第2話 羽衣ジャスミンの濡れ衣

羽衣ジャスミンの濡れ衣


市営住宅の小さな空き地に、見事な芍薬と大輪の菊。アマリリスにタチアオイ。5月の花畑は色も鮮やか、香りも豊か。ミツバチや蝶のようにフラフラと誘われて近づくと、羽衣ジャスミンが一面に広がっていた。目を閉じて立ち込める甘い独特の香りを堪能していると、小さなカシャッリカシャリという小さな目を開けた。

「邪魔しちゃったね」

老人カートを引きながら、枯れ枝のような腕に似つかわしくない黒い大きなカメラを構えた老人に席を譲った。

「いえ、こちらこそ」

「ジャスミンの匂いが好きなのか…よかったら、持ってくといいよ」

掛けていたエプロンから、剪定鋏を取り出すと、天を向いて広がる羽衣ジャスミンを一房断ち切ると手渡す。

「いいんですか?」

「あぁ。この団地が出来たころに、空きスペースにわしらが勝手に植栽し始めたんだものだからな」

「団地の方たちが自作で花壇を作ったんですか」

「あぁ。この団地の人たちは建てた当初からの人が多いからね…わしも、昔は大工をしていたんだが、下手をして足をやってしまってね。ここに越してきたんだが、そのころは今よりも団地っていうとイメージが悪くってね。せめてきれいな花でも植えて見栄えを良くしようっていう有志で作り始めたんだ」

おじいさんの貸してくれたデジタルカメラのモニターには、青空に向かってラッパ咲をしている見事なタチアオイが映った。記録を遡っていくと、レンガ囲みの大きな花壇にチューリップ畑が広がっていた。

「わぁ。きれい」

赤のチューリップをアクセントに、白と黄色のグラデーションで一枚の絵のように美しく並んでいる。

「あぁ。ここは住民しか知らない秘密の花園なんだ。今年は洋裁をやっている人が中心にパターン植えをしてみたんだ。見事なもんだろう」

「はい。この目で見て見たかったです」

「残念だけれど、今年は暖冬で早めに咲き終わったから、もう球根は掘り出しちゃったんだ。でも今週末、あるものをまた植える予定なんだ。お嬢さん良かったら来てみないかい?」





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土曜日。快晴。スーパーの下の小さなコーナーで買った一枚500円のズボンに見切り品の長袖、大きな麦わら帽子の中に、手ぬぐいの完璧な日よけ対策をしていざ向かう。数人の先客が同じような戦闘服を身にまとって既に作業を始めている。スーパーの下で安売りしている服はこの人たちが買っていたのかという事実に、「誰が買うんだろう」という回答を得た喜びと、自分もその一員になれたという満足感でうんうんと一人深く頷いていると

「美鈴ちゃん。こっちこっち」

と皺枯れたそれでいてよく通る声に近寄ると、高松さんだった。

「こちらが、例の美鈴ちゃん、で有志の会の…」

「河合です」

ひと際大きな麦わら帽子に、サングラス。ハワイのムームーのような柄のド派手なモンペを履いている。

「河合さんは、普段は…」

「ハワイアンキルトのお教室をしているのよ。キルトショーで受賞経験もあるの」

と高松さんの説明の間もなく、自己紹介をしてもらい

「あの…私は」

「知ってるわ。高松さんのお友達の美鈴ちゃんよね。お花好きで、今日はお手伝いに来てくれたのよね。作業は、花壇の中の人に聞けばわかるから」

背中を押す。花壇に入ると、もうすでに事情は知っているのだろう、大きな鍬とともに

「この腐葉土と、土をよく混ぜて耕してね。大きな石があったら、取り除くんだ」

作業の指示をしてくれた。その後、耕し、土を均したところでお昼になる。

「じゃあ。休憩にしましょう。こっちに簡単だけどお弁当もあるから、みんな持って行ってね」

ベランダ栽培と違って、豪快に鍬を振り回す花壇の作業は、思った以上に重労働だった。一度、マンションに戻って休憩しようすると高松さんが、配給の弁当を手に声を掛けてくれる。

