03 忘るべからざる



 試合後のアンダスンはこれ以上ないほど上機嫌で、観客から掻き集めた《永久電池ボルタ―》の山を汗すらかきつつ集計していた。上層の方では昔ながらの紙幣も流通しているらしいが、下の方ではもっぱらこれが通貨代わり、というより通貨そのものだ。小さく、複製が困難で、保存がきく。貨幣が満たすべき条件をピタリ兼ね備えている。

「よおタイ……いや、スカードだったな。お前の坊やは大活躍じゃないか。あっははは! ああいう番狂わせがあると興行が盛り上がるんだ。ありがてえありがてえ」

 俺を見るなり相好そうごうを崩して擦り寄ってくるアンダスンに、俺は拒絶の握り拳を突き返してやる。俺が興味があるのは唯一、次の試合のマッチングだけだ。アンダスンは不敵に笑ってうなずき、

「念を押されるまでもない。毎週でも出て欲しいくらいだ。あの子はヒーローになれるかもしれんぞ」



 ヒーロー。アンダスンの褒めっぷりを、そのとき俺は一笑に付した。大げさすぎると思ったんだ。俺は別に、フローレスにそこまでの才能を感じていたわけじゃない。第一印象で「勝てる闘士ランブラーになるだろうな」とは思っていたし、「勝たせてやりたい」という気持ちだったのも事実だが、チャンプまで上り詰められるのは良い闘士ランブラーの中でもほんの一握り。英雄ヒーローともなればただ勝てばいいってもんでもなくなる。次から次へと勝ちまくるばかりか、観客を完全に魅了し尽くさなくてはならない。

 かつての俺が、どうにかこうにかやっていたように……だ。

 フローレスは、勝ちまくった。

 あれから4ヶ月で11戦。その全てにフローレスは勝ち、黒い弾丸のようにランキングを駆け上がっていった。あとほんの1勝でランキング1位……すなわちチャンプへの挑戦権に手が届く。

 その間、俺は徹底的に『傾向と対策』を彼に叩き込んだ。大別して3種、細かく見れば数十に分類される闘士ランブラーのスタイル。そのひとつひとつについて、敵の戦術意図と行動の癖、有効な対処法を教えていったのだ。俺が説明し、実演してみせたあらゆる戦闘スタイルを、フローレスは砂が水を吸うように飲み込んでいく。そして勝つ。勝つだろうとも。彼の頭には70戦分近い俺の経験から来る実践的理論が全て詰め込まれている。若く強靭な肉体とベテランの頭脳がひとつになれば、勝つに決まってる。

 正直俺は、フローレスがここまでやれるとは思ってなかった。結局、アンダスンは俺以上の目利きだったってわけだ。何千人もの闘士ランブラーを見てきたあいつは、よほどに目が肥えている。優れた才能の片鱗を、ほんの一戦で見抜いてしまっていたのだろう。

 それは喜ばしいことであるはずなのに、俺はなぜか、不可解なひっかかりを胸に感じ始めていた。



   *



必殺技リーサル・ブロウっ!?」

 朝のトレーニングが始まるなり人工太陽のように輝きだしたフローレスの眼は、まるっきり少年のそれだ。俺は肩をすくめながら、電気コードの切れ端で伸びすぎた黒髪を首の後ろに束ねる。

「見せてやる。打ち込んで来い――ただし、ゆっくりとだ。今のお前が本気で来たら、俺にはもうさばききれん」

「OK、うれしいな、スカードが認めてくれるなんて」

「四の五の言わずに早く来い……」

 軽く左右にフットワークを刻み、胸の前に拳を構えるフローレス。いい構えだ。もともと基本はできていたが、今はそれ以上に足腰がしっかりしてきた。わずかな重心のブレすら許さぬ落ち着いた構え。あの様子なら、この技もモノにできるだろう。

 言いつけ通り、フローレスが右拳をゆっくりと前に突き出してくる。俺は片手でそれを払いのけ、彼の懐に潜り、そしてもう一方の拳を胴に軽く……

 どん!!

