シジミと相合い傘

斎庭あかり

シジミと相合い傘

「ですから、大丈夫だって言ってるんです!」

「何を言うんだ斉藤さん、そんな血まみれの足で、自己判断で民間療法だと!?」

 ここは中央区にあるとあるオフィスビルの一角だ。昼日中から声を張り上げて言い争っているのは私、斉藤七瀬と、その上司であり社長でもある、インテリアデザイナーの木更津幸輝だ。

 木更津は若くして数々の賞を貰い、昨年独立して事務所を構えた。私より三つ年下の二十八歳だ。その時に雇ったのが前の会社を退職したばかりでぷらぷらしていた私だった。

 仕事はスケジュール管理と書類整理と電話受けくらいしかないのに、書類整理にまた別のパートを雇っていて、正直仕事は楽だった。

 そのパート従業員鯵沢さやかは私と木更津の応酬を面白そうに見物していた。

 息子が大学を卒業したと言うから多分四十代なのだろうか。年齢は極秘らしくよくわからない。若い男女が居ると頭の上に傘を描いて揶揄うのが趣味で、おそらく今も痴話げんかだの雨降って地固まるだの古い言葉がふわふわと彼女の頭の中に浮かんでいるはずだ。

「民間療法じゃありませんよ。巻き爪クリップはれっきとした一般医療機器です。爪ごときで病院なんて、そんな小っ恥ずかしいことは出来ません」

「いや、歩けないほどなら病院だろう! 何が恥ずかしいんだ! 僕が車で連れて行ってやると言うんだ」

 もう、なんでこの人はこんなにお節介なのか。

 ダン、と机に手をついて、回転椅子に座り込んだ。

 仕事中だ。病院に行くような時間でもない。昨日のメール処理もしていない。

「わかりましたよ。帰りに開いてる病院があったら寄ることにします」

 すると、よし、と親指を上げて見せた。この社長、根っからの陽キャだ。

 足が血まみれなのは巻き爪のせいだった。痛くてパンプスを脱いで様子を見ていたところ、社長に見られてしまった。それでこの騒ぎになった。

 爪を平らにするクリップを使って爪の肉への食い込みを防いでいるのだが、愛用のクリップを無くしてしまった。

 一つ四千円もするのに、小さいものだし足に付けるものだからすぐになくなってしまう。これで八個目くらいじゃなかったか。クリップで養生しながら伸ばせば肉を突き刺すことはなくなるらしい。病院なんかに行くようなものでもない。

 切れば収まる痛みと今ある痛みの狭間で気が荒立つ。切ってしまえば楽になる。その誘惑に負け続けているから三十一になるこの年まで巻き爪に悩まされているのだ。

 苛々と手の爪を嚼み、嚼んでる事実に気付いて指を丸めた。

 忌々しいことに、足の爪は大きくて鈎のように曲がっているのに、手の爪は薄くて小さくて先が平たく広がっていて、ストレスで嚼んでしまうものだから、まるでシジミのような形だ。

 私はなんでこうちぐはぐで不器用なんだろう。

 メールを仕分けし、返事の文面を打ち出して社長への決裁の角判を押してため息を吐く。

「あら七瀬ちゃん、恋煩い?」

 さやかが意味ありげに私と社長の顔を交互に見てやけに大きい声で訊いてきた。

「そんなんじゃありません。爪が気になって」

 へええ、と言いながらにまにま笑っている。どんなことを考えているのか手に取るようにわかる。昼休みにまた揶揄われるのだろう。

 ちらりと社長を見ると、目が合い、気まずげに視線を外された。

 わかってますよ。私はタイプじゃないですよね。

 生まれてこの方異性に好まれた記憶はないので傷つくこともない。


 夕方十七時仕事が終わるなりいきなり木更津に手を差し出された。

「何ですか?」

「車までご一緒に」

「車?」

「僕の高校時代の友人が足の専門医をしてるんだ。予約ねじ込んどいた。僕の車で送ろう」

 この場は適当に流して後で巻き爪クリップを注文するつもりだったのに、開いてたら行くと言った手前、断るうまい言い訳が浮かばなかった。

 見送るさやかの目がまねき猫の目の形に見えたのは気のせいじゃない。明日何言われることか。

 強引に助手席に座らされ、仕方なくシートベルトを締めた。

 助手席の窓から眺めると、歩道には仕事帰りのカップルなんかがわらわら歩いている。自分とは別世界の人たちだ。何しろ物心ついたときから私は可愛げがない。男の人に優しくされたのは実はこの社長が初めてで、最初は大いに戸惑ったものだった。新しく雇ったさやかにも優しく丁寧であったので、こういう性格の人なのだとやっと安心出来た。何というか、慣れていない扱いは居心地がよくないのだ。