「美鈴ちゃんも、お弁当一緒に食べよう。今の時間なら、建物の影でこっちのベンチが涼しいよ」

と、傍らに小さな女の子を手に取っている。

「こんにちは」

と挨拶をしてみると

「ちわ…」

と小さく返して高松さんの老人カートの向こう側に逃げてしまう。






                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧



地元の中学校から、私の行きたがっていた商業高校に進学希望をしたのは、私一人だった。希望校は自分で調べてここにすると決めた。親にも先生にも友達(果たして友達といえる間柄がいたかはわからないけれど)にも相談はせず、自分の成績と進路を頼りに、スマートフォンで検索して決めた。ここに進学すると宣言したときの、両親の反応は真逆だった。母はまだ私学の願書提出までギリギリまで粘るつもりで攻防を仕掛ける。

「美鈴。お願いだからもう一校受けなさい。行かなくてもいいの」

夕食の片付けをしながら、母の言うセリフは決まっていた。このタイミングぐらいでしか、共働きの母親と会話をする時間はなかったのだけれど。

自室でスマートフォンを触ってはいけないというルールがあった我が家では、多少の小言BGMがうるさくてもインターネットを使う為にはリビングにいる必要がある。今年は私が受験だからと、兄も姉も帰省はなかったので余計に風当たりが強い。

『お母さん、担任の先生も言っていたでしょ。この商業高校なら、充分に合格圏内だからって最後の三者面談でも言われたじゃない』

いっそ、そんな風にはねのけてしまえば、楽なのかもしれない。

『私の人生なんだから、私の好きにさせて』

こんな韓国ドラマのような台詞を吐いてみたらどうだろうか。逡巡している間に母の水仕事は終わったようで、会話にもならないまま母は寝室に戻った。母がいなくなったリビングでソファーに足を投げ出し、グーグルの検索を続ける。高校に入学したお祝いに好きなものを買ってもらえるのだ。目的は自分専用のノートパソコンだ。最低限のソフトや容量、見た目などを考えて検索していると、あっという間に時間が経ってしまう。リビングの扉が開いて父が帰ってきた。

「おかえりなさい」

というと、

「母さんは?」

時計を見ると、すでに10時を回っていた。

「多分、もう寝たんじゃないかな」

と、占領していたソファーを父親に譲り、食卓の上にあるラップの掛かったおかずをキッチンに運んだ。父親はネクタイを緩めて外し、スーツの上着と一緒にソファーの背もたれに掛けると、さっきまで私がしていたような体勢でスマホをいじりだした。母が居たら、「スーツのまま寝そべらないで」とお小言をくらうやつだ。私の性はきっと父親譲りなのだろう。

「ご飯は?」

「あー。いいわ」

の一言で食器棚からタンブラーを取り出し、氷を入れて戸棚に隠してあるチューハイの缶を添えて温めたおかずをテーブルに出した。

「美鈴はよくできた娘だよ」

と小気味よい缶を開ける音と共に答えた。ピコーンといって私のスマホが鳴った。開いてみると父からのラインの共有だった。中国の山林で白いパンダが見つかったというYOUTUBEのニュースだった。パンダにもなれないシロクマにもなれない中途半端な存在がそこにいた。黒い模様のない小さな眼は所在なさげにうろうろと彷徨っていた。雪の中ですっかり馴染んでいるはずなのに、だれとも折り合わない。パンダの黒い目の周りの模様は、自分が異質のものでないと周囲を誤魔化す化粧だったのかもしれない。

返信に、ブクマしていたノートパソコンのURLを送った。父はいいねというスタンプで返答してくれた。


                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧


「未来ちゃんっていうんだよ。団地の部屋が近くってね。」

高松さんの持っていた唐揚げと卵焼き、おにぎりに大根の甘酢漬けという弁当を小さな手でがっつきながら食べる未来ちゃんを高松さんは優しい表情で見つめていた。小さな手に握られた箸はバラバラで上手くつかめず、結局未来ちゃんはあきらめて、手でわし掴みして唐揚げをむさぼり始めたのだ。小さな体に詰め込むように食べる未来ちゃんからは生きるっていうエネルギーを感じる。

「唐揚げ好きなの?」

と聞くと、小さな頬っぺたにたくさんのものを詰め込んでもごもごしている未来ちゃんが、こくこくと首を縦に動かした。まだ使っていない箸で自分の弁当から唐揚げを一つつまむと、未来ちゃんのお弁当に移した。