「ッは!?」

 いきなりフローレスが呻き、膝をつく。みぞおちにと触れただけの俺の拳が、フローレスの頑強な巨体を根っこから揺るがしたのだ。彼は自分が何をされたかも分からず、ただ目を白黒させて俺を見上げている。

「んなっ……なに……おえっ! 今のっ……」

真芯ましんを突いた。大丈夫か?」

「うん……もう平気。真芯ましんって?」

「お前は料理をするだろ。食い物を切るときには、まな板を使うよな」

「そりゃね」

「なぜだ?」

「なぜって……宙ぶらりんだと切りにくいから」

「そうだ。そして、常になのが人体だ」

 俺はフローレスを助け起こし、彼の肩や腕や背中を圧して見せる。フローレスの身体はわずかに傾くもののすぐに揺り戻し、足回りはびくともしない。

「人の身体は柔らかく、よくしなる。外から力を加えられた時、運動量モーメントを生じさせることで力を受け流し、自動的に身体全体のバランスを保つ機能が備わっているんだ。

 ゆえに通常、立っている人間に攻撃を当てても、その衝撃の大半はなされてしまい、大きなダメージは与えられない。

 しかし肉体の回転軸……すなわち真芯ましんに打撃を当てることができれば」

 フローレスの胸板を俺がと圧してやると、彼は再び体勢を崩して数歩たたらを踏む。

「ほんの少しの力でもこのありさま。

 これが穿天流ヒンメルクンスト奥義がひとつ、“釣鐘崩し”だ」

穿天流ヒンメルクンスト……」

 呆然と呟くフローレス。彼の眼の中にこれまでにない色が見えて、俺はつい、顔を逸らす。ひた隠しにしていた一番忘れたいものを、彼に見抜かれてしまったかもしれない。内心の動揺を悟られたくない一心で俺は早口に先を続ける。

「とにかくまずは人体の芯を見極める訓練からだ。その後は的確に打ち込む練習。スパーリングには付き合ってやる」

「うん……ねえ、スカード」

「うるさい。始めるぞ」

 フローレスに16オンスグローブを投げ渡し、自分はそそくさとプロテクターを拾いに向かう。俺の背中を、彼はどんな目で見ていただろうか。



   *



 数日後の午後、ソファで昼寝していた俺は、ふと、蚊の鳴くような呼び声に気付いた。フローレス、フローレス……どこかで誰かが繰り返している。その声が2階から聞こえているのだと気付いて、俺は急速に覚醒した。

 母親。一度も顔を見たことのない、フローレスの母。

 俺はぼさぼさに散らばった長髪を掻き分けて頭皮を掻きむしり、恐る恐る階段に近寄っていった。フローレスは今、日用品の買い出しに出かけている。ああして息子を呼んでいるものを放置するのも気の毒だが、上には上がらないように釘を刺されてもいるし……

 仕方なく俺は階段を半分まで登り、そこで声を張り上げた。

「おたくの息子は外出中だ!」

 母親の声がやんだ。

「小一時間もすれば戻って……」

「来て」

 小さな身震いが俺を襲った。

「しかし、あんたは姿を見られたくないと」

「かまいません。来てください。スカード先生」

 先生、と来たもんだ。

 正直言って顔を合わせたくなんかない。いまさらどの面下げて会えばいいのかも分からない。だが彼女がこうして俺を呼ぶ以上、息子を待ってられないほどの緊急事態なのかもしれないし……

 ええい、クソッ。

 俺は覚悟を決めて2階の寝室のドアを開けた。

 中には木製の粗末なベッドがひとつあり、その上に人がひとり、身じろぎもせずに横たわっていた。

 それをと呼べたなら、だが。

 俺は息を飲んだ。何か気の利いた軽口でも言ってやろうかと思っていたのに、彼女の姿を見たら何もかも頭から吹き飛んでしまった。。フローレスの母親からは、いくつもの欠くべからざるものが失われていた。右腕。頬の左半分。片方の眼。髪の毛。そしてシーツが大きく凹んでいるところを見れば、おそらく腹部から腰にかけても……人体に備わっているはずのものたちが忽然と消失し、ただ空虚だけがそこに満ちている。あんな状態で生きていられるはずがない。なのに彼女は生きている。喋っている。俺を見ている。

 《生命のスープ》!

 やっと分かった。なぜフローレスがあんなに《スープ》を毛嫌いしていたのか。《スープ》は全てを忘れさせ、痛みも、苦しみも、無かったことにしてくれる。と同時に、人の中の失いたくないものさえ虚無の世界に持っていく。人は自分から何が失われたのかすら気付かない。たとえ心臓を失おうと、脳を失くそうと、失くした事実さえ忘れたまま生き続けることになる。

 吐き気がした。

 猛烈な吐き気だ。

「スカード先生」

「あんた、ここは、風通しが悪いな。窓を開けたらどうだ」

「ええ……」

「それにひどく殺風景でもある。なにか楽しみとか……寝たままできる趣味でも作ればいい」

「そうね。趣味も、楽しみも、昔はいろいろあった気がするけれど、今ではもう全て忘れてしまった」

「何か用かい」

 俺は早くもドアから一歩後ずさり、その場を逃げ出そうとしている……

 フローレスの母は俺を見据えた。母親の眼だった。何もかも忘れたはずなのに、最後まで残ったたったひとつの執着……息子。

「あの子をお願い。

 あの子を導いてあげて。

 幸せを掴むことのできる道へと」



   *



「ねえ、スカード。起きてる?」

 その日の夜、ソファに横たわる俺にフローレスが囁いた。俺は何も言わない。応えない。自分の中に湧き始めた嫌な感情を、俺は処理しきれなくなりつつあった。若き英雄ヒーロー候補。勝利と栄達。穿天流ヒンメルクンスト。《生命のスープ》。そして執着。『あの子をお願い』……

