手放したくないと思っていたい




 ――近々公爵邸を離れ、幸せな未来を歩んでいく彼女に話すべきではなかったかもしれない。


「ひどい……」


 全てを聞き終わったヴィオラが、小さな声で呟いた。


「……父だけじゃない。屋敷に飾っていた絵も、全て公爵家による歴代の被害者たちがモデルになっている」


 その加害者の血は、自分にも流れている。

 以前誰も好きになりたくないと言った、あの言葉の真意がこれだ。


「……公爵夫人は、とてもお辛かったのだと思います。正直私は、公爵様が怖いです。どうしてそんなにひどいことができるのだろうか、と……」


 だけど、とヴィオラが少し声を震わせた。


「傷ついている小さなあなたを徹底的に傷つけたことは、絶対におかしいです。例え世界中の誰もが……例え旦那様が許そうとも、私は夫人も公爵様も、一生絶対に許すことはできません」


 毒を盛られて生死を彷徨ったのはヴィオラなのに、彼女はアルバートを慮る。

 その優しさに浅ましく救われている自分を自嘲し、優しさに甘えて幸せを望んではならない、と自身を戒めた。


 ヴィオラの顔が青ざめている。気丈に振る舞っているが、アルバートのことも怖いのかもしれない。無理もなかった。


 辛いが――当然のことだ。

 これから彼女が公爵邸を出る日まで、なるべく距離を置いて。陰から見守ろう。


 そう決意するアルバートに、耳を疑うような言葉が聞こえた。



「……そして。お母様は、旦那様のことをとても愛していたんですね」

「え?」

「ならば旦那様はやっぱり、幸せにならなければ」


 全く予期していなかったセリフに思わず顔を上げた。

 泣きそうな表情のヴィオラが、無理に作った微笑を浮かべている。


「何も願わなかった……もしかしたら願いたくなかったお母様が初めてなさったお願い事は、旦那様とお友達が一緒に遊ぶ姿を見ることだったのでしょう? 楽しそうに笑っている姿を見ることが願いだなんて、本当に美しい愛情だと……私は思います」


 そこまで言って、ヴィオラは母の肖像画に目を向けた。


「……愛された分幸せになることは、愛された者の責務です」


 困惑した。

 そんなことを考えたことは一度もない。


 自分が母に宿ったことで、たくさんの人が不幸になった。


 もしもアルバートがこの世に存在しなかったら、少なくとも侍女長や公爵夫人が不幸になることはなかっただろう。

 ヴィオラも自分のような男の元に嫁ぐことなく、毒に倒れることもなかったはずだ。


 自分を庇おうとしたハリーやマッシュの背に、消えない傷跡が刻まれることもなかっただろう。



 けれど、確かに母は。思い出の中の母は、いつもアルバートを見ては『生まれてきてくれてありがとう』と幸せそうに笑っていた。

 もう十数年、思い出すことのなかった記憶だった。



「――とはいえ、何を幸せと思うかは人それぞれなのでまずは旦那様の幸せ探しをしなくちゃですね!」



 そう言って笑う姿にたまらなくなって、ヴィオラをふわりと抱きしめた。腕の中のヴィオラが石像のように硬直し、「ななななな」と言った。


「――幸せならもう見つけてる」


 囁くと、ヴィオラがびくりと震えた。


「だから少しだけ、こうしていてもいいだろうか」


 喉元に込み上げる熱いものを必死で飲み下すと、声が震えた。

 息を呑んだヴィオラは数秒沈黙したあと、かすかに頷いた。


 ヴィオラが遠慮がちに、アルバートの胸に顔を押し付けた。


 色鮮やかな幸福がアルバートの世界を砕いて、眩しさに息もできない。

 彼女の体温や香り、髪の先から指先まで全てが愛しくてたまらなかった。


 手放せない。手放したくない。君の側にいることを願って、努力しても良いのだろうか。


 君が逃げたくなった時には、絶対に手を離すから。

 そう思って抱きしめる腕に力を込めると、腕の中のヴィオラの体温が上がった気がした。




 ◇

 


「――完全に二人の世界だったわね」

「なんというか、こちらの方が恥じらってしまったな……」 


 アルバートがヴィオラを抱きしめた瞬間、ルラヴィとエセルバートは空気を読んで急いで部屋の外へと退避した。


「それにしても……私たちが何年かかってもダメだったことを、あっという間に成し遂げるなんて」

「ヴィオラ嬢は一度も逃げずに、ただ目の前のアルバートと向き合っていたからな」


 それは……確かにそうなのだろう。

 ヴィオラは目の前のアルバートを見て、まっすぐに接していた。

 純粋で優しい。眩しいくらいに素敵な女性だと、ルラヴィも思う。

 だからこそ、暗い気持ちで口を開く。



「……そして殿下は、そんなヴィオラ様を利用したのでしょう」


 目の前のエセルバートは、感情の読めない微笑を浮かべた。

 綺麗事では何も守れなかったからとでも、きっと思っているのだろう。


 ――もう、あの日の殿下はいないのだ。

 弱気で、優しくて、泣き虫だったあの少年は。

 快活で明るいアルバートがいないのと、同じように。


 ――私も、そうなのでしょうけれど。


 もう戻れない時間を懐かしんでいると、キイ、と音を立てて宝物庫の扉が開き、アルバートが一人で出てきた。


「お気遣い頂きありがとうございました」


 そう言うアルバートの表情は、どこか懐かしい晴れやかな表情をしていた。


「お前……そんな別人のように満足気な顔をして……。ヴィオラ嬢は?」

「少し瞑想をしたいと。宝物庫の中に一人ですが……構いませんか」

「もちろん」


 アルバートに生温い微笑を送りながら、エセルバートが頷いた。


「随分吹っ切れた顔をしている。何か覚悟が決まったようだな」

「彼女が倒れた時点で覚悟は決まっていましたが。……そうですね。私自身のために、もう全てを終わらせようと思います」


 そう言うアルバートの顔は穏やかだった。

 そんなアルバートに、エセルバートは目を細めて微笑んだ。


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