公爵邸の二人の女性





「母さま! あのね、今日は王城にいくんだけど……王城には母さまの好きな薔薇が咲いてるし、綺麗なものもたくさんあるよ。――ぜったい母さまって呼ばないし、僕が守ってあげるから、今日こそはいっしょにいこう?」

「まあ、素敵ね」


 そう言って母は、優しくアルバートの頭を撫でた。


「でもね、母さまは行けないの。父さまと、……母上と行ってきて、母さまにどんな素敵なものがあったのか教えてちょうだい」

「……わかった!」


 公爵夫人――父から母上と呼ぶように言われている――じゃなくて、一度でいいから母と出かけてみたかった。

 きれいなものを、たくさん見せたかったのに。


 だけど「楽しみにしててね」とにっこり笑った。アルバートが悲しい顔をすると、母が悲しむことを知っている。


 ありがとう、と微笑んだ母がアルバートを強く抱きしめた。



 ◇



 母はずっと屋敷の中にいた。側にはいつも、父がついていた。

 外は母にとってとても危険なのだそうで、父はたまの外出の時は本当に辛そうに母を置いていき、公爵夫人を伴った。今日のように、アルバートを連れていくこともあった。


 出かける時、父は必ず同じことを言う。


「いいかい、アルバート。母さまのことは誰にも内緒だ。絶対に誰にも言ってはいけないよ」

「でも父さま。殿下とルラヴィは知ってるよ。それから陛下も……」


 彼ら二人と、それから国王陛下。その三人と、父があらかじめ了承したごく一部の供だけは、公爵邸に訪れることも母と会うことも許されている。


「あの二人は良いんだよ。私と母さまを引き合わせてくれたお家の子だし……アルバートがお友達と遊んでいる姿をどうしても見たいというのが、母さまからの初めてのお願いだから……」


 不本意そうにため息を吐く父は、「ああ、行きたくない」と呟いた。そんな姿を、公爵夫人はいつも困ったようにたしなめる。

 しかし今日は、随分と憂鬱そうに窓の外を見ていた。父はそんなことに全く気づかないようだけど。


 公爵夫人はアルバートの外での母親だ。とても怖くて、時折優しい。


 ……ルラヴィや殿下のお家では、母さまじゃない人を母と呼ぶことはないらしい。それに、母さまとも一緒にお出かけをする。

 自分の家は、ちょっと変わっているのかもしれない。

 そんな違和感を抱えながらも、はっきりと自分の家が異常なのだと気づいたのは、母が倒れて亡くなった時のことだった。


 ◇


 母が亡くなったのは、その王城に訪れた数日後。

 父が遠方の領地に視察に向かったその日の夜だった。


 アルバートが寝てしまったあと、母は階段から落ちたのだという。

 その場にいた公爵夫人が大声で人を呼びながら必死で介抱したそうだけれども、助からなかった。


 棺の中で眠る母の指先にそっと触れてみる。冬の日の石畳のようだった。


 何か温めるものを探そうとして振り返ったアルバートは、ヒュっと息を呑んで固まる。 

 目の前にいたのは、全身泥だらけで震えながら目を血走らせて母を見つめる父の姿だった。その後ろにいる公爵夫人が、父の背に手を伸ばして――。


「触るな!」


 怒号が飛ぶのと、乳母である侍女長が咄嗟にアルバートを抱きしめて、目を塞ぐのは同時だった。


 しかしながら聞こえてくる怒号や罵声、父を必死で止める執事や騎士の大声や、公爵夫人の悲鳴は耳の中に入ってきた。


「お前だろう! お前がセレニアを……!」

「閣下! 落ち着いてください、ヘレナ様はっ……!」

「うるさい! 黙れ! 何故セレニアを!……ただの替え玉が、本物にとってかわれるとでも思ったか!」


 父は錯乱し、棺に取り縋って泣き続けた。

 国教の敬虔な信徒である父は、最大の禁忌である自死ができなかった。


 アルバートのことは侍女長と公爵夫人に一任するとだけ言い、自分はこれまで以上に屋敷に――いや、自室に引きこもった。母の眠る棺と共に。



 翌日は、アルバートの六歳の誕生日だった。六歳の彼に与えられたものは、公爵夫人による教育だった。

 そこから十四歳を迎えようとする日まで。彼に与えられるものは、それしかなかった。



 ◇



「……セレニアの侍女が盲目になったと聞いた」


 父がそう言い出したのは、アルバートがじきに十四を迎える頃だ。

 何年も前の話を、今更か。そう思いつつも、随分久しぶりに父の顔を見る。


 ーー数年が経って、ようやく少しだけ正気に戻ったのだろうか。なけなしの理性は全て仕事に向けていたようだけれど、近頃はアルバートが仕事を肩代わりし始めた分、考える余裕ができたのか。