「高松さんはお昼は食べなくて大丈夫ですか?」

「いや、わしは足がこうだからね。畑仕事も出来んし、記念写真ばかりとっとったから、腹は減っていないよ」

と、愛用の老人カートからデジタルカメラを取り出し未来ちゃんを一枚撮って私にデジタルカメラを寄与越した。婦人会の皆さんが作ってくれたというおにぎりを口に含んだ。手作りのおにぎりの懐かしい味が広がる。モニターに映ったのは、各々好きな格好で土を耕し、腐葉土を振っている有志の人たちだった。ムームー姿で口に手を当て指示をする河合さんの姿もある。何年も土に触れてきたのだろうとも思われる熟練の技で鍬を振る男性がいる。私が鍬に振り回されているショットもあった。やっていることも、できていることもバラバラだけれど、この中に映っている人たちはみんな同じ目的に向かって動いている。

「気に入った写真があれば、あとで送るよ」

「はい。午後も楽しみです」




                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧



商業高校では、女子が多いと入学前に知っていたが、実際に入学し通学してみるとクラスのほとんどが女子でいつの間にかクラス内でも小さな集団が出来ていた。放課後に校則で禁じられている髪を下ろして化粧をし制服を着崩すグループや、通学カバンにジャラジャラとキャラクターの缶バッチを付けるグループ、部活に励むグループ。私はただ一人ポツンと、資格取得に励んでいた。そんな私に唯一声を掛けたのが、亜子だった。

「今度ある情報資格の勉強をしたいんだけど…ノート見せてくれない?」

亜子はガソリンスタンドでアルバイトをしていて、日中の人出不足のときもシフトに入るらしく、学校を度々休んでいた。初級のその資格はすでに取っていたので、ロッカーの中から使い終わったテキストを渡した。放課後の教室で、別々の資格の問題を解きながら一方的に受ける質問に応え、代わりに亜子は自分の話をする。個人情報を受け渡すこと友達とは出来ていくのだろうか?亜子は母子家庭なのだという。母親は娘の養育よりも自分を着飾ることが大事なようで、年々家にいる時間も子供に掛ける費用も減ってきたのだという。

「世間体が大事だったのか、一応高校は行かせてもらえて良かったよ」

通っていた商業高校では、金融から製造、地元の名の知れた企業もいくつか就職先としてコネクションがあった。高卒でも安定した職業に就けるという理由でこの学校を受けた生徒も多い。実際に授業が始まると、年頃の生徒の多くが義務ではない資格取得までの勉強を放棄していった。中学までの義務教育の延長線上にある高校に通うことにありがたみを感じている亜子は私とは違った意味で周りから浮いた存在だった。

「早く自由になりたい」

私たちはその一点で同士で、仲間だった。亜子が出席する日は、時より昼食を交換して情報交換をしていた。亜子が昼食にしている購買のパンや、コンビニの商品は体に悪いからといって母に禁じられているものばかりだった。亜子は薄味の煮物やお浸しで出来ている母の弁当を「これが真のおふくろの味というやつか」と噛み締めていた。情報交換とはいっても、身になる情報は全て私からのもので相変わらず亜子からの情報は亜子の個人情報だったが…。期末テストが近づくと、私はテスト対策用にまとめたノートを亜子に渡した。亜子が購買のコピー機でノートを写す一方で、私はより就職に有利になる資格取得に励んでいた。商業学校の就職コースでの一般科目のテストは、普段の授業を聞いていれば充分理解できる程度だった。母の栄養管理のお陰か、ほとんど皆勤賞で学校に通う私には改めて勉強するまでもない。

「美鈴は外部の大学受験が目標なの?」

と亜子から聞かれると

「卒業後は、就職希望」

と答えた。高校でも充分に浮いている私が、新しい大学というステージで上手くやっていけるとは思えなかった。社会に出れば、一人で生きていける。もう仲間なんて捜さなくてもいいんだ。そんな確信があった。

