亭主元気で留守がいい①
突然だけれど、私は五感に心地良いものが大好きだ。
良い香りがするものや、胸に迫る音楽や、肌触りが心地よいものはなんて最高なんだろうと思う。
例えば川のせせらぎの音に耳を澄ましながら、お日様の香りのする柔らかなお布団に身を委ねる時は至福の一言。
それからまだやったことはないけれど、いつか猫のゴロゴロを聴きながら思う存分匂いを嗅いで、お腹に顔を埋めるのもやってみたい。多分天国に飛べると思う。
だけど何より私は、五感の中でも綺麗なものを眺めるのが大好きだった。
前世、人生をほぼ病室で過ごしていた私はいつも綺麗なものを眺めていた。
母が窓辺に吊るしてくれたサンキャッチャーの光だったり、眠れずに迎えた朝焼けだったり、ファッション雑誌や本に載っている宝石だったり、父が手術前にお守りとして買ってきてくれた、ちゃちながらもちゃんと輝くパワーストーンだったりと。
それらはいつも、私を慰めてくれるお守りみたいなものだった。
宝石も、純金の食器も、ドレスや靴も。それからどの世界でも変わらない朝焼けや、朝露に濡れる蜘蛛の巣や、季節の花や、冬の夜空の星々も。
それから綺麗な人も好き。
まあ昨夜、幸か不幸か「やっぱり人間顔じゃないな……」という真実に気づいたけれど、以前の私にとって綺麗に着飾った紳士淑女が集まる夜会は血湧き肉躍る眼福祭り。つくづく貴族に生まれて超ラッキー。
だからこそ公爵家に嫁ぐと決まった時は、「うわもう最悪誰得だよ」と言う気持ちが六割、夢見る乙女心が一割、「一流の物が見放題じゃん!」という打算が三割だった。
王国序列第一位の公爵家の芸術品……さぞや凄かろう。庭園も調度品も、素晴らしいものが集まっているに違いない。
まあ夫は多少とんでもないけど、三食豪華な食事付きで美術館に住めると思ったら……逆にこれは、中々良いかもしれない。
禍福は糾える縄の如し。
そう思っていたのだけれど、またしても。
◇
アルバート様を乗せた、装飾のない黒塗りの馬車が去っていく。
私はハーマンという執事と一緒にアルバート様を真顔で見送る。
そして馬車が全く見えなくなった瞬間に、思いきり空気を吸い込んだ。
(快適!)
非道のいない空気は美味しい!
なんという怒涛の一日半だったのだろう。この一日半ーーいや、正確には半日で、私は既に三年分くらい怒ったと思う。全く初めてですよ、ここまで私をコケにしたお馬鹿さんは……。
しかし、鬼の居ぬ間に何とやらだ。
私は先程までとは打って変わって晴れやかな表情で、横にいるハーマンさんに向かった。
多分、年齢は三十代前半だろう。オールバックにしたダークブラウンの髪に、銀縁の眼鏡の彼には仕事ができるオーラが漂っている。
「あの、ハーマンさん。もし良ければ屋敷の中や、庭園を見たいのですが」
「ハーマンとお呼びください、若奥様。私でよろしければ、このまま案内させて頂きたいと思うのですが……」
「わかおく…………ヴィオラと呼んでください。ではハーマン、よろしくお願いします」
「……かしこまりました」
私の引き攣った顔を見て、ハーマンは一瞬何かを言いかけたものの、すぐに完璧な微笑を浮かべて「では庭園から。……非常にシンプルですので、見応えはないかもしれませんが」と謙遜しながら歩を進めた。
◇
大貴族フィールディング公爵家の庭園は、さぞかし広かろうと思った。
きっと一日じゃ見て回れないほど見応えがあり、美しく整えられた芝生はきっと庭園の花を引き立たせ、そろそろ本格的な秋の訪れにともなって、赤や黄色の絨毯を生み出す落葉樹が風情ある様子で佇んでいるのだろうと。
しかし、確かに広大なその庭園で、私が目にするのは行けども行けども見渡す限り一面の草ばかり。
確かに丁寧に整えられてはいるけれど、芝生しかないのだった。
貴族の庭園には必ず咲いているだろう花はなく、四季を楽しむような木々はない。
少し遠くに湖があり、その水辺には鬱蒼と木々が茂っているようだけど、なんだかそこだけ異質に茂っていて逆に怖い。
それ以外は見渡す限りの草、草、草。これはもうこちらの方が草である。
「すごい……芝生ですね」
褒めようにもコメントしようがなく、なんとか言葉を捻り出すとハーマンが真顔で頷いた。
「はい。芝生しかございません」
「これは……アルバート様のご趣味ですか?」
このお屋敷はフィールディング公爵家の本邸だけれど、当主である公爵様は病に倒れるより数年前から、ここから少し離れた南の領地で公爵夫人である奥様……アルバート様のお母様と暮らしていた。
そのため、ほぼ全ての執務は現在アルバート様が行われているらしい。もちろん、重大な決定は全て公爵様がなさるそうだけれど。
とにかく、公爵夫妻が住んでいない以上はこの屋敷の管理は現在アルバート様がしている筈だ。
さすがに女主人である公爵夫人……私にとっての姑は、庭園をこんな風に丸刈りにはしないはず。
式の日に、公爵邸に立ち寄ってくれた時に一言二言お話ししただけだけれど、人当たりの良い彼女は上品で、極めて常識的な夫人だった。こんなシュールな庭にするような、エキセントリックな人には見えない。
「趣味、とは少しニュアンスが変わりますが……。アルバート様は美しい庭園を見る、というような時間や感受性は持たれませんね……」
「そうですか……」
時間や感受性がなくても、庭師にお任せで整えてもらえればいいのに……。
知れば知るほどアルバート様にドン引きしつつ、私は引き攣りながら「じゃ、じゃあ次は屋敷の中を……」とハーマンに告げたのだった。
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