第15話

 ──翌日。

 当初の予定通りリゲル様・カイトスさん・バスクさんは研究所へ、僕・アリア様・サルガス皇太子は郊外にある診療所へと向かった。

 診療所までは何事もなく到着したのだけど……中に入った瞬間、漂う空気に思わず「うっ」と小さく呻いてしまい口を押さえる。

 入口に患者はいないはずなのに空気が澱んでいる。医療所独特の冷たい空気ではない。死臭とも違う。ただ暗く澱んだ空気……魔物が纏う瘴気の臭い、だった。

「…………」

 アリア様も眉をひそめ顔をしかめたけれど、僕と違って口を押さえる事はしなかった。

「……アリア嬢、大丈夫か?」

「これくらいなら平気です。ただ奥の方は……今はシリウス様は止めた方がいいかと思います。影響が出そうです」

 廊下の先を真っ直ぐ見ながらアリア様は呟くように話す。……影響……それは僕に対してか、患者に対してか。

 それを問いかけようとしたが、横の部屋のドアが開いた事で言葉を呑み込みぐっと堪える。姿を見せたのは白衣姿の中年の男性だった。


「サルガス皇太子、ご足労いただきまして有難うございます」

「それはオレにではなくアリア嬢とシリウスに言ってくれ。他国からわざわざ来てくれたんだからな」

「もちろん、御二方にも感謝しております。当診療所の所長を務めているカペラと申します。この度は遠方より来ていただき、本当に感謝しております」

 そう言いながらカペラ所長は深々と頭を下げる。……昼夜尽力しているんだろうな。顔に刻まれた疲労を見ればすぐ判るほど、カペラ所長は疲弊しているようだった。

 アリア様はカペラ所長をじっと見た後、小さく首を振る。

「診てみないと何とも言えませんが、私の術は一時しのぎにしかならない可能性が高いです。まずは原因がどこにあるかを突き止めないと根本的な解決にはならないでしょう」

「それはそうですが、現在の症状が緩和出来るだけでも我々や患者にとっては有り難いのです。……酷い患者だと、人の理性も保てなくなる者もいますので……」

「…………」

 アリア様の表情が更に厳しくなる。

 ちらりと天井を見上げてから、僕とサルガス皇太子に視線を向けた。


「すみませんが、お二人はこちらでお待ち下さい。各部屋は私で回って対処します」

「何?」

 当初の予定と違う提案にサルガス皇太子が目を細めた。一気に威圧感が上がるが、それを向けられている本人は全く意に介した様子はない。

「こちらの状況は思っていた以上に深刻なようです。シリウス様やサルガス皇太子が間近で瘴気に当てられたら発病の危険もありますから、こちらでお待ち下さい」

「だから、昨日も言ったが……」

「大丈夫です。何かあっても対処しますので」

 言いかけた言葉を遮ったアリア様は一瞬僕に視線を向け、それから天井をちらりと見る。……あ、そういう事か……。

 アリア様の意図を察した僕はサルガス皇太子に向き直った。

「サルガス皇太子、ここはアリア様に任せましょう」

「は? お前まで何を言って……」

「アリア様なら大丈夫です」

 アリア様だけでなく僕からも言い切られたサルガス皇太子はポカンと虚を突かれたような顔をして。

 それから、まだ納得はしていない様子だったけれど頭をがしがし掻いて「判った、任せよう」とぶっきらぼうに了承を口にした。

「ただし何かあればすぐにオレ達を呼べよ」

「判りました。有難うございます」

 アリア様はうやうやしくお辞儀をした後、カペラ所長と一緒に廊下の向こうへと消えた。


「…………」

 サルガス皇太子は不満気に近くにあったベンチへ腰を降ろす。一人分間隔を空けて僕も座ったところで、鋭い視線でじろりと睨まれた。

「どういうつもりだ。お前、アリア嬢の護衛役じゃなかったのか?」

「…………」

 その言葉に僕は改めて周囲の気配を確認して。それから口を開いた。

