03 忘るべからざる
試合後のアンダスンはこれ以上ないほど上機嫌で、観客から掻き集めた《
「よおタイ……いや、スカードだったな。お前の坊やは大活躍じゃないか。あっははは! ああいう番狂わせがあると興行が盛り上がるんだ。ありがてえありがてえ」
俺を見るなり
「念を押されるまでもない。毎週でも出て欲しいくらいだ。あの子はヒーローになれるかもしれんぞ」
ヒーロー。アンダスンの褒めっぷりを、そのとき俺は一笑に付した。大げさすぎると思ったんだ。俺は別に、フローレスにそこまでの才能を感じていたわけじゃない。第一印象で「勝てる
かつての俺が、どうにかこうにかやっていたように……だ。
フローレスは、勝ちまくった。
あれから4ヶ月で11戦。その全てにフローレスは勝ち、黒い弾丸のようにランキングを駆け上がっていった。あとほんの1勝でランキング1位……すなわちチャンプへの挑戦権に手が届く。
その間、俺は徹底的に『傾向と対策』を彼に叩き込んだ。大別して3種、細かく見れば数十に分類される
正直俺は、フローレスがここまでやれるとは思ってなかった。結局、アンダスンは俺以上の目利きだったってわけだ。何千人もの
それは喜ばしいことであるはずなのに、俺はなぜか、不可解なひっかかりを胸に感じ始めていた。
*
「
朝のトレーニングが始まるなり人工太陽のように輝きだしたフローレスの眼は、まるっきり少年のそれだ。俺は肩をすくめながら、電気コードの切れ端で伸びすぎた黒髪を首の後ろに束ねる。
「見せてやる。打ち込んで来い――ただし、ゆっくりとだ。今のお前が本気で来たら、俺にはもう
「OK、うれしいな、スカードが認めてくれるなんて」
「四の五の言わずに早く来い……」
軽く左右にフットワークを刻み、胸の前に拳を構えるフローレス。いい構えだ。もともと基本はできていたが、今はそれ以上に足腰がしっかりしてきた。わずかな重心のブレすら許さぬ落ち着いた構え。あの様子なら、この技もモノにできるだろう。
言いつけ通り、フローレスが右拳をゆっくりと前に突き出してくる。俺は片手でそれを払いのけ、彼の懐に潜り、そしてもう一方の拳を胴に軽く……
どん!!
「ッは!?」
いきなりフローレスが呻き、膝をつく。みぞおちにちょんと触れただけの俺の拳が、フローレスの頑強な巨体を根っこから揺るがしたのだ。彼は自分が何をされたかも分からず、ただ目を白黒させて俺を見上げている。
「んなっ……なに……おえっ! 今のっ……」
「
「うん……もう平気。
「お前は料理をするだろ。食い物を切るときには、まな板を使うよな」
「そりゃね」
「なぜだ?」
「なぜって……宙ぶらりんだと切りにくいから」
「そうだ。そして、常に宙ぶらりんなのが人体だ」
俺はフローレスを助け起こし、彼の肩や腕や背中を圧して見せる。フローレスの身体はわずかに傾くもののすぐに揺り戻し、足回りはびくともしない。
「人の身体は柔らかく、よく
ゆえに通常、立っている人間に攻撃を当てても、その衝撃の大半は
しかし肉体の回転軸……すなわち
フローレスの胸板を俺がとんと圧してやると、彼は再び体勢を崩して数歩たたらを踏む。
「ほんの少しの力でもこのありさま。
これが
「
呆然と呟くフローレス。彼の眼の中にこれまでにない色が見えて、俺はつい、顔を逸らす。ひた隠しにしていた一番忘れたいものを、彼に見抜かれてしまったかもしれない。内心の動揺を悟られたくない一心で俺は早口に先を続ける。
「とにかくまずは人体の芯を見極める訓練からだ。その後は的確に打ち込む練習。スパーリングには付き合ってやる」
「うん……ねえ、スカード」
「うるさい。始めるぞ」
フローレスに16オンスグローブを投げ渡し、自分はそそくさとプロテクターを拾いに向かう。俺の背中を、彼はどんな目で見ていただろうか。
*
数日後の午後、ソファで昼寝していた俺は、ふと、蚊の鳴くような呼び声に気付いた。フローレス、フローレス……どこかで誰かが繰り返している。その声が2階から聞こえているのだと気付いて、俺は急速に覚醒した。
母親。一度も顔を見たことのない、フローレスの母。
俺はぼさぼさに散らばった長髪を掻き分けて頭皮を掻きむしり、恐る恐る階段に近寄っていった。フローレスは今、日用品の買い出しに出かけている。ああして息子を呼んでいるものを放置するのも気の毒だが、上には上がらないように釘を刺されてもいるし……
仕方なく俺は階段を半分まで登り、そこで声を張り上げた。
「おたくの息子は外出中だ!」
母親の声がやんだ。
「小一時間もすれば戻って……」
「来て」
小さな身震いが俺を襲った。
「しかし、あんたは姿を見られたくないと」
「かまいません。来てください。スカード先生」
先生、と来たもんだ。
正直言って顔を合わせたくなんかない。いまさらどの面下げて会えばいいのかも分からない。だが彼女がこうして俺を呼ぶ以上、息子を待ってられないほどの緊急事態なのかもしれないし……
ええい、クソッ。
俺は覚悟を決めて2階の寝室のドアを開けた。
中には木製の粗末なベッドがひとつあり、その上に人がひとり、身じろぎもせずに横たわっていた。
それを人と呼べたなら、だが。
俺は息を飲んだ。何か気の利いた軽口でも言ってやろうかと思っていたのに、彼女の姿を見たら何もかも頭から吹き飛んでしまった。無い。フローレスの母親からは、いくつもの欠くべからざるものが失われていた。右腕。頬の左半分。片方の眼。髪の毛。そしてシーツが大きく凹んでいるところを見れば、おそらく腹部から腰にかけても……人体に備わっているはずのものたちが忽然と消失し、ただ空虚だけがそこに満ちている。あんな状態で生きていられるはずがない。なのに彼女は生きている。喋っている。俺を見ている。
《生命のスープ》!
