第四話 「愛情飲料水」
(軽快な音楽)
(ヒトが缶を受け取る)
(絶望の表情)
(缶を開ける音)
(泡がはじける)
『愛の不平等を許しません!』
(軽快な音楽)
(ヒトが缶の中身を飲む)
(愉悦の表情)
『愛の不平等が誰かを殺すのです!』
(ヒトが缶を放る。どこかへ駆ける)
『容姿、金、地位、運、エトセトラ!』
『悲しいことに、愛は全く不平等です!』
『どうにもならないものが、すべてを決めます!』
『愛の不平等について、あなたに責任がありますか!』
『愛は完全に平等になるべきだと思いませんか!』
(ヒトが缶を手に入れる)
『いつでもどこでもだれにでも、愛を平等に!』
『さあ、”愛情飲料水”をお求めください!』
(缶を開ける音)
* * *
病的なまでに多くの自動販売機が並ぶ。横に十数台、奥に十数台。巨大な公園の一角、かつて遊具や砂場、花壇があったであろう場所を改造し、自販機が等間隔に設置されていた。
これほど多数の自販機があるにも関わらず、列ができることさえあった。どの自販機にもしきりにヒトが訪れる。暇を持て余す自販機は無い。
自販機が販売している飲み物は、たった一種類だけ。”
ヒトビトは愛を求め、自販機に集る。ピッ、ガコン。ピッ、ガコン。ボタンが押され、缶が排出される。その様子がひっきりなしに私の元に届いた。
『平等な愛情はいかがですか?』
定期的に自販機が語りかける。すべての自販機が同じタイミングで喋るので、少々怖い。
ヒトはみな、自販機に向かって迷いなく直進する。ボタンを押し、しゃがみ、缶を取り出す。タブを引く。ぷしゅと軽く泡があふれる。中身を飲み干す。そして、目を細め、口角を上げ、うっとりとした表情になる。愛情を満喫する。
それぞれの自販機の横、赤い金属が網目になっている円形のゴミ箱があった。が、どのゴミ箱も空き缶が山盛りだ。地面に缶がいくつも転がって、飲み口から液体が漏れる。ゴミ箱に、”愛情飲料水! 好評提供中 究極に平等な愛を目指して”と広告が貼ってあった。
ヒトはひとつ缶を飲み干すと、また別の缶を手に入れる。そういえば、誰も自販機にお金を投入していない。自販機の正面を見ると、
”容姿、運、資産、その他不平等な要素に関係なく、みなさまに
と大きな文字が力強く主張していた。
次に、裏側を覗く。背面から太いパイプが出ており、地面に刺さっていた。他の自販機も同様だ。パイプの上に、”全自動充填中 一秒たりとも愛の不平等を許しません!”と示されていた。品切れを防ぐため、工場から配管を各自販機へ伸ばし、二十四時間、常に補充しているらしい。ヒトビトが絶え間なく愛を欲するため、配管からゴウンゴウンと、中で缶が移動している音が常に聞こえていた。
「ん?」
一風変わった動きをしている青年がひとり。彼は、自販機のすきまを縫うようにうろついている。白い半そでのワイシャツと黒いスラックスを身に着け、革の黒い鞄を持っている。外見は学生そのものだ。彼は自販機を観察し、手を伸ばしてはすぐにひっこめる。そして、別の自販機にふらふらと歩いていく。
あまりに自販機の数が多いから、どれにしようと迷っているのだろうか。しかし、販売物は一種類、愛情飲料水のみだ。包装だって全く同じ。銀色の缶に、”愛情飲料水”と印字されているだけ。
青年なりに、なにかこだわりがあるのか。けれども彼が迷っているうちに、他のヒトは目についた自販機に向かい、愛情飲料水を手に入れていた。ガコン。ガコン。缶が延々と取り出し口に落ちる。ヒトは缶を手に取り、愛情を飲む。青年はそれを傍から見つめている。彼はまだ、愛を手に入れていない。
自販機の側面に製造元の記載がある。私は住所を手帳に書き留めた。調査のため、製造元を訪ねてみよう。あたりを見渡して、交通手段を探す。公園の入り口にひとつだけ、バス停がポツンと立っていた。足は円柱のコンクリート、その中心から青く塗装された柱が伸び、柱のテッペンには円形の金属板。そこにバス停の名前が書いてあった。
私は自販機の大群から離れ、バス停に近づいた。柱のやや上側に時刻表が掲示されていた。よし、次のバスはすぐ来るようだ。と思ったが、時刻表の下に紙が斜めに張り付いている。
”職員不足のため、本数を減らして運行しております。臨時の時刻表は……”
どうやら、次のバスまで時間がかかりそうだ。職員不足のせいか、バス停は埃や雨で汚れたままになっている。柱の青い塗装はところどころ剥がれ、赤い色が覗いていた。私は自販機の方へ戻った。
青年はまだ、自販機近くでうろうろしている。彼は自販機をじっと見て、手を伸ばして、ひっこめるといった動作を繰り返す。気づかれないように、そっと近寄る。
「君、何を迷っているんだい」
「うわあっ!」
彼はびっくりしてこちらを振り返った。黒い金属フレームの丸眼鏡、分厚いレンズの奥の瞳がせわしなく揺れる。
「さっきからずっと、自販機の前で迷っているみたいだったからどうしたのかなと思って」
「えーと、その」
青年はうつむいてしまった。
「私には違いがあるように思えないけど、なにかこだわりでもあるのかい?」
自販機に並ぶ缶の包装はどれも同じ。銀色の缶に、”愛情飲料水”の文字が印刷されているだけ。自販機の正面や側面にも、味に違いがあるだとか、そういう旨の表示は無い。