 濁った目をアルバートに向けた父は、悔やむようなため息を吐いた。


「……ヘレナをあそこまで追い詰めてしまったのは、私のせいだ」

「……母上に、何をなさったのですか」


 皆言葉を濁していたことを尋ねると、父は言いにくそうにポツポツと呟いた。

 この年になれば、ある程度のことは察していたと思ったがーー語られる内容はおおよそ予想通りで、しかし想像以上にむごいものだった。



 アルバートの母であるセレニアは、当時十五歳の王太子だった現在の国王陛下と、女奴隷との間に生まれた庶子だった。

 奴隷に手をつけたといっては外聞が悪い。ゆえにその子どもはアッシュフィールド公爵が管理している修道院で育てられることとなった。


 それから十五年ほど経ち、既に即位していた国王は、なかなか子供に恵まれない。

 ある程度の才覚があるのならば奴隷の子でも仕方ない、とセレニアを王城に呼び寄せた。


 父はその時初めて恋をした。誰の目にも触れさせたくないほどの恋だった。

 そこにいたのがアッシュフィールド公爵と、国王だけだったのは幸いだ。このまま存在を隠し通すことができる。


 渋る国王をなんとか説き伏せ、交渉の末にセレニアを手に入れることになった。

 そうしてその日のうちに一緒に暮らし始め、しばらくしてセレニアはアルバートを身籠った。同時に国王も子どもを授かったのでホッとした。後継で揉めることはないだろう。


 しかし一つだけ、問題がある。


 彼女をけして人目に触れさせたくなかった父は、対外的に独身で通していた。

 彼女を妻として知らしめることは、数多の人間の目に触れさせることとイコールだ。避けたいが、生まれる子どもは自分の後継となる子だ。母親は公表しなければならない。


 悩んだ末に、あることを思いついた。


 ――似たような髪色と瞳を持つ娘と結婚し、母親役にすれば良いのだと。


 そうして父は銀髪の貴族令嬢を探し、公爵夫人ーーヘレナを見つけた。求婚し、急いで婚姻を結んだ。


 愛されて望まれて結婚したと思ったヘレナは、夫から愛人の子の母親役を演じてほしいと言われて絶句した。


 誇り高い彼女はおそらく馬鹿にするな、と言いたかっただろう。しかし財政難の夫人の実家に、縁続きになるのだから、と手土産として公爵家から鉱山が譲渡されている。それから永久的な支援も。


 そこから夫人は、アルバートの母親役と社交だけをこなしていた。

 そして母が亡くなった日。父にあらぬ疑いをかけられ罵倒され、心を壊してしまったのだ。



 父が語り終えると、重い沈黙が部屋に広がった。


「……お前も、私を恨んでいるだろうな」

「いいえ」


 心底おぞましいと思っているだけだった。父のことも、自分のことも。


「……お前もヘレナと一緒に暮らすのは、辛いだろう。私はヘレナを連れて領地へ戻る。これ以上揉め事を起こされてはかなわん。セレニアのことは、絶対に誰にも知られてはならん。絶対にだ。未婚の王族は王城の墓に入らねばならないからな。私は、南の領地で最期を迎える。……そうしたらセレニアもようやく土に還れるだろう」


 こんな時でも、やはり父の考えることは母のことだけだった。いや、自分のことだけだった。


「……お前も、いつか人を愛したら父さまの気持ちがわかるさ」


 冷ややかな目線を受けて、気まずそうに微笑む父がそう言った。


「……そんな日は来ないでしょうね」


 私は、あなたのようにはならない。

 軽蔑と一緒に思いを込めて、アルバートは父を見た。



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