第51話

 左肩に刃先が当たる感触を感じつつ、それ以上切らせないように体を後ろに引きながらレイピアで防御しようとしたが──相手はナイフ一本のはずなのに力で押し負け、そのまま右に吹っ飛ばされて石壁に激突する。

「……っ!」

 肺の中の空気が押し出されて息が詰まり、床には切られた肩口から流れた血がボタボタと落ちた。

「……シリウス!」

 焦ったような声に咳き込みながらも何とか顔をあげれば……ぶつかった壁側、少し離れた所にいたエルナトさんがこちらを見ていた。呼びかけに対して動いた僕に一瞬ホッとした様子だったが、腕を伝って流れる血を見てサッと顔色が青くなる。


 ……ぎりぎりのところで首まで切られるのは避けたけど……左腕は使えないな。力が入らず上がらない。

 ぐっと歯を食いしばり、立ち上がって視線を正面に戻す。

「…………」

 男はナイフを持った手をじっと見ていたが、ややあって小さく笑いながら顔を上げた。

「お前、面白い人間だな。首を落とすつもりの攻撃を防がれるとは思わなかったぞ。そこの出来損ないが縋るだけはあるようだ」

 ちらりとエルナトさんを見やってから楽しそうに笑みを浮かべる。

「お前が魔王様の力を持ったままだったらこちらに迎え入れてやれたのに残念だな。……防いだ褒美として名乗っておこう。俺はギエナという。ヴァンパイアの集落を統治する長だ」

 そこで男──ギエナは言葉を切り、何か考え込むように顎に手をやった。

「……しかし、ふむ……そうだな……」

 ギエナは呟きながら納得したように頷いた後、顔だけエルナトさんへ向ける。パキン、と固い音と共に左手の拘束具が外れ、エルナトさんは目を瞬かせた。

「おい、エルナト」

 再び僕に視線を合わせ、ギエナは淡々とした口調で話し始めた。

「子づくりのための血は俺がもらうが魔王様の力の移動は選ばせてやる。俺に寄越すか、そこの人間に戻すか、だ」

「……え……?」

 突然の提案にエルナトさんは戸惑いの表情で声をもらす。……そりゃそうだ。僕も意味が判らない。

「全て俺が手にするのも良いが、そこの人間に力を戻して下僕にするのも面白そうだ。使える駒も増えるからな」

「な……」

 エルナトさんが声を失ってギエナを──そして僕を見る。


「力をこの人間に戻すならこいつは生かしてやる。……逆にそれをしないなら、後々害になりそうなこの人間はここで殺す」

「……それ……は……」

「ふざけるな」

 声を絞り出し何か言いかけたエルナトさんを遮って僕はギエナを睨みつける。エルナトさんとギエナの視線を受けながら僕は言葉を続けた。

「魔王の力だったらどうでもいいから好きにすればいい。……でも、エルナトさんとの子どもは絶対に許さない」

「……?」

 僕の言葉にギエナは首を傾げて不思議そうな顔でこちらを見る。

「言っている意味が判らんな。魔王様の力がどうでもよくて、子どもが駄目だと?」

「そうだ」

 間を置かずに答えた事にギエナは少し考え込み……合点がいったように「あぁ」と声をもらした。

「そうか。お前は俺達の子づくりが人間と同じだと思っているんだな。心配するな。俺達は人間のような低俗な行為で子づくりする訳ではない。今日のような新月の夜に……」

「作り方の問題じゃないんだよ」

 気を抜けば荒くなる息を必死に整えながら、僕はレイピアを構え直してギエナへと向ける。

「……人の婚約者で、子どもを作ろうとするなって言ってんだ」

 それを聞いたエルナトさんが泣きそうになる一方、ギエナの顔から表情が消えた。


「人間……というか、お前は度し難い奴だな。魔王様の力より出来損ないのエルナトとの子どもが大事か? 理解に苦しむ」

「理解してもらおうなんて思ってない。これは僕の考え方の問題だ」

「……下らん」

 吐き捨てるようにギエナが呟いた直後、その姿がかき消えた次の瞬間。

 正面からの衝撃を受けて床に叩きつけられる。レイピアも弾かれて遠くに吹き飛び、何か反応するより前に切られた肩を思い切り踏みつけられた。……床に叩きつけられた事よりも、その痛みで声が出る。