「……その」
彼はゆっくりと顔をあげた。
「だって、これは僕が求める愛じゃない、気がするんです」
ピッ、ガコン。ピッ、ガコン。向かい合う私たちをよそに、ヒトは遠慮なく愛を求める。自販機は誰に対しても平等に愛情を配る。ぷしゅ。愛情が誰かの胃を満たす。
「どんな愛でもいいわけじゃないんです。僕ってワガママですかね?」
* * *
バスが来るまでの間、眼鏡の青年と話をする。ふたりでバス停近くのベンチに腰かけた。彼は鞄を胸の前で抱え、ぽつりぽつりと喋りだした。
「僕、好きなひとがいるんです」
「そうなのか」
「学校の先輩なんですけど、もう卒業しちゃって、全然会ってないんですけど」
「ふむ」
「僕も愛が欲しいんですけど……、勇気がでなくて」
私たちの前を、ヒトが次々に横切っていく。みな、自販機に一直線に向かう。彼らはなんのためらいもなく愛情を手に入れる。対して、この青年は悩んでいるようだ。
「先輩、みんなに分け隔てなく優しいひとなんです。愛は平等であるべきだっていつも言ってました」
目の前を通りすぎたヒトが、ベンチの横のゴミ箱に向かって、空き缶を放った。しかし、他のゴミ箱同様、中身が山盛りになっている。山にはじかれて、空き缶はころころと転がった。ちょうど、青年の足元で止まった。
「だから、先輩は卒業してから、愛情飲料水を作ってるところで働いているんです」
”愛情飲料水”とだけ大きく書かれた表側に対し、反対側には細かい文字が並ぶ。製造元、それから、成分表示……。成分は、ただ、”愛情”とだけ示されていた。
「たしかに、愛は平等になったかもしれません。でも」
自販機に向かうヒトビトを、彼は羨ましそうに見つめる。
「でも、僕は先輩の愛が欲しいんです。他のヒトの愛は、いらないんです」
なるほど。彼が自販機のあたりで葛藤し徘徊していた理由がわかった。
「僕は……、ワガママなんでしょうか」
青年はがっくりと肩を落とし、鞄を強く握った。バスのエンジン音が聞こえる。バスは臨時の時刻表よりも遅れて到着した。
「あっ、バスが来ちゃいましたね」
私と青年はベンチから立ち上がる。彼は、そうだ、と鞄を探り、
「話を聞いてくれてありがとうございました! これ、よかったらどうぞ」
とミサンガを差し出した。細かい模様の青色のミサンガだ。
「ああ、どうもありがとう」
私は彼からミサンガを受け取る。青年の手首にも、同じ模様のミサンガが巻き付いていた。
「願掛けにいつも作ってるんです! 昔から友達の評判もいいんですよ」
「へえ。うーん、なかなか複雑な模様だな。作るのがタイヘンそうだ。君はすごく器用なんだな」
「い、いえいえ! 単に時間をかけて作ってるだけですよ。それぐらいしか取り柄がないものですから」
照れくさいのか、彼は頬を少し赤く染める。
「それで、君はなんの願掛けをしているんだ?」
「先輩の、えへへ。愛が手に入れられますように、って」
私はミサンガを手首につけた。彼はにこりと笑った。
「マトウさんの願いも叶いますように!」
バスに乗り込む。眼鏡の青年は私を見送ると、自販機の方へ戻っていった。
* * *
ガタガタ揺れながら、バスは道路を進む。振動が止むのは信号待ちぐらい。座席の窓から外を見る。道路は、かつては綺麗に舗装されていたようだが、今見る限りでは、段差、破損、デコボコが目立つ。ほとんど補修がされていない。
『愛の不平等を許しません』
女性の声が耳に入る。ゆっくりと語りかけてくる。窓から音源を探す。見上げると、横長の飛行船が空を優雅に飛んでいた。側面に、”愛情飲料水”の文字が躍る。飛行船の前方、初老の女性の写真が控えめに印刷してあった。真っ赤な髪に白い服。柔らかく微笑んでいる。写真の下に”社長”と印字されていた。
『無料で、いつでも、どこでも、誰にでも、愛情をお届けします』
たしかに、公園を出てからも異常な数の自販機が目に入った。道端に数メートル間隔で自販機が存在する。どの自販機にもヒトが常に集まっている。誰も対価を払うことなく、ボタンを押し、缶を手に入れ、自由に愛情を摂取していた。
無料で誰にでも、とは結構な大盤振る舞いだ。遠くの方で、同じような飛行船がいくつも浮かんでいた。業績は好調のようだ。社長の声が空に響く。
『愛の不平等は誰かを殺します。では、愛が平等になったら……、そう、愛は平等であるべきなのです』
一方、街は静かだ。ひっそりとしている。シャッターを閉めている店が多く、ごくたまに空いている店を見かけたが、あまり賑わっていない。それに、空き家が多い。あらゆるものの劣化が目立つ。諸々の問題がそのまま放置されていた。
『さぁ、みなさま。愛情飲料水をお求めください!』
ぷしゅ。誰かが缶を開ける。甘いにおいが車内に広がった。
「次は、XX社前バス停です」
降りたのは私だけだった。左右に振動しつつバスは走り去っていく。XX社の本社は郊外に建っていた。長方形のビルが天高く伸びている。バス停横に看板が。”XX社 案内図”、広大な敷地だ。本社の周囲に芝生があり、さらに外側に木々が植えられていた。図によると、本社の背後に製造工場があった。