「アリア様は自分で対処出来ない時はちゃんと申告される方です。ああ話すという事は本当に大丈夫なのでしょう」

 そう言いながら僕はサルガス皇太子へ視線を送る。向けられた相手は一瞬表情を厳しくして──それから、少し体を動かして僕の方に向き直った。

「随分と彼女を信頼しているようだな」

「アリア様ですからね」

 小さく笑って言葉を返せば、サルガス皇太子もニヤリと笑みを浮かべる。

 ……判ってもらえたようだ。良かった。


 それから剣術の話で雑談をし始めたところで、漂っていた空気が揺らぐ。

 ……アリア様の浄化が始まったみたいだ。

 建物の奥から柔らかくて暖かな光が広がっていくような感覚。

「……すごいな」

 変わっていく建物内の空気にサルガス皇太子が感嘆の声をもらす。

「……これで上手くいけばいいんですけど」

 消えていく瘴気を感じつつ、僕は呟きをこぼした。

 瘴気の浄化と魔人病の治療は微妙に違う。まずは環境を良くするために瘴気を消してから取り掛かろうとしているのだろうけど、この作業だけでも中々骨が折れそうだ。……アリア様はやりきると思うが、疲労度は半端なさそうだなあ……。

 そんな事を思っている時。

 突然、浄化されていく感覚がフッと消えた。

 間を置かず、奥からけたたましい物音と聞こえてきたカペラ所長の叫び声。

 僕とサルガス皇太子はバッとベンチから立ち上がった。


「外はオレが行く」

「お願いします」

 短くそう言ったサルガス皇太子はあっという間に入口から外に出ていく。僕はアリア様の方。


 一気に廊下を駆け抜け、突き当りの部屋の中。

 広い部屋に整然と並べられたベッドとそこに寝かされている……体の一部が魔物化している人達。

 その中央で冷ややかな表情を浮かべたアリア様は床に転がっている覆面の男を見下ろしていた。……が、入ってきた僕に気づき、その表情はすぐに奥へと引っ込む。

「……お怪我はありませんか?」

「私は全く。カペラ所長が襲撃に驚いてひっくり返って、気絶した以外は問題ありません」

 そう言いながらアリア様はスッと空中に右手を伸ばし、何かを撫でるように手を動かす。……姿は見えないけどそこにいるんだろうな、ドラーガナ。

「……外に見張り役もいましたが、サルガス皇太子が向かったので今頃捕まえているかと思います。他に伏兵もいないので、ここはとりあえず大丈夫かと。安心して浄化と治癒を行なって下さい」

「判りました。……ドラーガナ、フォローをお願いね」

 そう言ってアリア様はその場で膝を付き、両手を組んで祈り始める。再び温かさが広がっていくのを感じながら、僕は倒れている覆面の男の手足を動けないように近くにあったタオルで縛り、そのまま担ぎ上げて部屋を出た。



「遅かったな」

 入口まで来たところでサルガス皇太子の声に顔を上げる。開いた扉の向こう、サルガス皇太子はロープでぐるぐる巻きにした男を正座させ、背中を足で踏みつけて動きを封じていた。

「……ロープはどこから?」

 単純な疑問を口にすれば、「裏の資材置き場」と当たり前のように答える。

「そっちは大丈夫だったか?」

「カペラ所長がひっくり返って気絶した以外は大丈夫でした」

「……まぁ、カペラ所長は荒事に慣れていないからな……アリア嬢が無事ならいい。憲兵を連れて来るからこいつら頼むぞ」

「はい。……よいしょ」

「ぐぇっ⁉」

 サルガス皇太子が足を退かすのに合わせて、正座している男の背中に担いでいた覆面をうつ伏せになるように落とし、そこに重し代わりに腰を降ろした。……潰れたような声は気にしないでおこう。

「お前中々ひどいな」

「一人の時に逃げられると面倒なんで……」

 サルガス皇太子に呆れの目を向けられたけど、それも気にしないでおく。

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