「ぼく、あんたに伝えたいことがあって。いつか言おうと思ってたんだけど……ねえ、聞いてる? もう寝ちゃったかなあ……」

 俺は暗闇の中で固くなった。フローレスの息遣いが聞こえる。若く、強く、活力に溢れた命の脈動。その音を聞けば聞くほどしぼんだ我が身が情けなくなる。俺にはもう狸寝入りを決め込むことしかできない。なのにフローレスは腹が立つほど無邪気で、

「ね……夢みたいだ。負けてばっかのぼくが、こんなところまで来れるなんて。全部あんたのおかげだ。

 感謝してる。ぼく、あんたのこと、好きだよ、スカード。

 いつか……起きてる時にちゃんと言いたいな」

 言わなくていい。

 言わないでくれ。これ以上俺を、みじめにさせないでくれ……



 夢を見た。

 夢の中で俺は昔の強靭な肉体を取り戻していて、装甲服を着込み、戦闘領域コンバットエリアの中央に呆然と立ち尽くしていた。戦わなきゃ。忘れかけていた本能が俺に囁く。戦うんだよ。お前は戦う以外に自分の存在を証明するすべを持たない。戦い続け、勝ち続け、その事実のみによってお前はと認められる。

 目の前に、敵がいる。

 俺は拳を突き出した。まっすぐなジャブ。最速の一撃。敵の頭部に着実なヒットを刻みながら、俺はにじり寄っていく。

 対する敵の武器はソード。一般的な直剣じゃない、緩やかに湾曲した片刃の日本刀だ。あれは斬れる。まともに受けたら装甲服すらどうなるか分からない。敵が繰り出す斬撃、そのひとつひとつを丁寧に拳で弾いてかわし、一瞬の隙をついて敵の懐に潜り込む。

 ボディへ!

 俺が繰り出した炸薬パイルは敵のはらわたを的確に捉えた。相手がヘルメットの中で血を吐く音がここまで聞こえる。。敵の動きが鈍った。あと一撃、頭部の急所に――

 ――だめだ。

 何かが俺に告げた。だめだ。打っちゃいけない。そうだ。俺は知ってる、このシチュエーションを。俺はこの後、フィストを相手の顔面に突っ込んでしまい、そして、そして……

 瞬転。

 俺の目の前で白刃が閃いた。俺は悲鳴を上げてのけぞる。敵の刃が俺の顔面を横一文字に斬り裂き、今なお消えぬ傷跡スカーを刻む。畜生。俺の中で激情が爆発する。畜生……やりやがったな畜生!

 俺は拳を突き出した。俺と敵とはほとんどもつれ合うように倒れ込み、倒れた相手に馬乗りになって、俺は顔面めがけてフィストを突き下ろす。だめだ。それはだめだ! それは……

 理性の声は遠ざかり、動物的な攻撃性のみが俺を支配し、俺は右腕にパイル射出をコマンドした。

 炸裂。

 一瞬の静寂の後、うるさいほどの歓声が聞こえだした。俺の下に組み敷かれた敵は、もうピクリとも動かない。これほど技術が進歩した現代にあっても死は絶対。死は究極。俺は荒く息をつき、急速に冷めていく意識の中で、自分のしでかしたことを理解していく。手を伸ばす。エネミーの――いや、対戦相手オポネントのヘルメットを両脇から掴み、恐る恐る……脱がせる。

 そこには、頭蓋の無惨に潰れた……

 



「わ!」

 俺は叫び、跳ね起きた。

 何が起きたか分からず、しばらくの間、混乱した頭で俺はただその場に座り込んでいた。フローレスの家。寝心地の良いソファ。肩と背中に汗で貼り付く伸び放題の荒れた黒髪。最悪の夢。窓から差し込む光の筋。その中でゆっくりと舞い踊る白い埃。外から微かに聞こえてくる小気味良い炸裂――サンドバッグを叩く音。

 畜生。忘れさせてくれるんじゃなかったのかよ、《生命のスープ》。

 俺は膝を胸に抱き寄せ、そこに顔を埋めて、フローレスが家に入ってくるまでの間、泣いた。



(つづく)

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