本社の正面玄関に向かって進む。太陽に反射した緑をまぶしく感じた。白いタイルが敷き詰められた道を往く。本社の後ろに、背が低く、横に長い灰色の建物があった。煙突が白い煙を吐いていた。あれが工場だ。木々の中に建っているため全体は把握しづらいが、かなりの大きさがあるように見える。愛情飲料水について、詳しい情報が得られるといいのだが。
ようやく玄関に着いた。扉が自動で開く。
『XX社へようこそ。愛の不平等を許しません』
社長の自動音声が聞こえた。天井のスピーカーからだ。私は、白い大理石の床を進む。入って右手の机に実物の愛情飲料水が置いてあった。机の後ろの壁に楕円の額縁。社長の写真が入っている。飛行船に掲示されていたのと同じ写真だ。
受付に女性がひとり座っていた。長い髪の毛をひとつにまとめ、やさしそうな雰囲気をした垂れ目の女性だ。
「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」
私の来訪に気づき、彼女はにこりと笑って話しかけてきた。
「すみません。愛情飲料水の製造方法について興味がわきまして。少し教えていただきたいんですが」
彼女の表情がやや曇る。
「……申し訳ありませんが、お教えすることはできません」
「そうですか。でしたら、工場の見学とかそういう催しは行っていませんか。日時はいつでもかまいません」
私は鞄から手帳を取り出して、ペンを握る。腕の動きに合わせてミサンガが揺れた。彼女は突然、目を丸くした。
「あの。それ、そのミサンガ、どこで手に入れたんですか」
「え? ええと、通りすがりの眼鏡の青年からもらったんです」
手を唇にあて、彼女はうつむく。彼女の手首にも同じ模様のミサンガが巻き付いていた。
「もしかして、あなたも同じ青年から?」
「……おそらくそうだと思います。あの子、お礼にって、いつも配ってましたから」
女性のミサンガをじっと見る。ところどころ赤い糸でつぎはぎがしてあった。自然に任せていたらとっくに切れていそうなほど、ぼろぼろだ。たしか、ミサンガは切れたときに願いが叶うと言われていたはず。だから、ミサンガを長持ちさせる意味は無いように思える。いったい、彼女はなんの願掛けをしているのだろう。私があまりにも凝視していたせいか、彼女はミサンガを守るように握りしめ、私の視界から隠した。
「わたしにとって、大事なものなんです」
「そうなんですか」
彼女は受付から立ち上がると、頭を下げ、
「工場の見学等、愛情飲料水の製造に関わる情報は一切非公開となっております」
と告げた。
「情報が漏れると、愛の平等が崩れるかもしれません」
「愛が不平等に戻れば、また誰かが傷ついてしまう」
「愛は平等であるべきなのです」
* * *
私は、XX社を後にした。外に出ると、台車を押す男性がこちらに歩いてくるのが見えた。台車の上に大量のビニール袋を載せている。中身はすべて愛情飲料水の空き缶だった。あまりにも量が多い。男性は落ちないように気を付けて運んでいたが、それでも一袋落ちてしまった。ちょうど、私の隣に落ちたので、拾って手渡す。
「ありがとう。悪いね」
「いいえ。それにしても、すごい量ですね」
どのビニール袋もパンパンに膨れ上がり、いまにもはちきれそうだ。缶の中身が微妙に残っているのか、甘いにおいが鼻を突く。彼の背後、バス停付近に回収車が停まっていた。空き缶が入ったビニール袋が、荷台に山積みになっていた。
「うん。毎日毎日、何度も運んでるんだけどね。回収が追いつかないんだ。街は空き缶であふれてるよ」
回収員の彼は台車をゴロゴロと押し、本社に向かう。彼は片手に愛情飲料水を持ち、愛情を補給しながら進んでいた。
「困ったな」
こちらのバス停にも、紙の臨時時刻表が貼ってあった。もうそろそろ来る頃、なのだがいっこうにバスの姿が見えない。他の交通機関もあまり動いていないようだ。仕方がないので、歩いて移動する。
街は静かだ。バスから見た印象と同じである。昼下がりにも関わらず、規模を問わずほとんどの店が閉まっているし、ヒトの声もあまり聞こえない。活気がない。
『平等な愛情はいかがですか?』
自販機がこうやって語りかけてくるぐらいである。
さびれた空間の中で、ヒトビトは缶を手に微笑む。飲料水が彼らの胃に流れると、心底嬉しそうに笑う。ときどき、涙を流している。幸せそうだ。
得られた情報をまとめながら、しばらく歩く。がらんとした広場に出会う。公園ほどではないが、自販機が多数並んでいる。片隅に追いやられた遊具。自販機の近くに座って動かないヒトビト。静寂。この時間帯なら、方々から若く甲高い声が聞こえてきてもおかしくないが、落ち着いて成熟した声だけが時折耳に入るだけだ。
途中、ヒトとすれ違う。xxxxしいxxxxxだ。愛を誰も差し出さないような。今まで一度の愛も受けたことがないような。xxxxxは飢えていた。
「愛、愛を」
そのヒトは自販機にたどり着いた。震える手でボタンを押した。ガタンと愛情が排出された。わずかに残った力でタブを起こす。炭酸がはじける。愛情が注入され――、
「幸せそうだな」
この次元では、少なくとも愛情は平等であるらしい。
* * *
最初の公園に戻った。バス停を通り過ぎ、自販機の方へ向かう。
