第86話 イーリスとデート

「デ、デート? 親子で?」


 アルドはイーリスの発言に面を食らってしまった。アルドとしては、娘をそういう目で見るつもりは一切ない。そりゃ、イーリスのことは好きだし、可愛いと思うことはあるけれど、それはあくまでも親としての愛情で恋慕とはまた違い感情である。


「うん。親子デートって言葉もあるでしょ? 別に私を恋人にしてってわけじゃないの。ただ、今日はここで一緒に楽しく過ごして……そして、私の嫌な思い出を塗り替えて欲しいの」


 イーリスは少しもじもじと伏目がちにアルドにおねだりをする。単純にデートだけだと男女のそれを連想してしまうけれど、親子デートならば異性の親子が一緒にお出掛けをしているだけというイメージになり、アルドにそこまでの忌避の感情を与えなかった。


「お父さんの前ではできるだけ言いたくないけれど、前の家だっていやな思い出はいっぱいあった。でも、お父さんが新しく楽しい思い出で上書きしてくれたから、出るときに寂しい思いもあったんだ。もし、お父さんがそうしてくれなかったら、私は喜んであの家を出ていたと思う」


 スラム街にあるアルドとイーリスの家。イーリスにとっては、楽しい思い出ばかりではない。辛く苦しい思い出だってたくさんあったはずである。しかし、イーリスはその家のことは嫌いではなかった。今のアルドがいてくれたからである。


「だめ……かな?」


 イーリスの消え入りそうな声が街の雑踏にかき消される。だが、アルドはその声を聞き逃さなかった。アルドはイーリスに向かってニッコリとほほ笑んだ。


「ああ。わかった。イーリスの嫌な思い出が全部消えるくらいに楽しい時間にしよう」


「やったー!」


 小躍りするくらいの勢いで跳ねまわるイーリス。そのはしゃぎっぷりは、幼少の子供を見ているようでもある。イーリスは今ではそれなりに大きくなり、大人の体に近づきつつある。しかし、彼女の精神は今、母親がいた時と同じ年齢にまで一時的に引き下がっていたのだ。


「ねえねえ、お父さん。あそこの広場の泉のところに行こ?」


 イーリスはアルドの手を引っ張る。泉がある広場にいくと、そこにはかなりの数のコインが投げ入れられていた。


「この泉にコインを投げ入れると願いが叶うんだって。ねえ、やってもいい?」


「ん? まあ、いいけど」


 アルドはサイフからコインを取り出してイーリスに渡した。イーリスは手をぐっと握りコインを手の中に収める。


「やった! 前にここに来たときは、お父さんとお母さんにお金がもったいないからやめろって言われてたんだ。えへへ」


 イーリスはアルドからもらったコインを手に取り、陽の光に透かして見てみる。


「あの時の思い出と一緒に飛んでいけ。えいっ!」


 イーリスがコインを泉に向かって投げる。ポチャっとコインが入る音がして、コインが沈んでいく。


「イーリス。なにをお願いしたんだ?」


「えへへ。お父さんといつまでも一緒に暮らしていけますようにって」


「あはは。そうか」


 アルドは少し複雑な気分になる。イーリスにそう思ってくれるのは嬉しい。けれど、イーリスもいつまでも子供ではない。今よりも更に大きくなり、いつかは好きな人ができて結婚してその人と新しい家庭を築く。そうなったらアルドと一緒に暮らせなくなる。それはそれで寂しいけれど、イーリスの幸せを願うならアルドもそれは受け入れるし、喜ばしいことである。


 イーリスが不意にアルドの腕に絡みついてくる。


「イーリス? どうしたんだ? 急に」


 体を密着して甘えるようにベタベタとする。完全に恋人がするようなイチャつきと同じである。


「いいの。私がこうしたい気分なんだから」


「そっか」


「…………本当はね。お父さんはこうしてお母さんと一緒に歩いていたの。私もお父さんの腕に絡みつこうとしたけれど、それはダメだってお母さんに怒られたんだ」


 イーリスの表情に陰りが生まれる。あの時の母親は間違いなく父親のことが好きだったはず。でなければ、実の娘相手にも嫉妬するわけがない。でも、結果的に母親は浮気をして、父親と娘を捨てた。一体、母親の何がそうさせたのか、同じ女性であるイーリスにもその気持ちはわからなかった。


「だから、こうやって組み付くことで上書き! お母さんの居場所はもうないもんねーだ」


 イーリスは、少し拗ねたように口をとがらせる。でもどこか笑顔で幸せを感じている様子であった。


 その一方でアルドはあることに気づいていた。イーリスの体の変化である。イーリスの体がやけに柔らかくて丸みを帯びているのだ。


 ほんの数年前は痩せこけていて見るも痛々しい姿であったが、ちゃんと栄養を取ることでそれは改善された。その時に標準体型に戻って体もある程度肉付きが良くなったが、それ以上に女性的な丸みを腕で感じるようになった。


 イーリスの第二次性徴は既に始まっている。そのことを意識した時に、アルドのイーリスへの印象が変化してしまう。イーリスはもうただの無邪気な子供ではない。体は大人の女性へと成長しつつあるのだ。


 そう考えた時に、このイーリスの精神のアンバランスさが気になってしまう。子供の体躯のままならば、ほほえましい行動の数々であるが、それが大人になるとやはり受ける印象がどこか違う。


 心の成長が遅れているのか、自分が心の成長を拒んでいるのか……それとも、もう心は成長しているのに、親の前では子供を演じているのか。それがアルドにはわからなくなった。


 この時、アルドの中でイーリスは今までとは違う異質な存在に映ってしまう。なにせ、アルドは男性である。この世に生を受けてから、女性として生きてきた時間が1秒たりとてない。これが女子にとって普通のことなのか、それすらもわからない。


 相談する女親もいない状況でアルドは、腕にイーリスの体温と感触を感じながら、どこかもやもやした気持ちを抱えていた。


 イーリスは確実に成長している。でも、自分は今のままの対応で良いのだろうか。体の成長に合わせて少しずつ精神的に自立させるために、アルド自身も子離れした方がいいのか。そういう難しいことも考えてしまう。


「どうしたの? お父さん」


 イーリスがアルドの顔を覗き込む。神妙な顔をしているアルドを見てイーリスもまた心配をしてしまう。


「ああ、いや、なんでもない。親子デートを楽しもうか」


「うん!」


 アルドは考えるのをやめた。今はイーリスと遊ぶ時間であって、将来のことを考える時間ではない。それはまた後で考えるとして、イーリスに集中をする。


「…………」


 イーリスが一瞬黙ってしまう。ほんの一瞬であるが、彼女の心にある変化を与えた。


「お父さん! あそこにハトがいるよ。ちょっと見てみようよ」


 イーリスは子供のようにはしゃいでからハトにそっと近づく。


「ねえ、お父さん。このハトかわいいね」


 そう言いつつもイーリスはアルドの視線が自分に向けられていて欲しいと願っていた。本当はハトのことなどどうでも良かった。ただ、ハトを見て無邪気に喜ぶ自分を見て欲しいと。


 イーリスも感じていたのだ。アルドの心になにかしらの変化があることを。


 このままではアルドの心が自分から離れてしまうのではないかと不安になる。それをなんとしてでも防ぎたい。イーリスなりに必死に考えてその結果、親に構ってもらおうと子供らしい振る舞いをしてしまう。


 もうこれ以上、親が自分から離れていくのは嫌だ。自分に危害を加える親も嫌だ。優しいアルドとこのままずっと一緒にいたい。イーリスはなんとしてでもアルドを自分に繋ぎとめておこうとする。

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