 会社からは車で十分ほどの商業ビルの上階に木更津の知り合いのクリニックはあった。

 送るだけでなく付き添うつもりらしく、ビルの駐車場に車を入れて木更津は付いてくる。

 確かに有名なクリニックらしく、廊下も待合室も患者で溢れていた。所属の医師は多いらしく、意外にさくさくと患者の名前が呼ばれている。

 椅子が埋まっているので立っていたが、木更津が痛くない? としきりに心配してきた。

「歩いてたら激痛だけど、激痛っていつもそうだと慣れてくるんですよ」

 そんな言葉は理解されない。ソファに腰掛ける他の患者にお願いして詰めて貰っている。そして手招きする。

「ここ、座って。空けて貰ったから」

「ありがとうございます、すみません」

 他の人を煩わせるのはどうにも収まりが悪くてもやもやする。

「いつも斉藤さんは自分で解決するけど、たまには頼って欲しいな」

 自分で解決できることは自分で解決するのは当たり前のことでは、と言うことを柔らかく説明しようと口を開いたときに名前を呼ばれた。

「頑張って」

 と応援された。返す言葉が見つからない。頑張りますと言うのも違う気がする。頑張るのは医者だ。


 医者の見立てではオーバーネイルだ。正確には巻き爪ではなく、爪が大きいから靴に当たって鈎のように曲がる。確かにくきっと曲がっていた。平らにしても指の幅より大きいので靴や隣の指を傷つけるだけなのだそうだ。爪の幅を狭くする手術をすることが推奨されている。

「どうします? 今日手術やっちゃえますよ?」

 いきなり手術の提案を受けて面食らった。

 手術の時間はせいぜい十分。両足でも二十分程度で、今日は歩いて帰れるらしい。

 そうと聞けば頷く以外の選択肢はなく、さっさと伝えてあっという間に手術が始まった。

 爪の端を切り落として、爪の生え際を薬品で焼く。麻酔をするから痛くも何ともなかった。あえて言えば麻酔の針が一番痛かった。

 今までの苦労は何だったのか。クリップにテープに綿に、血が出たら消毒も欠かせない。足はすぐに雑菌が繁殖するから腫れ上がってしまうのだ。全部自分の堪え性のなさが原因で、頑張れば取り除けるものだと思っていた。

 結局木更津の言うようにさっさと他人を頼るのが正しいのか?

「オーバーネイルのカンニュウソウは手術してしまうのが一番ですね」

 医者が包帯を巻きながら説明してくれる。

 カンニュウソウは陥入爪と書くらしい。一般的な病名だった。

 靴もすぐに履けた。麻酔で感覚が変だ。廊下に出ると木更津が心配そうに駆け寄ってきた。

「何か悪い病気? 遅いから心配した」

「手術して貰ったんです」

 靴を見下ろした。

「手術費用、一万円ですって。クリップ三つより安くてびっくりしました」

「手術? 大丈夫なのか!?」

 木更津にお礼を言わないと。絶対に自分では選ばなかった道だ。子どもの頃から風邪は風邪薬、捻挫は湿布、どんな怪我も病気も自分で何とかしていた。

「社長は、凄いですね」

 だが口から出たのはそんな言葉だ。こういうところが可愛げがないと自分でも思う。

「斉藤さんは頑張り屋さんだからね、自分で頑張っちゃうんだよね」

 前の会社で仕事をたくさん抱え込んでどうにもならなくなって病んでやめたことを思い出した。

「頑張らないと私に価値なんかないですから」

「それは違う。すごいテキパキして頼もしいし、安心して任せておけるからうちはもってる」

 手を取られて力説されて、思わず瞬きを忘れて見返した。

 あわあわと手を放し、木更津は赤面する。

 私じゃなけりゃそれ、勘違いされますよ、と教えようとして、あまりの可愛くなさにやめた。

「斉藤さんは指が長くて綺麗だよね」

「爪、短くてみっともなくてコンプレックスなんです」

「そう言えばうちの姉が深爪で悩んでてね、ジェルネイルをしたら嚼まなくなったと言ってた。姉に詳しいことを訊いてみようか?」

「私が、ジェルネイル?」

「似合うと思うけど」

 指を揃えて目の前に掲げてみた。このシジミみたいな爪にジェルネイルなんて、小っ恥ずかしい。だけど……。

 だけど、また簡単に解決するのだろうか。

「なんかごめん。つきまとわれて鬱陶しいかな。いつも一人で頑張ろうとしてるからさ、ほっとけなくて」

 思わず見返し、瞬きを忘れて見つめてしまった。

 そして笑ってしまった。別世界の人で、いつもわやわやと干渉してきて確かに面倒くさくはあったのだけど、気にしてたなんて。

「いいえ、社長はそういう人だってわかってますし。私、そういう社長が好きです」

 そう言うと、木更津は耳まで赤くなって俯いた。

 いやいや、それ、私じゃなきゃ勘違いしますよ。

 え?

 何故そう言う目で見るの?

「斉藤さんは年下はやっぱり嫌かな」

 え?


 さやか頭の中で大きな傘を描いていた。

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シジミと相合い傘 斎庭あかり @manai-k

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