「あ、マトウさん」
「やあ。君、まだここにいたのか」
「ええ」
眼鏡の青年はまだ迷っていた。自販機に近づいたり、離れたり、決心がつかないようだ。私は、自販機の正面に立つ。見た目が同様の愛情飲料水が、上下左右、何列にも並ぶ。適当にボタンを押した。取り出し口に缶がガタンと落ちる。
『ありがとうございます。平等な愛情をあなたに!』
自販機がお礼を告げた。私はしゃがみ、缶を取り出す。愛が冷たい。
「ああ、そんな適当に!」
「適当に、って全部一緒に見えるけど」
「そうかもしれませんけど、もしそうじゃなかったら」
青年は歯切れ悪く、ブツブツと呟いている。私は、缶をくるくる回して観察する。銀一色の缶だ。正面に”愛情飲料水”の文字、裏側には、”愛情”とだけ書かれた成分表示、それと製造元の情報。上側には開封のためのタブ。特に異常な特徴は見当たらない。鼻を近づけて、すんすんと嗅ぐ。わずかに甘い香りが漂うだけ。容器に何か秘密がある訳ではなさそうだ。
調査のためだ、と私はタブに指をかけた。視線を感じる。青年がこちらを睨んでいる。革の鞄を両手でぐっと抱きかかえ、口を真一文字にして、分厚いレンズの奥、まぶたが半分瞳を覆う。ジトッとした視線をこちらに注いでいた。あれだけ迷っていた様子だし、彼も愛情飲料水を飲んでみたいのだろうか。私は、彼に向かって缶を差し出す。
「ほら」
「えっ」
彼は驚き、体をのけぞらせた。私から距離をとる。
「ほら。飲むかい」
「……いいえ!」
「でも、気になってたんじゃないのか」
「いいえ! ぼ、僕、やっぱり先輩の愛が良いんです!」
「そうか」
私は手をひっこめる。あれだけ熱心に見られていたら、愛情飲料水の感想を書き留めるのに支障が出そうだ。いったん、缶をズボンのポケットにしまう。先輩と言えば、ひとつ思い出した。
「そういえば、受付の女性が君と同じ模様のミサンガをつけていたな。かなりボロボロだったけど」
「え。もしかして……。僕、昔、先輩にひとつだけ渡せたんです。すごくしどろもどろで不格好だったけど。あの、先輩となにかお話したんですか?」
「ああ。彼女は愛は平等であるべきだと言ってたよ」
「……先輩、変わらないなあ。みんなにやさしくて、愛を振りまいてくれるんです。先輩は……」
鞄の輪郭が変わるほど、彼は鞄を強く握りしめた。ひとつ頷くと、顔をバッとあげ、
「マトウさん。お願いがあるんです!」
「あ、あの、僕、勇気を出したいんです!」
「協力してください!」
と叫んだ。
* * *
私は、青年と一緒に本屋を探す。閉まっている店が多く、やっとのことで営業している本屋を見つけた。ガラスの戸を開けると、チリが舞う。店内は薄暗く、天井から本棚に蜘蛛の巣が垂れている。店の奥に店主がいた。床よりも一段高い座敷にのぼり、こちらに背を向けて、だらしない恰好をして、あぐらをかいている。
平積みの本には厚いほこりが積もっていた。指でなぞると、その跡がはっきりとわかるほどだ。青年は、恋愛本のあたりでかたっぱしから中身を確認している。どの本もひどく焼けていた。
「なあ、君」
「……」
とても集中している。店主は、私たちが入ってきたことに気づいてなさそうな雰囲気だ。ぼーっとテレビを見ている。
入り口に近い棚に新聞が積みあがっていた。日付を見る。過去から、今まで……どんどん日付が飛んでいた。以前は一日おきに発刊されていたようだが、最近なんて、一週間間隔での発刊だ。調査のため、いくつか記事に目を通す。確認が終わった。青年はまだ本とにらめっこしている。彼が手にしている本は、”愛よ永遠に 求婚の手引き”。
「ぐむむむむ」
眉間にシワを寄せ、本の内容を飲み込もうとしている。しかし、いきなり求婚とは。
「なあ、君。もう少し初心者向けの本から始めたほうがいいんじゃないかな」
「むむむ。僕は先輩に永遠の愛を誓いたいんです!」
「そ、そうか」
「いいコトバが、きっと参考になるものがあると思います! これ買ってきます!」
「ああ。いってらっしゃい」
青年は、店主の元へ軽やかに駆けていく。ぷしゅ。と聞きなれた音が耳に入る。店主は愛情飲料水を取り出し、一気に飲んだ。表情はわずかしか見えないが、店主はにこりと笑った。
「あの、これください! おいくらですか?」
「ん? ああ、いいよ。タダであげるよ」
「え、いえ。ちゃんとお金を払います」
鞄から急いで財布を出し、彼はお金を店主に差し出した。しかし、店主は受け取ろうとしない。
「いいって、いいって。そんなのもう誰も欲しがらないしね。他にも欲しいんだったら、持っていっていいよ」
テレビで愛情飲料水の広告が流れる。軽快な音楽を背に、社長が映る。画面の前のヒトビトに語りかけた。
『不平等な愛が、誰かをこれ以上殺すことはありません』
社長のコトバに、店主は何度も頷いた。
「ワタシには、これがあれば十分だよ」
『平等な愛は……、そう、愛は平等であるべきなのです』
店主は、もうひとつ愛情飲料水を取り出す。空になった缶をぽいっと放る。転がった空き缶から、中身がひとすじ床にこぼれた。
「へへへ。いっぱいもらっちゃいました」
「良かったな」