「大きな企業に入りたいの?」

「まだ、具体的には決めてないけど…堅実な地元の小さな企業がいい」

「あたしは、出来るだけ大きな企業に入りたいな…お給料のいいとこ」

就職活動には、高校での実績が大切だ。特に大手のメーカーなどでは、学校の推薦書が必須。出席日数や、部活での活躍、生徒会や委員会の功績などが加味される。アルバイトで出席日数がギリギリな亜子も、人間関係の構築スキルが皆無な私も、学校行事では置物状態だし、帰宅部だ。大手企業なんて希望は、ティシュよりも軽く吹き飛ばされるだろう。でも、人の希望を鼻で笑えるほどの成功体験を私も持っていない。

「とりあえずテストで赤点取ると、夏休み補習らしいから勉強しといたほうがいいよ」

会話のギアをチェンジして、未来の就職先には触れないようにした。亜子も

「まじか。夏休みは毎日シフトに入れるって思ってたのに」

とぼやきながら、勉強モードにシフトチェンジしたようだ。私たちは永遠に学生ではないのだ。必ず来る卒業という現実のために精々日々を費やさなければならない。



                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧



向日葵が太陽の向きにとともに首を振り方向を変えるというのは、成長段階までのお話しで、満開の向日葵は一斉に東を向く。夜露をいち早く乾かし、受粉の為の一番良い状態を保てる方向だから。向日葵は人の目を楽しませるためにではなく生存競争のために大輪の花を咲かせているのだ。

「だからね。東に向かって花壇を制作している。もちろんその性質によって高さが変わるからそれも合わせて花壇に高低差を付けているっていうわけ」

向日葵のポッドは、高松さんや、未来ちゃんも手を掛けたらしい。向日葵にこんなにたくさんの種類があったことに驚く。

「ゴッホの向日葵になったものがあったのは知っていましたけど、普通の背高のっぽの向日葵ぐらいしかないかと思っていました」

「あぁ。美鈴ちゃんのイメージにあるのはロシアだね。ロシア人がよく好んで庭先に埋めるから、大輪花の向日葵をロシアというようになったんだ」

「へぇ。ロシアでは向日葵は咲かないのかと思っていたので意外です」

「向日葵ロシアは、長年緊張状態にあるウクライナの国花でもあるんだ」

「ロシアなのにウクライナですか?」

「あぁ。戦地に赴く兵士の胸ポケットには、いつも向日葵の種が忍ばせていて、もし戦場で命を落とすことになっても、そのあとに凛々しい向日葵の花が咲く。向日葵は反骨のシンボルともなっているんだ」

昼過ぎの作業は、精密な畝をつくり、向日葵を植えていく。多くの人が入り混じると折角の畝が崩れたり、配置と違う向日葵を植栽してしまいデザインを維持するのが難しくなる。午後は花壇の中と、外で担当が分かれていた。私や高松さんは、外での作業に当てられた。小さなポッドの真ん中に、丁寧に植えられたおなじみの厚めの葉っぱ。一つのポッドに大きくなった苗がきちんと間引きされて一つになっているか確認する。未来ちゃんも、小さな如雨露で一つ一つのポッドに水やりをしていく。育苗ケースにはそれぞれの種が入っていた写真付きの種袋で品種がわかるようになっている。目の前にあるのが、花びらも中心部分も爽やかなレモンイエローのモネ。未来ちゃんの目の前にあるのが、濃いワインレッドのクラレット。

「向日葵のオーソドックスな姿しか知らない人も多いだろう。矮小性、多彩、こんな風にバリエーション豊かな今だからこそ今回の企画のアイディアも浮かんだし、まさしく多様性の時代だな」

カシャリと、真剣な表情で次の育苗ケースに目を凝らす未来ちゃんの姿をレンズは捉えていた。



                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧



亜子が私の前に顔を出したのは、二年の中間テストの時期だった。就職組で事務希望の亜子とは進路から3年間同じクラスの予定だったが、一年の後半から少しずつ現れることが少なくなっていった。日に透かした亜子の髪が金色に薄く透けるようになり、三つ編みで隠したピアスホールと少しずつ見た目が変化していく亜子が、お昼ご飯を避けたり、テストの前にノートを要求したりしなくなり、意図的に距離を置いていることは感じていた。

