第85話 イーリスの過去
「お父さん。明日は一緒にお出かけしよっ?」
夜の寝る前の時間にイーリスがアルドにぎゅっと抱き着きながらおねだりをした。
「ああ。いいぞ。イーリス。どこか行きたいところがある?」
「うーん。お父さんは行きたいところはないの?」
イーリスはふと
「僕が行きたいところ? 考えたこともなかったな」
アルドは顎に手を当てて考えてみた。イーリスの話によると、記憶を失う前のアルドは良くイーリスを置いて酒場に向かっていた。飲んだくれていたアルドであるが、今のアルドはイーリスを置いて飲みにでかけるようなことはしない。
全く飲酒をしたくないというわけではないが、イーリスが飲酒をするアルドを嫌がっているのでアルドは酒を飲まないようにしているのだ。
記憶を失ってからはイーリス中心の生活。炭鉱で仕事をするか、それともディガーとしてダンジョンに潜るか。それくらいしか趣味と言えるようなものはなかった。
「うーん……僕がやりたいことってなんなんだろう」
考えれば考えるほどにアルドの思いはイーリスが喜ぶ姿を見たい。笑顔を見たい。成長を見守りたい。全部がイーリスのことばかりで、イーリスがいない時の自分が何をやりたいかが全く想像できなかった。
「やりたいことってなんだろう」
哲学的なことを言いだすアルドにイーリスは心配そうに眉を下げた。
「えー? やりたいことないの? それじゃあ、明日のおでかけはお父さんのやりたいこと探しね!」
イーリスがアルドにウィンクをする。
「じゃあ、お父さん。おやすみなさい」
イーリスは自分の寝室へと向かった。取り残されたアルドは「ふー」とため息をついた。
「まさかイーリスがあんなことを言うようになるなんてな」
椅子に座りテーブルの上に置かれたグラスに水を注ぎながらアルドは娘へと思いを馳せた。
イーリスは今までアルドに対して甘えてきて、どちらかと言うと自分の要求を言う方が多かった。アルドとしても甘えてくれるのは嬉しいので特に気にしていなかったが、イーリスも成長することによって、親のことをも思い遣れるように育ったのである。
親は自分のワガママの叶えてくれるだけの存在ではない。一個人として生きていて、きちんとなにかしらの欲求を持っているに違いない。ならば、それをかなえてあげたい。与えられるばかりではいられない。イーリスもそういう感情を持ち、親孝行の概念がしっかりと芽生えているのである。
「僕としてみたら、イーリスが健やかにまっすぐ育ってくれるだけで十分親孝行なんだけどな」
とは言いつつも頬が緩みながらグラスの中の水を呷るアルド。その日は嬉しくて少しだけ寝付けなかった。
◇
翌日、アルドはおめかししたイーリスと共に街を歩いていた。いつもはイーリスの行きたいところを優先しているが、今はアルドが行きたいところを探そうとする。
「あ、ここ……」
「ん? どうした?」
イーリスがふと立ち止まった。ここは、街中の広場で人々の憩いの場所である。スラム街とも比較的近くて、スラム街の中でも上層に住んでいる人間も何人かはここにいる。
「まあ、自然がある場所も良かったんだけどね。最近は自然の中にずっといたから、人通りが激しいところでちょっとした人間観察をしたかったんだ」
ルーファウスの縦を奪ってずっと森の中をさまよっていたアルドは、1日くらいは人としゃべってない時間があった。
そうしたこともあり、人通りが良い場所が逆に心地よく感じてしまうこともある。
「イーリス。ちょっと顔色が悪いな。ここが嫌なら別の場所に行くか?」
「ううん、大丈夫。お父さんがここにいたいっていうんだったら私は」
アルドとつないでいるイーリスの手。それが小刻みに震えている。震えだけではない。冷や汗もかいていて、イーリスのちょっと上がった体温と汗ばんだ手が彼女の精神になにかしらの作用をしていることがアルドにも伝わる。