青年は本を何冊か胸に抱えている。”愛よ永遠に 求婚の手引き”をはじめとして、ほとんど同じような内容の本だ。私も新聞を何日分かもらった。折りたたんで鞄にしまう。
「次は服です! こう、なんか、一生の思い出に残るような、ステキな服が必要なんです!」
私たちは衣装屋を探した。本屋同様、営業中の衣装屋を見つけるのにはなかなか苦労した。
「どうですか、マトウさん!」
「……いいんじゃないの」
「やったあ! あ、でもこっちの白の方がいいかも」
青年がまとっているのは、タキシードだ。それも純白の。
さびれた商店街の一角。お年を召した店主が飲料水片手に、パイプ椅子に座っている。幸せそうな表情だ。ごくごく飲む。次々に缶を開ける。無くなれば、店から数歩の自販機で補充する。
店主の足元に空き缶が散乱し、飲み口から飲料水が垂れて床に広がっていた。甘いにおいが嗅覚をおかしくさせそうなほど漂うが、虫は一匹も来ていない。
店内には花嫁衣裳、花婿衣装が乱雑に積まれていた。青年が試着するたび、ほこりが舞う。青年は全身鏡の前で、ああでもない、こうでもない、とタキシードを比べている。
「最近じゃ、めっきりヒトが来なくなってのう」
「そうなんですか」
「本当、ひさびさのお客さんじゃ。何年振りかのう」
店主は新しい缶をぷしゅと開ける。
「ねえ似合いますか? マトウさん!」
彼は店の中でも、一番純白のタキシードを選んだ。
「似合う、似合わない、じゃなくてちょっとやりすぎな気がするけど」
「い、いえ! 先輩の愛に対してはこれくらいじゃないと!」
「そうか……しかし、学生には値が張るんじゃないのか」
私は彼に近づき、タキシードの値札をつまむ。何度も何度も書き直された値段。ほとんどタダ同然だった。
衣装屋から出ると、もうすっかり暗くなっていた。左手に本、右手にタキシードが入った紙袋を抱え、青年は大満足の様子だ。
「マトウさん! ありがとうございます。家に帰って、本を隅から隅まで読みます! 衣装を着て練習します!」
「そうか」
「えへへ。本当にありがとうございました! じゃあ、また明日!」
紙袋を揺らし、彼は軽やかな足取りで去っていった。
* * *
『容姿、運、性格、資産、エトセトラ。愛の不平等さに、あなたの責任がありますか』
日が昇る。情報収集のため街を歩く。頭上に例の飛行船が飛び交っている。鳥の姿は一切見えない。地面には、無数の空き缶が転がっていた。
『”愛情飲料水”なら、いつでもどこでも誰でも、愛情を得られるのです』
誰かが自販機を利用するとすぐ、パイプから次の愛情が充填される。決して、空にならない。
自販機はヒトビトにやさしい。ボタンは低い位置にもついているし、音声案内もあるし、あらゆる場所に自販機の所在を示す看板も立っているし。なにより、無料だ。あれやこれや理由をつけて、提供を拒絶することはない。
一方、全体的にはひどく手抜きの状態だ。建物も道路も公共設備も畑も森もほったらかし。学校ですらさびれて、空き缶が散らばり、校庭の雑草が枯れている。生徒の影がほとんどない。
道端の空き缶から、飲料水の残りが垂れる。野良猫がやってきた。他の獲物には見向きもせず、缶へ駆け寄る。ぺろりとひとなめする。甘えた声で鳴き、その場で腹を見せて転がった。猫はその状態で、舌だけを伸ばし、愛情飲料水をなめ続けていた。
青年との待ち合わせのために公園に向かった。ベンチに座り、彼を待つ。情報をまとめる。この次元では、愛情飲料水によって愛情が平等に分配されている。新聞、その他情報から察するに、愛情の不足による悲しい事件は起きなくなったようだ。本屋で入手した新聞を鞄から取り出す。
「すべてを平等に愛する素晴らしき社長、ね」
社長の特集記事だ。かなり評判がいい。この社長が独自に開発した、”愛情飲料水”。xx年前に、この次元で流通しだしてから、瞬く間に大流行した。愛がいつでもどこでも誰でも手に入る、と。社長は、巨万の富を得られたはずなのに、あえて無料での配布を決めた。その理由は、彼女が掲げる目標にあった。”究極に平等な愛”の実現。
ピッ。ガコンガコン。ぷしゅ。カランカラン。
愛をもらい、愛情を飲み干し、残骸を捨てる音が幾度も幾度も聞こえてくる。
青年はまだ来ない。他に情報はないか、と公園を歩く。花壇が目に入る。白い木製の柵に囲まれた花壇だ。
「うーん。これは」
空き缶が柵の内側にも大量に落ちている。中身が地面にしみこんで、甘いにおいが漂う。空き缶をひとつ持ち上げる。飲料水が手に付着した。ベタべタする。しかし、
「いないなあ」
いくつか空き缶を確認したものの、虫ひとつついていなかった。シワシワの葉が少々くっついているぐらいだ。
背後から足音が聞こえる。眼鏡の青年だろうか、と思い振り返る。中年の女性が立っていた。麦わら帽子、エプロン、軍手をつけている。手にじょうろとビニール袋を持っていた。
「あら、またこんなに。よかったら、ここに入れてくださる?」
女性はビニール袋を広げ、私の方へ向けた。私は空き缶を数個放り込んだ。
「ありがとうございます。ね、この公園、特に空き缶のポイ捨てが酷いのよ」
「みたいですね」
「ほんとう、ゴミ箱が全然足りてないの。それにみんな、中身を飲んですぐポイ、よ。困ったわ」
