第27話

「……おい、どこまで行くんだ」

 教室を出た後、中庭を抜けて歩いていく僕の後ろからエルナトさんが呼びかけてくる。

 僕が向かっているのは貴賓室のある別棟だ。……建物の中には入らないけど。


 黙ったまま別棟入口に到着して──そして、裏手に回った所で立ち止まる。訝しげに眉をひそめているエルナトさんだったが、こちらがジッと正面から見ると視線を落として目を逸らした。

 うーん、あんまりやりたくないけど言葉の質問だけじゃ答えてくれなさそうだしなぁ……。

 ちょっとだけ気合いを入れてから内ポケットに持っていたナイフを取り出して──……それから、自分の左の掌をナイフで切った。

「……は⁉」

 流石にギョッとして目を見開くエルナトさん。

 ナイフを仕舞い、じわりと滲み出る血が少し溜まるのを待ってから、その手をエルナトさんに向かって差し出す。

 溜まった血が指の隙間からぽたぽたと落ちるのを見て。エルナトさんはぐっと息を呑んでから顔を背けた。

 ……やっぱりそうかも。

「エルナトさん、力が強くなって日の光に弱くなっているのもそうですけど……吸血衝動も出てるでしょ」

「………………」

 まだ目を合わせないけど、否定の言葉もない。

「……一ヶ月、どうしてたんです?」

 溜まった血を振り捨て、ハンカチで止血をしながら訊ねる。エルナトさんはしばらく黙ったままだったけれど、渋い表情でようやく口を開いた。


「……自分ので誤魔化してた」

 まさかの自給自足だった。

「二週間くらいは持ったが」

 それで二週間持つんだ。

「流石に……実際吸った相手が目の前にいるとキツくてな……」

 ……顔色が悪いの、僕のせいだったか。


 だったら連れ出したのは悪かったな、と思いつつ。エルナトさんを座らせてから僕もその横に腰を降ろした。

「そうとは知らずにすみません。のこのこ寄って行ったあげく、こんな所まで連れ出しちゃって」

「別にお前が悪い訳じゃない。ボクも吸血衝動が出てくるとは思ってなかったし……それに自分の血で何とかなっていたから問題ないと高を括っていたからな」

 自嘲するエルナトさんを見つつ、少し姿勢を正す。

「僕の血で良ければ少し吸いますか?」

「…………」

 その言葉にエルナトさんは少し戸惑いの表情を浮かべて……それから、何か振り払うように首を横に振った。

「今飲むと今後も我慢が利かなくなりそうというか負けな気がするから良い」

「……何と戦ってるんです?」

 前半はまだ判らなくはないけど後半の理由はよく判らない。


 ふぅ、と息をついてから改めてエルナトさんに目を向ける。

「これでも僕は魔王の力を引き受けてくれた貴女に感謝してるんです。だから、その影響でキツい状態になっているのを見て見ぬふりはしたくない。……僕に出来る事なら協力させて下さいよ」

「…………」

 一瞬こちらを見て、すぐに視線を逸らし──しばらくして、エルナトさんの口から深くて長いため息が漏れた。

「……定期的に血を寄こせって言うかもしれないぞ」

「別に良いですよ」

「返事が軽い」

 間髪入れずに答えた僕に呆れを含んだ目が向けられる。

「…………いいや、判った。お言葉に甘えよう」

 どこか諦めたように呟いた後、エルナトさんは僕の左手を取る。止血していたハンカチを外し、自身の口元を寄せて──


「……って、ちょっと待った! エルナトさん待って!」

「え?」

 僕が慌てて上げた声に動きを止め、エルナトさんは怪訝そうにこちらを見上げる。

「いや、えっと、すみません。手から飲まれるのはちょっと……前みたいに首からにしてもらえませんか」

「は? わざわざ首に噛みつかなくてもこっちから飲む方が怪我も増えなくて良いだろ」

 いやまぁそうなんですけど。正しいんだけど。なんかさぁ……。


「……いや……その。手だと飲んでるとこ僕から見えるじゃないですか。首だと見えませんけど」

「そうだな」

 何言ってんの? と言いたげなエルナトさんの顔。……うう、駄目だ。伝わらない。

「……その……見えないなら良いんですけど、見ちゃうと何か恥ずかしくなるというか……」

「お前の恥ずかしがる基準が判らん」

 ぼそぼそと話した事に対して、相手から心底呆れた表情を向けられた。

「両方とか逆ならまだ判らなくもないが、首が良くて手が駄目って何だ」

「僕から見えるか見えないかです」

「お前………………いや、いいや。判った。時間の無駄だ。首出せ」

 間違いなく判ってもらえてないけど、面倒臭そうに吐き捨てられた。


 言われた通りにシャツを緩めて首筋を出せば、何も言わずに噛みつかれ。それから十秒経つか経たないかくらいでスッと首元の感触が離れた。

「……早くないです?」

「いや、充分」

 口元を拭いながらエルナトさんは立ち上がり、近くに置いてあった鞄を手に取る。

 ……少しだけど顔色も良くなったみたいだ。ちょっとは落ち着くかな。

「……ごちそうさま。また明日な」

 こちらを見ずにそれだけ言って。

 エルナトさんはすたすた歩いてその場から去って行く。

 それを座ったまま見送って──姿が見えなくなったところで、僕は視線を横にずらした。


「アリア様、いるの判ってますよ」

「うっ」

 少し離れた奥の茂みから短く声が聞こえ、ガサガサとそれが揺れる。

「……すみません……」

 謝罪と合わせてアリア様が姿を見せ、こちらに向かって歩いて来た。

「……隠匿魔法使ってたのに気付かれるとは……」

 服に着いた葉っぱを払いながら呟くアリア様。……そこまでしてのぞき見しなくても。

「申し訳ありませんが昔からそういうの判る体質でして。エルナトさんは気付いてなかったですよ」

 多分だけど。

 僕の言葉にホッとした表情を見せるアリア様に対し、内心でそっと一言付け足した。


「それはそうと有難うございます。エルナトさん、こっちに中々話してくれなくて……」

 左手と首に治癒魔法をかけながらアリア様がお礼を述べてくる。じんわり傷が治っていくのを感じつつ、僕は目の前の相手を見た。

「見てすぐ判るほど具合悪そうだったんですか?」

「いえ、少し調子が悪そうだな、くらいでした。……ただ、人が多い往来を通った時にエルナトさんすごくキツそうで……何かあるんだと思って訊ねても『大丈夫です』しか言わないものですから……こちらも対応のしようがなかったんです。だから今日シリウス様が気付いてくれて助かりました。……吸血衝動が強くなってるとは思ってなかったです」

「僕だけ直視してなかったのでそれかなと思っただけですよ。……何か彼女に対策を打ちますか?」

 頭に浮かんだ質問を口にしたが、アリア様は首を横に振った。

「今は自分で抑える事が出来ているので様子見にしておきます。……抑えが利かなくなったら対策せざるを得ませんが、現時点では必要ないでしょう」

「……そうですか」

 その言葉に今度は僕がホッとする。


 傷が完全に塞がったのを確認して、アリア様は術の発動を止めた。

「有難うございます」

「これくらいならお気になさらず」

 ボタンを留め、襟を正しながらお礼を言った僕ににっこりと微笑んだ後、アリア様は頭を少し深めに下げる。

「私の方で色々対処出来たら良いんですが……今後もエルナトさんの件でお力をお借りする事があるかと思います。その時は宜しくお願いします」

「……それこそお気になさらず。僕がしたくてやっているだけですから」

 そう言って小さく笑えば、アリア様も安心したように笑みをこぼした。

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