Green Jungle Queen

ねりを

第1話 豆苗と二十日大根の罠


きっかけは豆苗だった。線路沿いの西日がきついアパートの窓はいつもカーテンで閉めっぱなし。いつものように半額シールの貼られた豚小間を、半額野菜と一緒に炒めて夕ご飯にしようと、半額ハンターと化した私が、ふと目にしたのが豆苗だ。



かれこれ24年間実家暮らしだった私のレパートリーは数少ない。

商業高校からそのままタウンワークで見つけてきた事務求人のパートに採用されて早六年。

三人兄姉の末っ子の私だけ、大学に進まなかったのを見かねた両親は、いつまでも実家から通えばいいと、安月給の私を甘やかしてくれた。三食賄いつき、家に入れるお金は破格の0円!その代わり、少ない給料はきちんと貯金することという好待遇。今はもう結婚して家を独立している兄姉が、このように甘やかされている私に文句がないのは、未だに化粧っ気なし、高校生の時から履いているGパンに、ヨレヨレのトレーナーという私の出で立ちを憐れんでいるからだと思う。きっと彼氏など出来ず一生結婚もできないゴニョゴニョ。あんな小さな会社の事務いつ追い出されてもヒソヒソ。兄姉の帰ってくる長期休みは、ヘッドフォンを外せない。ヘッドフォンはヘルメット。子ども部屋が防空壕。しかし、姉の一人目の娘が出来て以来、安全地帯は脅かされた。

実家は駅からはバスで遠いもののいわゆる教育学区で、難関中学に合格率が高い塾や、有名進学高校などが健在する子育て世帯あこがれの地だ。地元の公立学校も偏差値が高く、お行儀のよい生徒ばかりが集まっている。姉の二世帯住宅への包囲網がじりじりと迫っていることがひしひしと感じられた。

週末は決まって姉一家が夕食を供にする。

動物園や水族館に両親も誘われて、お土産のパサパサクッキーが学習机に置かれている。

熱の出た姪っ子の世話で母がパートを休む。

風当たりは暴風雨並。すべて骨が折れたひっくり返った傘を手に持ち、私は成す術もなくズブ濡れになることぐらいしか仕様がない。

そんな時に渡りに船のような知らせが届いた。パート先の転居だ。家から自転車で通えるという好立地条件からのお引越し。とはいえ、同じ市内、車通勤か電車通勤も可能である。

まだ重たい一歩を踏み出せない私の背中をさらに押したのが光希からの告白。

「付き合ってください」

正直に言ってしまえば、人生初の告白にはもう少しロマンチックの要素が必要だった。清掃用具でひしめき合った薄暗い倉庫で、今にも誰かが入ってきそうなシチュエーション。

しかし、高卒パートのすっぴん女に告白という千載一遇のチャンスを逃してはならないと野生の私が叫んだ。差し出された手を掴むと、

「よろしくお願いします」

と答えていた。

ちょっと待った!と理性の今の私は叫ぶが、当時の私には届かない。そもそも光希と話したのはその時が二回目だったのだ。一度目は彼が清掃会社の社員に決まった日のこと。作業着のサイズ合わせや用具の説明をした仲だ。

「最近の人は足が長いんですね」

「ウエストはちょうどいいみたいなんですけど」

現場清掃員は日給が高い。朝5時半に集合などまず始まりからして過酷なのだ。そして、現場につくと、作業員よりもはるかに地位が低く、「トロトロしてんじゃねぇよ」「ここ、ちゃんとバリが取れてねぇじゃねぇか」の罵倒にメンタルがやられる。若くて、体力があり、動きのいい清掃員は好まれるが、すぐに飛んでしまう(バックレ)という危うい面も持ち合わせている為、貸与する現場服や、用具は出来るだけ使い古したものをという指示が社長の奥さんからあるのだ。にこにこした仮面を着けながら、仕方がないと、倉庫から新品のサイズが大きいものを渡す。

「足はちょうどよくなったんですけど、ウエストががばがばです」

という光希に

「ちょっと失礼します」

といって安全ベルトで腰付近を締め上げる。男性器の目の前に顔を寄せるという荒業だが、逐一恥ずかしがってはられない。

それ以来、表立って光希との会話の思い出はない。

現場帰りの「お疲れ様」以外の挨拶を交わした覚えもない。私の一体何が気に入ったのかわからないけれど、そして私は光希のどこを気に入ったのかもわからないまま、交際は始まった。