ふう、と女性はため息をつき、中腰になって空き缶を拾う。私も手伝った。彼女はもう一度、礼を言った。
「あとね、公園のお花が全然咲かなくなったのよ」
「そうなんですか」
「ええ。つぼみまでは成長するんだけどね。なんだかお花が咲かないの」
たしかに女性の言う通り、周りの花はすべてつぼみで成長が止まっていた。見渡しても、花びらの一枚も地面に落ちていない。女性のぼやきは続く。
「つぼみのままで枯れちゃうのよ」
「そのせいか、虫も少なくなったんだけどね」
「なかなかお花の種も手に入らなくなったし、どうしましょうか」
女性と別れ、自販機が大量に並ぶ方へ向かう。一部の自販機の正面に、投書箱が設置されている。用紙とペンが箱の近くに用意されていた。投書箱は透明なプラスチックの箱で、紙がぎゅうぎゅうに詰まっている。周りに気づかれないように手を伸ばして何枚か取り出した。みな飲料水に夢中で、私の行動を不審に思っていない。内容をさっと確認する。
”もっと、xxでxxな愛が欲しい”
”例えるならxxでxx、その上xxみたいな愛が欲しい”
”自販機を家の庭に設置してほしい”
”自販機を部屋に置いてほしい”
”もういっそ胃に直接供給してほしい”
どれも文字がへにゃへにゃだ。かろうじて読めるほどの汚い文字だ。空き缶に関する要望、例えば自動的に回収するような試み、などを望む声は無かった。私は用紙を投書箱に戻した。
そろそろ青年もやってくるだろう。私はベンチに座り、新聞を読む。
”愛情飲料水 大好評”、”幸せ指数 急上昇”、”ムシが消えた日”、”動植物の繁殖率 急低下”……。
私はこれまでの情報をまとめた。手帳を眺める。愛情飲料水についてもっと知るために、XX社と交渉できそうな材料はないだろうかと考えた。ひとつ思いついた。作業が必要だ。
青年はまだ来ない。ベンチから立ち上がり、女性の姿を探す。いた。花壇で空き缶を集めていた。
「すみません」
「ん? アナタさっきの」
「あの、お願いがあるんですが」
* * *
「マトウさーん! 遅れちゃってごめんなさい! バスが全然来なくって……」
青年は息を切らし駆けてくる。私は作業を中断した。彼はズレた眼鏡を直し、ハンカチで汗を拭った後、学生鞄から分厚い本を取り出す。
「気にしないでいい。なにかコトバは見つかったかい」
「むむむ。まだ悩んでるんです。どのコトバにすればいいのか……」
おびただしいほどの付箋が本についていた。一ページあたり数十枚の付箋が貼られている気がする。青年は、
「失敗したらどうしよう……、傷つくの、怖いです」
と本音をこぼした。深くうつむき、彼の声が揺れる。
「いや、くよくよしてられない。練習してきます!」
青年はすぐに気を持ち直し、近くの木まで移動した。そして、木に向かって練習を始めた。
「え、永遠の愛をち、ちちちち、誓いま……誓い、誓う……、愛を」
顔を真っ赤に染め、しどろもどろになりながら、彼は求婚のコトバを繰り返す。私は、彼を見守りながら作業を続けた。青年が愛をぶつける木、その根元にも空き缶が散乱していた。甘いにおいが漂う。木は、ひとつも葉をつけず、枝も幹もやせ細っていた。
日が暮れかかり、少し肌寒くなる。自販機の大群がオレンジ色に染まる。
「ふう、マトウさん。今日も付き合ってくださってありがとうございます」
「私はなにもしていないよ。君がただ努力してただけだ」
「へへっ。そうだ! もうひとつあげますね!」
照れくさそうに笑った後、青年はミサンガを私に差し出した。私は受け取り、手首に巻く。これでミサンガはふたつになった。
「ところでマトウさん。その大量の空き缶、どうするんですか?」
* * *
XX社を再度訪れた。公園で女性からもらったビニール袋に空き缶を詰めたものを、両手に持つ。歩く度に、缶がガラガラと音を立てた。正面玄関をくぐり、受付へ。先輩が座っていた。
「いつも回収ご苦労様です……。あら、回収員さんじゃなくて、あなたは、ええと。昨日いらした方ですよね」
「はい」
先輩は、私のポケットに目をやった。未開封の愛情飲料水を入れたままにしていたのを思い出した。
「愛情飲料水をお召し上がりにならないんですか? みなさま、お求めになってからすぐに飲み干してしまうのに」
「まあ。いろいろあって」
「いろいろとは?」
「眼鏡の青年が」
「あの子が?」
「自販機の近くでずっとうろうろしてたから、飲まないのか、と言って青年に差し出したんだ、が」
そこでコトバを止めた。先輩の愛がいいです、と青年に拒否されたとは言えなかった。私が先輩に知らせるべきではない。先輩は目を丸くし、パチパチと瞬きをする。
「あの子に?」
「……いや何でもない」
沈黙が流れる。先輩は続きを促す視線をこちらに向ける。しかし、私は黙秘を貫いた。先輩は諦め、
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか」
と告げた。
「愛情飲料水の製造方法を知りたいんです」
「申し訳ございませんが、それは……」
私は集めた空き缶を受付の上に置いた。大量の缶ががさりと広がる。彼女は口を閉じた。
「いやー、それにしても愛情飲料水ってとても素晴らしいです。本当に平等に愛情を配っているんですね」
