第一章 貧民街の男

目を覚ます。挨拶を掛ける相手はいない。

カーテンを開けるという動作が必要ないこの部屋は、どこか囚人部屋じみていた。

日光の代わりに、刹那の狂いもない完璧な時計が朝を示してる。

蒸気流量計を覗きながらツマミを調節し、コーヒーを淹れる。

ここらの住人は全員が技師かのように蒸気を扱える。

ボサボサ頭を手櫛で直すと、嗜好品を呷る。

イカれた街だ。反吐が出る。



カチ、カチ、カチ、カチ。



混乱。気が付けばもう蒸気機関街に私は存在していた。過去の記憶は何一つない。

思い出も、家族も、思い出せない。

今名乗っている名前が元の名か、それとも上書きされたものか。それすらも。

むしろ昔からここに住んでいたのでは、という錯覚さえ起こし始めていた。



さて。

食料が心許ない。確か今日は食料品の飛行船が来る日だったな。

現在住んでいる西地区には定期便が来る。

一度に大量の物資が運ばれ、それに群がる。

貧民街に住む者など、その程度の扱いでいいのだろう。


メガネを掛けるが如くゴーグルを嵌め、マスクをするが如くガスマスクを装着した。

パイロットや作業員より手慣れていると言っても過言ではない。

そんな皮肉が脳裏によぎった。


生きていくための手順だ。念入りにな。


一度だけ、外で呼吸をした人間を見た。その日は特に煙が酷かったと記憶している。

おそらく喧嘩だったろう。思い返しても間の抜けたことだ。

罵詈雑言の攻防、掴み合いの押し合い圧し合い。結果、片方の無精髭男のガスマスクが口から外れた。

興奮もしていたし、呼吸も乱れていたことだろう。声を荒らげていたが、次第に顔色が紫へと変わり、地に伏せた。

前代未聞の場面に立ち尽くしていた。こんな状況、事故の持ち得た知識とは異なる。

いくら大気汚染が進行していたとして、即意識を失うだろうか。なにか別の要因がるのか。

だが人を呼ぶ暇すらなく、即座に『冷血』が現れ、倒れた無精髭男を回収していった。

それ以来、ガスマスクは念入りに手入れをすることを決めた。



しばらくの後、何食わぬ顔でその無精髭男が繁華街に現れたと聞き、恐怖した。

そして、その事実に恐怖している人間は自分だけであるということにもまた、恐怖した。



恐怖。得体の知れないモノは、正体の分かるモノよりも心を震わせる。

誰が、なぜ、私を。

自ら訪れたとでも言うのか? それとも攫われたのか?

清潔な衣類と、ここで生きるためのゴーグルとマスク。

整った居住と、供給され続ける新鮮な空気。

毎日最低限の食料品を買うための金銭。

気味が悪い。



景観だけは称賛に値する。建設計画が綿密で町並みは精巧だ。

ただ、どうしようもない大気汚染に目を瞑れば、ではあるが。

生憎、私には蒸気趣味はない。

時折建物の隙間から見える時計塔も、見てくれは荘厳だ。

馬鹿みたいに高いが汚れる素振りはない。誰かが必死に掃除しているのだろう。



仕事は各々自由だった。支給された金額以上のものが欲しければ、日雇いの仕事をするのが普通だ。

大体が設備の管理や掃除をさせられる。なにせ膨大な量の管や機構がある。

手入れには得体の知れない不快感が纏わりつく。

へりくだらされている。崇めされられている。

嗜好品や娯楽はそうすることでしか得られない。


一度だけ東地区まで出稼ぎに行ったことをふと思い出した。

物々しい雰囲気を醸す町並みでは、西地区よりも『冷血』との小競り合いが多いようだった。

数日の仕事だったが、衝突し連行される人間を三人も見た。

印象的だったのは、貧民街から見える時計塔とそこから見える時計塔が寸分の違いもなかったことだ。

同じ顔が全方位についているのだな。




いつもの商店街。いつもの店。いつもの老婆。いつもの会話。いつもの品。

幾許かの食料品を買い込み、広場へと向かった。

既に『冷血』が荷を下ろし終えたのか、発着場へと向かう防護服の後ろ姿が見えた。

あんな薄気味悪い連中と顔を突き合わせなくて済んだことは僥倖だった。


人だかりが見える。少し出遅れたようだが、慌てることはない。

いつも、まるで誰がどれだけ欲しがるかが分かっているかのように綺麗に捌く。

今日も肉と乳製品、そして瑞々しい野菜が買えた。

外気に触れないよう特殊な包装がなされている。

パッケージに印字された無機質な文字で中身を判断することには慣れた。

用事も済み、足を自宅に向けた矢先、出来れば遭いたくないモノに出会った。出会ってしまった。


やあ。と気さくに話しかけてきた彼は、記憶から消したはずのモノだった。


「おい! 冗談がきついぞ……!」


紫色の顔とは打って変わって理想的な血色をしている無精髭男はにこやかに笑っている。

喧嘩腰だった物腰も柔らかく、口調も大人しい。

あんなに荒々しくて、すぐに突っかかっるような人間が?



「中身」が変わっていたとしか表現できない。



すぐさまこの場から離れたいという衝動に駆られ、脇目も振らず逃げ出した。

購入品を落とさずに自宅まで走りきる。不思議と息はあがっていなかった。

ガスマスクの性能に感心しながらも、机へと放り投げた。

手入れはもう、明日でいい。


体を拭き、ベッドへ倒れ込む。


「やあ」とはなんだよ。

「おい」だっただろうが。


もう、私の頭の中は恐怖でいっぱいだった。


逃げよう。

ああなる前に。


嫌な予感、という段階を飛び越えていた。異質である事の物的証拠を目の前に叩きつけられたのだ。

人間模様が変化するのを見るのは初めてじゃない。

目をそらし、騙し騙しやってきた。

が、とうに限界を迎えていた。

内に宿る恐怖を勇気に変換するかのように、蒸気機関街脱出計画を立て始めた。


頭の中に浮かぶのは、先程見た飛行船。

新鮮な食料がいつ運搬されてくる。きっと外界に通じているに違いない。

『冷血』たちが荷を降ろしている隙に、飛行船に忍び込めばいい。

この街から逃げ出しさえるれば後はどうとでもなるだろう。

とにかく早く、このブリキの牢獄から逃げ出したい。

その一心だ。


地図を開く。今までの記憶を頼りに『冷血』の位置を予想する。

経路を考える。発着場はもちろん立ち入り禁止区域だ。

見つかれば……。

ボサボサ頭を掻く。



計画の構想に没頭していた私は空腹を忘れていた。

辺りを暗くし、布団に潜る。



カチ、カチ、カチ、カチ。



蒸気機関街にいれば必ず耳にする音。歯車が回る音。針でも動いているのか。

商店街だろうが広場だろうが、例え自宅にいようとも聞こえてくる。

すでに慣れてはいたが、この耳障りな音ともおさらばできると思うと、心が躍った。



カチ、カチ、カチ、カチ。

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