第二章 貧民街の男の末路

私は人目を避けるように暗い路地を急いでいた。

正確な時刻はわからない。だが正午は回っていないはずだ。狭い道からでは時計塔が確認できない事が酷くもどかしい。

いや、むしろ良かったのだ。

あの不気味な塔は好きでない。


煤煙の切れ間から潜行してきたデカブツをついさっき目撃した。

つまり、先程飛行船が発着場に着陸したばかりだ。


昨日とは違う道、発着場への近道の裏路地。

地図にて発見したかなり細い道だ。

賑やかなメインストリートとは打って変わって寂しげだ。

その中でも喧しい蒸気機関は健在だ。家屋という家屋から蒸気が出ている。



カチ、カチ、カチ、カチ。



もうたくさんだ。

頭を掻き毟る。


パイプを飛び越え、ゴミ箱を蹴散らし、野良猫を横に見やりながら駆ける。

我武者羅に。音は派手に立てても聞こえまい。

壁に手をつき呼吸を整える。


鋼鉄の飛行船は荷降ろしを済ませると即座に飛び立ってしまう。

逆に言えば荷物と入れ違いで侵入できれば、見つからずに街から出ることが可能だと考えた。

迅速な行動が求められる。

昨日が食料品のみだった。順番通りならば今日は娯楽や日用品が多い筈だ。

多少は嵩張って見つかりづらいだろうという算段だ。


一世一代の大博打。


見えた。

「まだ出発していないぞ!」

死物狂いで走った。人間、窮地に陥ったときは信じられない速度を出せるものだと感心する。

発着場周囲の塀をなんとかよじ登ると、身を隠しながら目的地へと近づいた。


と、そこにあのブザー音が鳴った。

なんてタイミングの良いことだ。

胸の高鳴りをぐっと抑える。

まもなく離陸をするという合図。

安心には早いと己を戒める。


飛行船の裏手にまわり、周囲を執拗に確認すると貨物室への重い扉を開いた。

中は当然真っ暗闇。箱だけが高く積み上がっている。

荷を下ろし終えた外箱だろう。

予想通り荷は多いようだった。


どうやら見張りはいないようだ。

助かった。



扉を閉めると、貨物室は暗闇と静寂に包まれた。

成功した安堵でつい座り込んだ。

あとは離陸を待ち、新天地でどうにかしよう。



カチ、カチ、カチ、カチ。



ハッとした。

この音から逃れるために危険を冒したのだ。


ふざけるな。

頭を掻き毟る。

激しい憤りから原因を突き止め、破壊してやろうと目論んだ。

忌々しい機械共め。どこで鳴っている。

その辺の箱を蹴飛ばす。だが手応えは軽く、あっさりと遠くへ吹き飛んでいった。

次々と今までの鬱憤を晴らすかのように蹴飛ばす。



カチ、カチ、カチ、カチ。



辺り一面の空き箱を半分ほど薙ぎ倒した時、ふとあることに気付く。

これらは全部、空なんじゃないか?


だとすれば……。



カチ、カチ、カチ、カチ。



だとすればこの音はどこから……。




ニャー。




闇に赤と青が浮かんだ。

近づいてきたそれが猫だと理解した。

それよりも、なぜこんなところに猫が――



「私から脱走することは重罪である」

掠れた無機質な声で告げた。



既に私は『冷血』に囲まれていたのだ。

どこから湧いて出てきたかもわからないコイツらと、理から外れた猫を前にして――


――自らの失敗を悟った。



「一度目は客人――」





――――――――





目を覚ます。宙に向かって挨拶をする。

素敵な部屋を与えられているという充足感。

日光の代わりに、刹那の狂いもない完璧な時計が朝を示してる。

蒸気流量計を覗きながらツマミを調節し、コーヒーを淹れる。

私も蒸気の扱いには慣れたものだ。

綺麗に頭髪をセットして、嗜好品を呷る。

いい街だ。



さて。

食料が心許ない。確か今日は食料品の飛行船が来る日だったな。

メガネを掛けるが如くゴーグルを嵌め、マスクをするが如くガスマスクを装着した。

生きていくために絶対必要というわけではない手順だけど。念入りにね。





――――――――





いつもの商店街。いつもの店。いつもの老婆。いつもの会話。いつもの品。

幾許かの食料品を買い込み、広場へと向かった。

そこで無精髭の友人に声を掛けられた。


やあ。と気さくに話しかけてきた彼に私は、


「やあ。ごきげんよう」

とにこやかに応えた。

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