「花も虫も鳥も猫もヒトも、みんな平等な愛に満足して」
「満足して、もう腹いっぱいで動かないですね」
柔和な表情が一変し、彼女は怪訝そうな目で私を見つめる。
「あなた。何が言いたいんですか。あの子も、どうしてこのひとには……ふたつも……わたしはひとつしか」
ジリリリリリ。受付の電話が鳴る。
「はい、えっ……、承知いたしました」
先輩は静かに受話器を置く。
「あの。社長があなたを社長室に通すように、と……」
「失礼します」
「いらっしゃい」
最上階の社長室。扉を開けると、社長が立っていた。白い服を着こなして、赤い髪をゆるく巻いている。顔には深くシワが刻まれている。新聞や広告で見たままだ。社長室は質素だった。眺めこそ良いものの、贅沢な装飾品も、豪華な美術品も、ひとつも見当たらなかった。必要最低限のものしか存在しない。社長の机に、いくつかモニタが置いてある。そのうちのひとつに受付が映っていた。先輩は、手首につけたぼろぼろのミサンガをゆっくりと撫でている。先輩の手元、受付の裏にもモニタがあった。訪問者からは見えない位置だ。敷地内のあらゆる場所の監視カメラの映像を流しているようだった。
社長は私の目前まで移動する。
「で、アナタ。どうしてそんなに愛情飲料水の作り方が知りたいのかしら」
「不思議だからです」
「不思議、ねえ。不思議は不思議のままにしておく方が、いいこともありましてよ」
「秘密は守ります。だから、教えていただけませんか」
優雅に首を振り、社長は回答を拒絶した。
「嫌よ。アナタがもし噓つきサンだったら、愛が平等じゃなくなっちゃうかもしれないじゃない」
私は食い下がろうとしたが、社長は手を掲げ、それを制止した。
「心配しなくてもワタクシたちは愛情飲料水を作り続けます。そして、みなさまに平等に愛を配り続けます。放り出したりしませんわ。さぁ、お帰りなさい」
お話はもう終わりだ、とばかりに、机の上の内線に手を伸ばす。私は慌てて、ポケットから愛情飲料水を取り出し、成分表示に指を当てる。社長に缶を突きつける。
「じゃあ、この、”愛情”とはなんですか」
「”愛情”とは、そのままよ。愛情ですわ。それ以上は秘密です。でもね、きちんと愛情を注入してありますから。安心してくださいませ」
ううん。これ以上情報を引き出せそうにない。私は飲料水をポケットにしまった。
「アナタ、飲まないのね。せっかく平等に愛を配っているのに。愛が欲しくないのですか?」
「愛をバラまいた結果、世はこのありさまのようですが」
果たして、故意か、偶然か。正面の口が弧を描く。
「それこそが、愛が平等になったという結果じゃありませんか」
社長は内線を操作する。私を丁重に送り届けるよう、社員に指示を出した。足音が聞こえる。私は社長に背を向け、扉に手をかけた。背後で社長が呟いた。
「不平等な愛が誰かを殺すのなら、――」
* * *
ふたりの社員と共に、私は裏口から外に出た。彼らが私の両脇に立つ。私がXX社を立ち去るかどうか監視している。裏口からずっとまっすぐ行った先、木々の中に工場が見えた。暗い夜空に、もくもくと白い煙を吐き出している。厳重な装備の監視員がちらほら。もう少し工場の様子を観察していたかったが、社員に促され、私は正面玄関の方へ移動した。彼らは玄関に立って、私を見つめている。彼らの視線を感じながら、バス停まで続く白いタイルの道を歩く。しばらくして振り返ると社員はいなくなっていた。
「マトウさん!」
バス停の後ろから眼鏡の青年が現れ、駆け寄ってきた。
「君、どうしてここに?」
「ええと、あの。その」
普段から先輩の姿を探して、敷地内をうろついているらしい。青年はちらちらとXX社の方を見る。
「先輩なら、正面玄関のすぐ先、受付にいたよ」
「……」
XX社に向かって、一歩踏み出したかと思えば、数歩下がる。そんなことを繰り返したのち、
「……まだ、勇気がでません」
と、か細く言った。
「そうか。それじゃあ」
私はバス停横の看板を眺めた。XX社の案内図だ。工場潜入の手助けになりそうな情報が無いか、案内図を眺める。
「えっと、マトウさんはこれからどちらへ?」
「愛情飲料水の工場に忍び込む」
「ええ! そ、そんなこと……」
青年は大きくうろたえた。鞄を体の前で握りしめ、なにやらブツブツ喋っている。
「い、いやでも、勇気を、勇気を出して……それに、もしかしたら先輩……」
彼は意を決し、私に耳打ちをした。
「あの、マトウさん。僕についてきてください!」
青年のおかげで、工場の警備をかいくぐることに成功した。先輩のためにどれだけ敷地を徘徊していたのだろう。とにかく助かった。しかし、工場の建屋に近づくまではうまくいったのだが、扉の鍵をどうするか。窓を破って侵入すれば、警報が鳴るだろうし。青年もさすがに、鍵まではどうにもできなかった。
建屋の壁に張り付き次の一手を考えていると、誰かがやってきた。私と青年は茂みに身を隠す。
「あれは……、せ、先輩!」
「それと社長だな」
社長はにこやかに、先輩は緊張した面持ちで歩いている。先輩はあたりをきょろきょろと見渡していた。
「では、鍵を開けてください。施錠も忘れずに」