「イーリス。無理はしなくてもいい。僕は別にここじゃなくてもいいから」
「ううん。違うの……お父さん。ここは……」
イーリスは顔が真っ青になる。イーリスの視界の先にはイチャついているカップルがいた。年齢的にはアルドよりも少し年下くらいである。
「あぁ……」
「イーリス?」
アルドはイーリスの手を引いて急いでこの場を離れた。そして、近くにあるカフェに入り、そこでイーリスを追いつかせるまでテーブル席で待機することにした。
「イーリス。大丈夫か?」
「うん……」
アルドはあえてイーリスになにがあったか問いただすようなことはしなかった。絶対にあの場所にイーリスの過去のトラウマを引き起こすなにかがあったのである。それをわざわざ思い出させる必要もない。そう思っていた。しかし、イーリスが口を開く。
「あの……お父さん。ごめんなさい」
「なんでイーリスが謝るんだ。僕の方こそゴメン。イーリスが行きたくない場所を事前に聞いておくべきだったね」
アルドはイーリスのことを全て知っているわけではない。この人格が憑依する前のイーリスのことは何も知らない。その時になにかあったのではないかとアルドは推察する。事実、その通りである。イーリスは小さな口でその真実を語り始める。
「あそこは……お母さんが……ご、ごめんなさい。気を悪くしちゃうよね」
母親のことを口にした瞬間にイーリスは口をつぐんだ。アルドもなんとなくイーリスの言おうとしていることはわかった。
「イ-リス。ごめん。僕のことは気にしなくてもいい。言いたいなら言えばいいし、言いたくないのなら黙っていればいい。それはイーリスに任せる」
「うん……」
「でも、言ってスッキリすることもある。1人で抱えるのが辛かったら僕になんでも言ってくれても構わない」
イーリスの小さな体にはこのことを抱えきるというのは無理だった。イーリスは目に涙を浮かべながら言葉を紡ぐ。
「あの場所は……お母さんが知らない男の人と一緒にいた場所」
なんとなくアルドも想像がついていた。アルドの妻は他で男を作り、娘を置いて出ていった。それは周囲の話を聞いてアルドも知るところだった。そして、アルドは妻に裏切られたショックでイーリスを虐待するようになる。そんな自分で自分を許せなくなるようなこともあったのだ。
「ごめん。嫌なことを思い出させちゃって」
「ううん。それだけじゃないの……だって、あそこは私たち……お父さん、お母さんとの思い出の場所だった。初めて街にお出かけした時にあそこで家族3人で一緒に楽しくおしゃべりした場所。なのに、お母さんはあの場所で……」
アルドはイーリスの気持ちを理解した。大好きだった場所。思い出の場所。そこが大好きな人の手によって穢されてしまう。なんでもない場所の方がまだマシだったという想い。楽しい思い出を思い出そうとすると無理やりにでも辛いものも一緒に引き出されてしまう。
「そうか……イーリス。辛かったんだね」
「うん……でも、もう平気。お父さんに話してちょっとスッキリしちゃった。ねえ。お父さん。もう1度さっきの広場に行こうよ」
「え? いいのか? あそこはだって……」
「きっと最後に辛い思い出で上書きされたからダメなんだよ。だから……もう1度お父さんと一緒に楽しい思い出を作りたいの……ダメ?」
イーリスが上目遣いでかわいらしくおねだりしてくる。アルドはこのイーリスの目に弱く、お願いを聞くしかなかった。
「わかったよ。イーリス。それじゃあ、行こうか」
アルドとイーリスはもう1度さっきの場所に向かった。そして。2人で手をつないで広場の光景を見ている。
最初は震えていたイーリスの手だけれど、アルドの手をぎゅっと掴み、父の存在を確かめることによって、段々と震えがおさまってくる。
「お父さん。私とここでデートして」
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