「やっほー」

と、距離感を急に詰めてくると、辺りには誰もいない。教室や図書室はこの時期テスト勉強の生徒が使用しているので穴場のコンピューター室にいた私を亜子が捜していたことがわかる。夕方の落ちた日の光と、コンピューター画面の薄暗い明かりの中で開いていたテキストが一瞬白くなって文字が霞む。亜子がコンピューター室の電気を点けた。

「こんな薄暗いところで、捜しちゃったじゃん」

いや…約束もしていないし、そもそもよそよそしくなったのはそちらからでは?とも言わず、私はスクールバッグの中から中間テストのまとめをしたノートを出した。

「今、使ってないからコピーしに持ってってもいいよ」

二年生の中間試験の結果は、進路指導にも関係してくる。高卒の就職は三年の九月には終わっているのだ。つまり来年のこの時期には未来は見えているということ。

「あたしさ。バイト先の店長の息子と付き合っているんだ」

唐突に亜子の自分語りが始まった。高校生で男女交際をするのはごく当たり前のことだろう。驚きもしない。

「高校…辞めるの?」

驚いたのは、私の口から出た質問だった。私がわざわざ他人の人生に踏み込むことをすることに、私自身が驚いた。

「ううん。一年付き合ったけど、まだわかんないよ。もし彼がガソリンスタンドを継ぐにしてもあたしと結婚してくれて、家族になって、子どもを産んでっていう裏切らない関係なのかわかんない」

「わからないのに、付き合うの?」

「そーだよね。重いよね、あたしなんてまだ16とかなのにさ。重すぎるって自分でも思ってる」

そうじゃない。私が驚いたのは、そうじゃない。言葉の続きを捜している間に亜子はコピーを取りに教室を出て行ってしまった。亜子の出席日数は明らかに一年次よりも減っていた。

家庭環境を想えば単純に学校をサボっているとも思えない。貴重な高校生の時間を亜子はアルバイトに当てているのだ。そこに未来はあるのだろうか。他人のことなのに、亜子のことだと思うと胸がぎゅっと締まり、喉が詰まった。蛍光灯にさらされた亜子の髪は、ブリーチで傷んでいて、制服から出た手足が筋張るほど細くなっていた。亜子が傷つかなければいい。私の思いなど何もかも杞憂で、未来は明るくて、手に入れたいものが手に入れられたらいいと思う。亜子が欲しいものは、きっとお金なんかじゃない。



                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧



作業が終わり、残ったポッド植えの向日葵を持ち帰ってもいいといわれたのでいくつか持って帰ってベランダで寄せ植えにした。向日葵は直根性の植物なので、あまり根をいじると傷みの原因になる。脇芽を取れば一本立ちの大きな花で華やかになるだろう。逆に摘まなければ沢山の花が溢れる楽しい鉢ができるはずだ。軽石を台所の水切りネットに入れて底に置き、赤玉土と腐葉土を混ぜた土、間に元肥、薄く土を被せると何もせずにそのままポッドを並べた。好きなように生きればいい。咲かせたいだけ咲かせればいい。摘心はやらずに、如雨露の水を底穴から何度も溢れんばかりに掛けて寄せ植えを作ると、高松さんからラインで写真が送られた。お返しに水を葉で弾き、居場所を得て東を向く向日葵を送った。夕日を浴びて、黄緑色の葉っぱが水を滴らせながら向日葵は胸を張って生きている。




                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧


三年生になると、途端に教室の空気ががらりと変わった。部活で成果を得てきた生徒、生徒会や課外活動で活躍した生徒は、就職説明会を経て次々と学校と大きな会社の内々のやり取りがある。成績優秀者や、進学を考えている生徒は、大学入試や、公務員試験なども視野に本格的に勉強しだす。そんななか、私はなかなか先に進めなくなっていた。高校生活の限られた時間の中で、努力を重ねてきたつもりだった。でも、今となってはハローワークの求人票を見るのさえ怖くなっていった。