「かしこまりました。社長」
ピッと短い電子音の後、ふたりは工場へ入っていった。茂みからそろりと出る。青年は大胆にも扉に近づき、取っ手をそっと握った。わずかに扉が動く。
「マトウさん、マトウさん! 見てください!」
「鍵が開いたままになってるな」
「先輩、あとで社長さんに怒られないといいけど……」
音を立てないよう、注意を払いながら扉を開ける。中に入るとすぐ、階段があった。階段の手前、左右に通路が伸び、工場をぐるりと囲んでいる。通路は細く、転落防止の柵がついていた。この階には通路と階段以外何もない。どうやら地下に製造設備があるらしい。私たちは、階段を避け中腰になって通路を進む。適当な場所で、柵の間から地下を覗き見た。
地下工場内は煙がもくもく昇り、壁や床を、曲がりくねったパイプが埋め尽くす。ゴウンゴウンとベルトコンベアの動作音が耳を突く。充填機が液体を缶に入れ、ベルトが無数の缶を運ぶ。ベルトコンベアの終端、パイプが口を開けて待っていた。缶は次々にパイプに吸い込まれていく。パイプの上方、目的地を示した板が天井から吊り下げられていた。こうやって、各地に愛情飲料水が常時配達されているのだ。
工場の中央あたりに、先輩と社長がいた。ふたりの脇に、ベッドが一台と、それから自販機に似た形の機械がひとつ立っていた。社長はその機械を操作し、先輩はベッドに横たわる。社長は、注射針を取り出した。針に透明なチューブがつながり、機械まで伸びている。社長は、諸々の準備の後、針を先輩の腕に刺した。
「協力してくれてありがとう」
「いえ。平等な愛のためです」
「ふふふ。今までは協力をためらっていたのに、どういう風の吹き回しかしら?」
自販機に似た機械に、穏やかな波形が出力される。
「……わたしの愛が届いたらいいな、と思って。決心がつきました」
「なるほど。じゃあ」
私の隣で、青年は口をつぐみ、先輩を見つめている。
「アナタ、じゃあ愛を思い起こして」
「はい」
先輩は静かに目を瞑り、ミサンガをやさしく撫でた。波形が大きく波打つ。
「あら、すごいわ。こんなに激しい愛はひさびさ」
社長は目を見開き、手を叩いて喜んだ。しばらくして、
「うん。うん、分析完了だわ。この感情を再現する成分を、缶に注入して、と」
自販機型の機械が、波形の情報を充填機に送る。
「協力してくれて、本当にありがとう」
針が先輩の腕から抜かれた。
「愛情飲料水を飲んだ誰かは、アナタの愛を再現して、愛情を受け取ることができるわ」
これが、愛情飲料水の正体。
先輩の愛が缶に注入され、ベルトコンベアを流れる。パイプに入り次々にどこかへ旅立っていく。青年は、愛が運ばれていく様子をじっと眺めていた。
「アナタの愛が、みんなに配られるわ。平等にね」
「……よかったです。本当に」
先輩はベッドから立ち上がり、手首を強く握った。
「あ!」
はらりと、先輩のミサンガが床に落ちた。彼女は慌ててミサンガを拾う。
「切れてしまったわね。たしか、切れる頃に願いが叶うんだったかしら」
「……、もう一度つなぎなおします」
「あら、どうして?」
「大事なものなんです。それに、切れてないうちは、まだ先延ばしにできるから」
誰にも見つからないよう私たちはこっそりと工場を後にし、バス停までやってきた。
「マトウさん。僕、決心がつきました」
「そうか」
「ありがとうございます。工場に忍び込んでよかった。大事なことを、僕は知ることができました」
眼鏡の青年は、晴れ晴れとした顔だ。力強く、それでいて澄んだ瞳をしている。
「背中を押してくれて、感謝します」
どうやら、彼の迷いは晴れたようだ。
「僕、やります。先輩の愛を手に入れるために」
* * *
一夜明け、公園。青年と待ち合わせをしていた。結果をどうしても私に報告したいらしい。私はベンチに腰かけ、これまでの調査内容を整理していた。そろそろ、この案件も終了だ。
「マトウさあん! 聞いて! 聞いてください! 僕やりました!」
タキシードに身を包んだ眼鏡の青年が現れる。頬を染め、右手を振りながらこちらへ全力で走ってくる。とても嬉しそうだ。私の前まで来ると、満面の笑みで、体を左右に揺らして、後ろ手に手を組み、口角をこれでもかと上げ、全身で喜びを表現していた。
「マトウさん、僕、やっと先輩の愛を手に入れました!」
「そうか。それはよかった」
「へへへっ。じゃあせっかくなので、じゃんっ」
彼は、左手を私の前に突き出した。キラリと銀色が光る。
「これが先輩の愛です!」
その手には、――缶がひとつ。
「工場に潜り込んだおかげです。先輩の愛が入ってる自販機を特定できました!」
「ほんとう、勇気を出してよかったです」
「先輩以外の愛はいらないんです」
「辛い思いをせずに、愛を手に入れられる。こんな冴えない僕だって、愛を手に入れられるんです。一切傷つかずに」
「永遠の愛を誓います」
青年は缶に口づけをした。
* * *
「不平等な愛が誰かを殺すのなら、――平等な愛でみんなを殺したほうがいいじゃありませんか」
不可思議定数x 第四話 「愛情飲料水」 【終】
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