生まれ故郷を発つ
「起きて下さい。起きて下さい」
親も、世話焼きのばば様も、口を酸っぱくしてここに来てはいけないと私に言い聞かせた。山遊びで偶然ここを見つけ、帰って親にその事を話したら、親は私の
そこに行ってはならない、男の形の怪物が眠っている。物音を立てて目覚めたら捕まってしまう。知らない場所に連れて行かれる。そしてもう二度と戻っては来られない。それが村での言い伝えだった。
村に繋がるこの山の、更に奥にこの場所はある。村のほとんどの者はこの場所さえ分からなかった。広さだけはあるこの山の、入り組みに入り組んだ場所にあるからだ。
山の中を曲がり、登り、潜り、その果てにこの禁足地がある。開けた土地で、その一角に一本だけ巨木が生えている。そしてその巨木に私が「あの方」と呼ぶ男の人が、半身を埋め込まれて眠っているのだ。
「起きて下さい。どうか、起きて下さい」
声をかけるだけでは目を覚まさない「あの方」を今度は揺する。腕の滑らかさと白さに驚く。「あの方」は上背があるのに村の誰とも違い日焼けもなく、線が細い。自分のささくれて日に焼けた手とは同じ手とは思えなかった。貧しい山村には似つかわしくない見目をしていただけでなく、肌が傷んでさえいないのか。
村中が畏怖する方に触れて良いものか分からない。しかし、このままだと。
「
私の口のきき方に失礼はないだろうか。薬草や塩を売りに来る僧の真似をして話しかけているが。揺さぶっている段階で失礼も何もあったものではないのかもしれない。揺する力をどんどん強くする。
「起きて下さい。お願いします」
「このままだと、貴方様まで燃えてしまう。」
空が白み始め、見づらくはなったものの、火の勢いは変わらず山を呑み込み続けている。この場所さえ燃えてはいないものの、バチバチと不吉な音は時間と共に近づいてきていた。
村はとうに焼けた。私の村より更に貧しい村が、今年の冷夏に耐え兼ねて私の村を襲撃した。気の弱い人達だったから、私の村の多くもない食料や物品を奪ったら、後ろめたさに火を放ったのだ。人だけ殺して埋めて、自分たちの村にしてしまえば良かったのに。そしたら家も畑も、山も使えたというのに。
げに、ひもじさは人の判別を奪っていく。
風が吹くたびに火の熱さを運んでくる。ぼたぼたと汗を垂らしながら、揺さぶる。何度も声を掛け、最後は叫び、果たして、「あの方」は目覚めた。
緑色の目に慄く私に目の焦点を合わせたあと、気だるげに木から立ち上がり、私に問うた。
「何故?」
「火が」
私が言い終わる前に、ああ、と辺りを一瞥し、そのついでにうーん、と体を伸ばした。
「僕を気遣って起こしてくれたんだねえ。ありがとう。このまま焼かれても良かったんだけどねえ。まあ、これが宿命かあ」
今迄会ったどの人よりも柔らかい口振りで、どの人よりもとんでもない事を言い出した。見た目もさる事ながら、ありとあらゆる事が、私の知っている人達の
「逃げましょう。大きな川がございます。その向こうでしたら、火の手も参りません」
「ああ、すまないねえ、何から何まで」
先導し、村の反対側から下山する。皆が踏み歩いて固めた山道に出ようとするが、火の手が回り何度か迂回した。
知っている風景が、庭のように駆け回った景色が、どんどん火で姿を変え、牙を向く。今更ながら、本当に私の故郷は消えていくのだと思い知らされる。
後ろを振り返り、「あの方」がついてきて下さっているか時折確認する。てくてくと歩きながら、私の全力での疾走について来ていた。火の手を見ても珍しい木でも見たような顔をしている。散歩のような気楽さだった。
燃えていない山道に出られたら、後はすぐだった。山道を真っ直ぐに下り、山のほぼふもとを横切る川に着いた。比較的浅いが広さがある。
ザブザブと川を渡るとこの先は当分砂地が続く。ここまで来れば火の手の心配はない。
「やれやれ、大変だったねえ」
どこか他人事に「あの方」は話す。
「これから、どうなさるんですか?」
「そうだねえ、ここでは暫く過ごしたし、僕の故郷に帰ろうかなあ」
それを聞いて、私は
「お願い致します。私を連れて行ってください」
「だめだよ」
柔らかく、有無を言わさぬ口調だった。
「僕の故郷は、遠い所だよ」
「存じております」
「世界が違う。君の知らない所だ」
「存じております」
「遠い異国とかではないんだ。ここで言う死後の世界でさえない。更にこの世の
「それでもかまいません」
「親は」
「私の幼い頃に流行り病で」
「それでも面倒を見てくれた人がいるだろう」
「数年前に年を取って」
「友人は」
「ほぼいませんでした。数少ない友人も、もう先程の火で焼かれました。あの火は私の村が襲われた折、放たれたものです」
「…」
「お願いします。もう、私には貴方様しかいないのです」
「………一度行ったら戻って来られないよ。僕は例外中の例外でここに居られるだけなのだから」
「…!それでは」
「道の途中、何度もここでない世界へ渡る。その途中で心が乱れたら、その世界に留まり続ける。僕の世界にも、元の世界にも戻れない」
「わかりました。それでも構いません」
「…」
「私には、何もないのです。もう、何も」
長い長い沈黙の後、「あの方」は嘆息した。
「とりあえず、行けるところまで行ってみよう」
何度も頭を下げ感謝したら、止められて立たされる。
「君、名前は」
「サクと申します」
豊作の、サクだ。女ならサチと名付けるつもりだったそうだ。山の幸。
「サク、僕達の旅路は途方も無い。しかも退屈でその癖危険な事が何度もある。僕は助けない。それでも良いならついてこれるだけついておいで」
「はい、…あの、貴方様の事は何とお呼びすれば」
「好きに呼ぶと良い。僕にも名前はあるけれど、君の世界では発音できない」
「では、
「何も教えないよ」
「構いません。私が勝手に学びます」
やれやれ、と御師様が歩き出したので、私も後を追った。
そんな訳で、焼けた故郷を発ち、私は御師様と異界を臨む旅に出た。
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