「就職をしたいのなら、資格を沢山取って出席率や態度が良くても早く希望を出さないと、いいところから決まってしまうよ」

三年間、担任をしていたはずの教師の目が冷たく感じられて真っすぐに見られない。

「大学に進学したいのなら今からでも間に合うわ」

相変わらず、母親の話は耳障りだ。私は、三年間思い違いをしてきたのかもしれない。焦りで出てくる冷や汗は、ますます自分の中のやる気を鎮火させていった。流れていく月日に、自分だけ取り残されたように春は過ぎ、夏休みはほとんど部屋のなかに閉じこもって過ごした。気が付くと、肌が白いまま、顔色は蒼いまま、夏休みが明けた。教室の中には、少し黒くなった同級生たちが高校最後の夏休みを楽しんだ空気が漂う。この夏をこんなに無為に過ごしたのはこの教室で私一人のように思えた。9月になると、ほとんどの就職希望者が内定を決めている。親しい友人もなく、内情を知らない私でも、未来を勝ち取れた人の余裕はひしひしと伝わってくる。

「進路が決まったといって、ハメを外さずに最後まで高校生活を全うすること。就職先は卒業までを見込んで採用してくれたんだからな。引き続き、進路が決まってない者は、三者面談をもう一度行う」

重たい一言を残して始業式の一日が終わった。帰宅の足が重たくて、無駄に遠回りをしていると、道沿いのガソリンスタンドから聞きなれた声が聞こえた。

「美鈴!」

赤の繋ぎの作業着を着た亜子は、制服を着ているときよりも大人びて自由に見える。黒い作業着の背の高い男の人と目配せをすると、事務所の中のスペースに入れてくれた。

「今日から、学校だったんだ。忘れてたよ」

といいながら、スポーツドリンクを二本手にした亜子は、肌は明らかに黒くなり、少しふっくらしたようだ。

「あたしさ、就職諦めたよ」

丸椅子に腰かけた亜子は、ペットボトルで顔を冷やしながら目を閉じる。その表情が驚くほど大人だ。

「赤ちゃんが出来たんだ。今は店長が…彼氏のお父さんが用意してくれたアパートに住んでる」

「よかったね」

その祝福の一言は自然と零れた。

「うん」

「よかったぁ」

そういう私の目を亜子の指がスッと撫でた。冷たくて長い細い指だった。

「あたし、いいお母さんになるんだ。だから大丈夫。美鈴も幸せになろ」

「うん」



幸せになるってどうしたらいいのか。亜子のアルバイト先からの帰り道、いつもは通りすがるだけの駅ビルに寄った。一階は大きなスーパーと電気屋、喫茶店とチェーンのイタリアンが入っている。入口の大きな自動ドアに立ち尽くしていると、蛇のようにたくさんのカートを集めて整列させているおじいさんの定員が、視線でそこどいての合図をした。吸い込まれるように、スーパーに入っていくと、試食販売の中年女性が真っ赤なミニトマトを客に勧めていた。

「トマト嫌い!」

という子どもの手を、すみませんと目配せしながら母親が連れて行く。レジ打ちのふくよかな女性は手だけで機械のように精巧にバーコードを見つけて通していく。喫茶店やイタリアンの飲食店には、自分と同じ制服を着た高校生が、始業式のあとの夏休みの延長戦を楽しんでいる。そこにいる誰もがパズルのピースのようにぴったりとはめ込まれる居場所があった。私はひとりどこにも居所がなく、ふと目に入ったアルバイト求人誌を手に取って空きスペースに置かれたベンチに腰掛けて目を落とした。

接客業、製造業、作業員、介護職…誰かとコンタクトを取ることが難しい私には、どこにも居場所がないように思えた。事務職のページにいくと、営業事務、受付事務…

―難しい作業はありません。社員のサポートをしてくれる方を募集中。

私のピースはそこに当てはまらない。雑誌を閉じようとしたとき、目の中に入ってくるようにその求人があった。

庶務・雑務―1人事務です。用具の管理などをしながら、出勤簿や日程調整のお仕事をお願いします。


                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧

「未来ちゃん」

小さな手に隠されたアンパンマンチョコは、スティックの先だけ隠しきれずに肩から下げられたキャラクターのポシェットにしまわれようとしていた。ビクリと肩を震わせたのは未来ちゃんじゃなく、隣で買い物かごを下げた女性だった。


「久しぶりだね、亜子」

あのとき座ったベンチに私、亜子、未来ちゃんの順に並んで座る。亜子はやせ細りキャミソールワンピースから出ている肩や鎖骨がゴツゴツとしていた。厚めの化粧を施しているのにはっきりとわかるほど顔色が蒼い。私が買った紅茶のペットボトルを固く握りしめ小さく震えていた。未来ちゃんは、アンパンマンチョコをペロペロとなめている。無表情だ。

