第87話 大人になりたくない

 アルドとイーリスは公園に向かった。昔、イーリスが今よりも幼かった頃にこの公園で遊んだことがある。


 その公園に遊ぶ無邪気な子供たち。母親に見守られながら、子供らしい自由な発想で遊び、暴れまわり、そして感情を表に出していく。イーリスにもそういう時期はあった。


「…………」


 イーリスは公園を見てさみしそうにうつむいていた。ここには自分と同年代の子供はいない。自分より幼い子供が遊ぶような場所である。ほんの数年前までは、イーリスもここに混ざっていてもおかしくはない年齢であった。しかし、今は違う。イーリスは同年代と比べて背は低い方ではあるが、それでもここにいる子供たちよりは身長が高い。もし、彼らに混ざろうものなら明らかに浮いてしまう。


「お父さん。私って、いつまで子供でいられるの?」


 イーリスが胸を抑える。だが、すぐにその手を胸から離す。そこに触れれば嫌でも自分の成長を実感してしまう。


「いつまで子供か。それはわからないな。大人と子供の境界ってのは曖昧なものなんだ。イーリスから見れば、クララやミラはお姉さんに見えるだろう? でも、僕からしたら、彼女たちもまだまだ子供として映っている」


 クララとミラも歳の割にはしっかりしているように見えるけれど、アルドから見れば時折まだ少女なのだと思うようなこともある。


「クララとミラは今、大人と子供の境界にいる。子供ってのは、ある日を境にいきなり大人になるんじゃなくて少しずつ大人に近づいていくんだ」


 アルドはイーリスを見る。娘の成長の体の成長は確かに感じている。それに比べると精神年齢の成長が少し遅れているようにも思えた。順当に成長していけば、イーリスも自立心が芽生えて、親の手から少しは離れたいと思うような年齢である。でも、イーリスはそういう成長を拒否している。アルドに強い依存心を持っているのだ。


「僕はイーリスもその境界にいると思う」


 イーリスは目を見開く。アルドにそう思われていることにショックを受けてしまった。


「私はもう子供じゃないってこと?」


「どうだろうな。難しい時期だからね。でも、イーリスは今は子供で通用するけれど、後数年もすれば通用しなくなることも多くなる」


 イーリスにとっては残酷なことかもしれない。でも、ここでイーリスの心の成長をアルドが拒んでしまえば、イーリスは一生精神が未熟なまま体だけが大人になってしまう。そんなことはイーリスのためにならないとアルドも心を鬼にした。


「うん……私も本当はわかっていたんだ。私ももうすぐ12歳になる。私とクララさんが出会ったのはクララさんが14歳の時。クララさんは9歳だった私の目から見てすごい大人に映っていた。私、後2年であそこまでならないといけないのかな?」


「別にイーリスがクララにならなきゃいけないってことはない。体の成長が人それぞれ違うように心の成長も違うんだ。イーリスは自分のペースで大人になれば良い」


「うん……でも、私。本当は大人になんかなりたくないの」


 イーリスがボソっとつぶやく。


「どうして?」


 アルドからしたら不思議なことであった。子供は大人に憧れてなりたがるもの。そういう風な刷り込みはある。イーリスが大人になりたくない理由。それは色々と複雑な事情が絡み合っていてかなり根深い問題なのだ。


「だって……私にはお母さんの血が流れているから」


 アルドはその言葉にハッとした。


「お母さんが出ていく前に言っていたことがあるの。イーリスもいつか大人になればお母さんの気持ちがわかるって。私、お母さんの気持ちなんてわかりたくない」


 イーリスの母親は夫を裏切り、不貞を働き、娘も捨てて家から出ていった。そんな母親が言った言葉。それがイーリスに呪いのように埋め込まれてしまう。


「ごめん。イーリス」


「どうしてお父さんが謝るの?」


「そういう思いにさせたのは僕の責任でもある」


「お父さんに責任はないよ」


 イーリスの外見はどちらかと言うと母親似である。だから、イーリスは自分の外見が成長して母親に似ていくうちにそれに対して強い嫌悪感を覚えてしまう。娘が母親に似るのは仕方のないことである。イーリスにとって、母親は尊敬できる存在ではなかったのが不幸だった。


「イーリス。大丈夫だ。僕がついている」


「お父さん?」


「僕だってイーリスの親だ。イーリスには僕の血が流れている。それは間違いない。僕は浮気をするのが大人だとは思わない。イーリスにもそう教えたつもりはない」


 イーリスはその言葉に心の中にあったモヤが少し晴れた気がした。


「だって、私……外見がお母さんに似てきているし。お父さんはお母さんを恨んでいても仕方ないし、私が大人になるってことは、お父さんに嫌われるってことじゃない」


「イーリスとあの人は違う。そりゃ、親子だからある程度似てしまうのは仕方のないことだけど、違う人間なんだ。実際、僕とイーリスは血がつながっているけど、こうして違う考えを持っているだろ? だから、こうして話が今ぶつかっている。それと同じ。血がつながっていてもあの人とイーリスは違う」


「じゃあ……お父さん。私が大人になっても、私のことを好きなままでいてくれる?」


「もちろんだ。イーリス以上に大切なものなんて僕にはないから」


「……ぐす」


 イーリスは涙を一筋流して、アルドの胸に飛び込んだ。


「うわっ……」


「ありがとうお父さん……私……立派な大人になる」


「ああ」


 イーリスの心のもやもや。つっかえているものが全てなくなった。アルドはイーリスが健やかに成長できるようにこれからも父親としてがんばるつもりでいる。



「お父さん。ふふ」


 ある日のこと。イーリスがアルドにべったりとくっついている。


「イーリス。いつまでも父親にべったりとくっついている大人はいないよ」


「そんなことないよ。大人だって好きな人にはべったりとくっついているじゃない」


 すさまじい反論をしてくるイーリス。確かに大人になってもお互い好き同士であればベッタリとしたり、イチャイチャしてもおかしくはない。


「それとこれとは違うような」


「違くない。それに、私はお父さんから離れたお母さんとは違う人間だよ。全く違う人間だから、こうしてくっついてもいいじゃない」


「いいのか……?」


 アルドもイーリスには強く反論できないでいる。親離れして欲しいとは思っていても、やっぱり心のどこかでは父親は娘に甘い部分があり、こうして甘えられるとどうしても弱い。これが悲しい父親の生態なのである。


「いや、でも……今はまだ大丈夫だけど。イーリスが成長したらさすがにまずいか?」


 イーリスも年頃の少女なわけで、同年代の中には父親離れをしている子もいる。それを考えると、案外こうしてくっついて甘えるのは世間一般ではギリギリの年齢なのかもしれない。


「お父さん。お父さん」


 イーリスがゴロゴロと喉を鳴らすようにして甘える。


「イーリスもその内大きくなるだろう。そうすれば恋の1つでもするわけだ。そういう風に甘えるのはその彼氏のために取っておいた方が良いんじゃないか?」


「ん?」


 イーリスは首をかしげる。アルドの言っていることがよく理解できていない。


「なんで? 私。お母さんとは違う人間なんだよ。お父さん以外に浮気なんてするわけないじゃない」


「へ? う、浮気……?」


 イーリスの口から出たとんでもない言葉にアルドは固まった。浮気という言葉に聞き間違え説を考えてみるが……


「うん。そうだよ。他の男の子のことが好きになるのは浮気だよ」


 聞き間違いではないことがわかってしまった。

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