったら山城の壺の警備が大変だっていうぐらいだ。


「ねぇ。今日はミズノト美術館に行ってきたんでしょ?」

「ええ、広い美術館だったわね」


もし自分がイブキトラノオなら、どうやって山城の壺を盗むのか。

いろいろ考えていたが、ぴんとくる案が浮かばなかった。

建物の奥の方にあるから、警備がしやすそうではあった。

入口と出口の二ヶ所を監視すれば人の出入りは完全に管理出来る。

今、山城の壺は山城の間のホールの中央に専用のショーケースに入れられて鎮座している。

そのホールには山城の壺しかない。

どうやって警備の目を盗んでホールに入るのか。そ

の時点で良い案も思い浮かばない。


「芦花は良いよね、仕事中に晴瑠ちゃんとか可愛い女の子たちとデートでしょ?」


伊緒の不満げな声。

気にしているのはどう警備するかではなく、そこだったか。

晴瑠が可愛い女の子かどうかはともかく、芦花が気楽に遊んでいるのを羨ましがっているようだ。


「デートじゃなくて仕事よ。必死でイブキトラノオを捕まえるための作戦を練っていたわ」


捕まえるための作戦を考えてはいたのだが、何も決まらなかったので、実質遊び歩いていたと言われても過言ではない。

あと一週間で、なんとかしてイブキトラノオを捕まえる手筈を整えなければ。


「次のデートはいつにする?」


伊緒がわくわくしながらスマホのカレンダーを眺める。


「イブキトラノオの件が終わったら休み取るわよ。どこか行きたいの?」

「温泉!」


伊緒はスマホの画面を見せてくる。温泉旅館のホームページだった。


「じゃあ、日付が確定したら教えるわ」

「それで、イブキトラノオを捕まえる方法は何か思いついたの?」


話を逸らしたかと思えば、すぐイブキトラノオの話に戻る。

伊緒の会話はこれくらいマイペース。


「全く思いつかないわね」


今までの経験上、どんなに策を練っても捕まえられていない。

今までの対策を超える対策をしないといけないのだ。

そう簡単に思いつくものでもない。


「どうせ、いつもみたいに翻弄されて尻尾もつかめないまま終わるんでしょ? 虎の尾だけに」

「………………………………」

「………………………………」


非生産的な沈黙が流れる。


「まぁ、とっさに思いついたにしてはうまいかけ言葉じゃないかしら」

「半年前から考えてた」


なんとかフォローしようとしたが、一瞬で無に帰した。

哀れだ。

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