「未来ちゃんとは、団地の花畑で会ったんだよ」

あのころとは打って変わって、私が一方的に話しかけていた。あの日高松さんからもらった写真の一枚をスマホの画面に出した。一心に向日葵の苗を選別している未来ちゃんと、慣れない写真にぎこちない笑顔をはっつけてピースをしている私のツーショットだ。


目の前に差し出された未来ちゃんの真剣な顔と、隣にいる未来ちゃんの何も感じていないような表情を見比べて、亜子の薄い肩がカタカタと震え出した。

あの頃の私たちと、大人になった私たち。会わなかった数年で服装も生き方も変わってしまって接点がなくなってしまった私たち。

でも変わらないこともある。

私は、今も変わらず亜子が幸せであればいいと思っている。

派手なネイルで飾られた亜子の手を、ささくれだらけのハンドクリームさえつけない冴えない私の手が包んだ。



                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧


夏空に、満開に咲いた向日葵と、同好会メンバーが揃い、日曜の花壇の前は賑やかだった。

「おかーさん」

向日葵の柄のワンピ―スを着た未来ちゃんが、高松さんの手を解いて団地の玄関に走っていく。

「未来!」

少しふっくらした亜子は、腰をかがめながら両手を差し出し、駆け寄ってきた未来ちゃんを抱きしめた。未来ちゃんを抱き上げると花壇の前に近づいてくる。

「いつもすみません。甘えてしまって」

「いやいや、何も気にすることはないよ。こうして未来ちゃんと遊んでもらえるのも楽しんでいるんだよ」

地域の新聞に載せるために、今日は同好会メンバーでの集まりがあったのだ。夕方には同好会メンバーが主催する向日葵祭りもある。市営団地の人たちや地域の小学生たちも招いた小さな夏祭りだ。

「そうそう。未来ちゃんは、同好会の主力メンバーなんだからね」

と、未来ちゃんとおそろいの向日葵柄のムームーを着た河合さんが向日葵のような大きな笑顔を咲かせた。

あれから、亜子は給料がいいからと勤めていた水商売を辞めて工場の期間工の仕事に就いている。立ち仕事で日祝勤務もあって大変だとぼやきながら笑う顔は、化粧をしていたときよりも生き生きとしている。

「出勤時間でしょ。いってらっしゃい」

と、未来ちゃんを亜子から預かった。子どもの体温は熱くて生きているという鼓動がある。私に抱かれた未来ちゃんは、腕の中でくるりと反転し

「いってらっしゃい。おかーさん」

と元気に手を振った。同好会メンバーと向日葵の記念写真を撮って、夕方の祭りの準備に掛かる。私と未来ちゃんもヨーヨー釣りの準備に加わる。シュポシュポと耳障りの良い音を響かせながら勢いよく風船を作っていく高松さんのお手本を見様見真似でやってみるが、なかなか大きさや形が揃わない。

「美鈴ちゃんのはでこぼこだね。じいじのはみんなまあるい」

と未来ちゃんからも指摘が入った。

「なぁに、形が色々ある方が選びようがあっていいじゃないか」

と高松さんがフォローしてくれる。最近の未来ちゃんは口が立つようになった。

「そうだね」

と未来ちゃんが、私の作ったひょうたん型の不格好なヨーヨーを突き始める。ジャカジャカと楽し気な音を立てて数十回、パチンとゴムがはぜて辺りに水が舞った。

「わっ」

「あっ」

「あー」

三人三様の声を上げて目を合わせた後、声を合わせて笑った。今日は向日葵の日だ。夜露など、すぐに乾く。


                 ♧♧~♧♧~♧♧~♧♧



なんで商業高校なのか。なぜ早く大人になりたかったのか。私は私を隠したかったのかもしれない。あの白いパンダのように。同じ制服を着ていても、同じ空間にいても、同じような境遇でも仲間を見つけられない。いつもどこかが浮いてしまっている私を。

今になって思う。制服にこだわっていたのは、形にばかり捉われていたのは私だったのだ。

形は変えられる。居場所は見つけるものじゃない。

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