「……っあ……っ!」

 耐えきれずに苦痛で声がもれた僕を、ギエナは何の感慨もなく冷ややかに見下ろしていた。

「改めよう。お前は下僕にしても面倒になりそうだ。ここで殺す」

「……っ」

 傷を抉るように踏み付けてくるギエナを睨みつけるが、痛みで体の動きは鈍いし起き上がれない。


「……ま、待って、ギエナ!」

 焦りを含んだ声が飛び、そちらへ視線だけ向ける。……そこには、弾き飛ばされた僕のレイピアを手にしたエルナトさんが立っていた。

「…………」

 無言のまま顔を向けたギエナの視線に射抜かれ、エルナトさんは体を震わせたが──ぐっと堪えて口を開く。

「血も魔王の力も渡す。だから……お願いだ、シリウスだけは助けてくれ」

 その言葉に対してギエナは呆れたように小さく笑った。

「お前の頼みを聞く必要はないし、コイツを生かしておく理由もない」

 ギエナからすれば当然の答えだ。そんな事をしなくても手に入れられる状況なのだから。

 ……そんなギエナの態度に気圧されつつも、エルナトさんは言葉を続ける。

「それなら……血を渡す前にボクはここで死ぬ」

 ……な……。

 レイピアの切っ先を自身の首に向けたエルナトさんの発言に僕が絶句する一方、ギエナは眉をひそめてエルナトさんを見ていた。


「……死んだ後に取った血では子どもが出来る確率は極端に下がるし、何より魔王の力は失われる。……ここまで来た意味もなくなるな」

「……エルナトさん! 何言って……」

 ギエナが冷ややかな視線を彼女へ向ける中、僕は体を起こそうとするが踏みつけられた状態ではそれもままならない。

 エルナトさんは泣きそうな表情で僕に顔を向けた。

「ごめん、シリウス。自分で出来ない事をお前に頼ろうとした結果がこのザマだ。謝っても遅いけど……お前を助けられなかった場合でも、魔王の力だけは渡さないようにするから」

「……ば、馬鹿言うな……!」

 力を込めて起き上がろうとしても肩を踏みつけている足はビクともしない。何とか声を飛ばすがそれは部屋の中で虚しく響くだけだった。

「…………はぁ」

 僕等のやりとりを黙って聞いていたギエナが呆れを混ぜたため息をつく。

 フッと肩にかかっていた圧が消えて──気付いた時には、ギエナがエルナトさんの首を片手で掴み、持ち上げるように掲げていた。レイピアは手から離れ、乾いた音をたてて床に落ちる。


「…………っ!」

 苦しそうに呻く彼女をギエナは冷淡な表情で見つめていた。

「出来損ないはどこまでも状況が判っていないようだ。自分で死ぬだと? 馬鹿馬鹿しい。お前が自分の意志で出来る事などひとつもない。……血と魔王様の力を奪った後で望み通り殺してやる。心配するな。そこの人間もすぐに後を追わせてやる」

「エルナト……さん!」

 押さえが無くなった事で上半身を起こす事は出来たがそれでも動きは緩慢だ。……出血が多い。くらりと揺れる頭を何とか留めたけど、その場から動く事は出来なかった。


 ギエナは右手でカップを持ち、エルナトさんの左腕から流れている血をそれで受け止め……それからカップを床に置いた後、自身の手のひらに噛みついて血を注ぐ。

「さて……」

 血がある程度溜まったのか血を注ぐのを止め、ギエナは天井を見上げてから右手をかざし──フッと息を吐きながら発射した魔力弾は天井の一部を突き抜け、一階と屋根部分も吹き飛ばし……空いた穴からは夜空が見えた。

 床のカップを再び手に取り、一度空に向かって高く掲げて──それを一気に飲み干す。

「……っ!」

 苦しそうにしながらもエルナトさんがギエナを睨みつけているが、全く意に介さない様子でギエナは空になったカップを床に投げ捨てた。

「まずはひとつ。次は……」

 ギエナは淡々とした口調で呟きながら、首を掴んだままエルナトさんを床に降ろす。


「……く……っ!」

 拘束から逃れようとエルナトさんは暴れるけれど、ギエナの手が緩む事はなかった。……空いている右手で襟元を掴み、首筋を剥き出しにする。

「……や、止めろ!」

 僕が飛ばした制止の声は意味をなさなくて。

 ギエナの牙がエルナトさんの首に──


「……ドラーガナ、ブレス!」


 突然降ってきた声と同時に空から閃光が落ちてきた。

「!」

 暗さに慣れていた事もあり、閃光に目が眩む。……ただ、ギエナが直前でその場を離れ、閃光から逃れていたのは辛うじて見えた。

「──何──」

「悪いがその娘は返してもらおうか」

 光の中、戸惑ったようなギエナの声に被るように別の男の声が聞こえる。

「……ぐぅっ⁉」

 直後、ギエナの呻き声と何かが床に落ちる音がした。


 ……光が消えるにつれて、戻ってきた視界の中。


「……貴様……」

「私の国で随分と好き勝手に振る舞ってくれたようだ。それ相応の対価は支払ってもらおう」


 腕を押さえ、憎々しげな表情のギエナと……咳き込むエルナトさんを背に彼と対峙する男──ベテル王の姿があった。

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