やっと分かった。なぜフローレスがあんなに《スープ》を毛嫌いしていたのか。《スープ》は全てを忘れさせ、痛みも、苦しみも、無かったことにしてくれる。と同時に、人の中の失いたくないものさえ虚無の世界に持っていく。人は自分から何が失われたのかすら気付かない。たとえ心臓を失おうと、脳を失くそうと、失くした事実さえ忘れたまま生き続けることになる。
吐き気がした。
猛烈な吐き気だ。
「スカード先生」
「あんた、ここは、風通しが悪いな。窓を開けたらどうだ」
「ええ……」
「それにひどく殺風景でもある。なにか楽しみとか……寝たままできる趣味でも作ればいい」
「そうね。趣味も、楽しみも、昔はいろいろあった気がするけれど、今ではもう全て忘れてしまった」
「何か用かい」
俺は早くもドアから一歩後ずさり、その場を逃げ出そうとしている……
フローレスの母は俺を見据えた。母親の眼だった。何もかも忘れたはずなのに、最後まで残ったたったひとつの執着……息子。
「あの子をお願い。
あの子を導いてあげて。
幸せを掴むことのできる道へと」
*
「ねえ、スカード。起きてる?」
その日の夜、ソファに横たわる俺にフローレスが囁いた。俺は何も言わない。応えない。自分の中に湧き始めた嫌な感情を、俺は処理しきれなくなりつつあった。若き
「ぼく、あんたに伝えたいことがあって。いつか言おうと思ってたんだけど……ねえ、聞いてる? もう寝ちゃったかなあ……」
俺は暗闇の中で固くなった。フローレスの息遣いが聞こえる。若く、強く、活力に溢れた命の脈動。その音を聞けば聞くほど
「ね……夢みたいだ。負けてばっかのぼくが、こんなところまで来れるなんて。全部あんたのおかげだ。
感謝してる。ぼく、あんたのこと、好きだよ、スカード。
いつか……起きてる時にちゃんと言いたいな」
言わなくていい。
言わないでくれ。これ以上俺を、みじめにさせないでくれ……
夢を見た。
夢の中で俺は昔の強靭な肉体を取り戻していて、装甲服を着込み、
目の前に、敵がいる。
俺は拳を突き出した。まっすぐなジャブ。最速の一撃。敵の頭部に着実なヒットを刻みながら、俺はにじり寄っていく。
対する敵の武器は
ボディへ!
俺が繰り出した炸薬
――だめだ。
何かが俺に告げた。だめだ。打っちゃいけない。そうだ。俺は知ってる、このシチュエーションを。俺はこの後、
瞬転。
俺の目の前で白刃が閃いた。俺は悲鳴を上げてのけぞる。敵の刃が俺の顔面を横一文字に斬り裂き、今なお消えぬ
俺は拳を突き出した。俺と敵とはほとんどもつれ合うように倒れ込み、倒れた相手に馬乗りになって、俺は顔面めがけて
理性の声は遠ざかり、動物的な攻撃性のみが俺を支配し、俺は右腕に
炸裂。
一瞬の静寂の後、うるさいほどの歓声が聞こえだした。俺の下に組み敷かれた敵は、もうピクリとも動かない。これほど技術が進歩した現代にあっても死は絶対。死は究極。俺は荒く息をつき、急速に冷めていく意識の中で、自分のしでかしたことを理解していく。手を伸ばす。
そこには、頭蓋の無惨に潰れた……
フローレス。
「わ!」
俺は叫び、跳ね起きた。
何が起きたか分からず、しばらくの間、混乱した頭で俺はただその場に座り込んでいた。フローレスの家。寝心地の良いソファ。肩と背中に汗で貼り付く伸び放題の荒れた黒髪。最悪の夢。窓から差し込む光の筋。その中でゆっくりと舞い踊る白い埃。外から微かに聞こえてくる小気味良い炸裂――サンドバッグを叩く音。
畜生。忘れさせてくれるんじゃなかったのかよ、《生命のスープ》。
俺は膝を胸に抱き寄せ、そこに顔を埋めて、フローレスが家に入ってくるまでの間、泣いた。
(つづく)
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