結局、両親には事務所を移転するからと、一人暮らしを決めた理由にしたのは、別れの予感を察知していたからかもしれない。

「そうだな。美鈴もいい年だし、一度家から出てみるのもいいんじゃないか?」

「そうね。心細くなったらいつでも帰ってくればいいのよ」

と即座に同意した両親の、子供部屋に残された、ベッドや、学習机を処分してもいいかと退路を断つ言葉から本心はバレバレだった。ほとんど荷物などなく、衣装ケースに一つで入ってしまった私服と、数冊のアルバム、商業高校に入学したときに買ってもらった古いノートパソコンというわずかな荷物を運ぶ両親の顔はハレバレとしていた。

「美鈴ちゃん、引っ越すんなら、社員寮にすればよかったのに」

と奥さんが最後まで押すのを引いて、いわゆる家具家電付きの壁の薄いで有名なアパートに引っ越したのは、家具家電を用意するのが面倒だったからというわけではない。会社の寮というのが、系列会社の社長の持っているアパートで、部屋を行き来していたら、一発で関係がバレてしまうから。結局会社から、近くて一番安いアパートとなると、選択の余地などなかった。

チャイムが鳴って出てみると、実は隣の部屋だったという、話がたとえ話でなく事実だと知るのは引っ越してすぐのこと。わざと時間をずらして退社すると、光希の帰りがやけに遅く感じて何度か隣の人の帰宅時に扉を開けて気まずい思いをした。

「悪いんだけど…しばらく部屋から会社に通わせてくれない?」

会社の移転とともに新居での同棲生活は始まった。

社員寮に入れるのは、入社3か月後からと決まっている。付き合う時点でまだ入社1か月半で入寮条件に満たなかった光希が、早朝出勤のために、私のアパートに転がり込んでくるのも想定済みだった。

「べべべっ別にいいけど…」

そのころは手さえ繋いでなかった関係でいきなり始まった同棲生活だが、私は年上の余裕感たっぷりの返事が出来ていたと信じている。

うちの会社は基本週6の稼働の肉体労働なので、家に帰っても明日の為に食べて寝るだけだ。何もないと思っても、数日は眠れない日々が続いた。

光希は身長が高く、体つきもしっかりしていたので、シングルベッドは狭すぎた。

寝返りもうたずで、ミイラのようにがっちりと体勢を固めながらベッドの端に寄って朝を待った。それでも体のそこかしこに光希の体がずっと触れて部分があって、そこだけが熱を帯びたように熱い。

朝5時に光希を起こして、私の出社時間の三時間ほどが付き合い当初の睡眠時間。思い返せば、何の営みもないあの時代が一番幸せだったのだと思う。



私が一人で買い物に行くと、鳥の胸肉か、豚の細切れの二つの選択肢しかない。帰宅時間を合わせて光希と合流した日の買い物は、かごに牛肉や、半額でも500円はする刺身などが入った。

「居候させてもらっているから」

と、財布を出してくれる光希の笑顔がキラキラと眩しく心から格好よく見えたのは、当時は恋愛フィルターが掛かっているせいだと思っていたが、単純に飢えていたせいでギラギラとしていたのだと今は思う。

所詮事務パートは、一日働いてもわずか八千円にも満たない。それに比べて、現場作業員の光希は手当てを含めると、一日一万八千円ほど稼げる。当時の私はいつも不安だった。

月々、手取りで16万円ほどしかない給料から、家賃や光熱費、食費などを支払うわけだ。子ども部屋に住んでいた頃にはほとんど貯金にまわしていたので、蓄えはあったが、毎月の給料だけでは生活費ですらカツカツな状態だった。

「おいしいよ」

と光希は、代わり映えのしない野菜で嵩まし炒めと、具のない味噌汁、添えられたざく切りキャベツのサラダを食べてくれていたが、早朝5時から床や、ガラスを拭きまくり、重たい清掃用具を取り扱う光希の仕事量に対し、私の作る料理はいつも物足りなかったのだと思う。食費節約のために、お昼ご飯におにぎりを結んで持っていくことにしたが、

「持ってく?」

といった私に、にこにこしながら、

「現場でみんなと食ってるから」

という光希の答えは、カロリーが明らかに足らないというサインだったのだ。次第に光希は私の家でご飯を食べなくなり、

「勝手に出ていくからいいよ。朝ごはんもコンビニで買ってくから大丈夫」

と、私が光希のためにやっていることはなくなっていった。光希の為に何もしなくてもいいということは、もう見限りのサインだったということに私は気付かなかった。

光希が私のどこを好きになってくれたのかはわからない。

でも、今になってわかる。きっと、光希は私のことを好きになってくれていたのだ。成り行きで始まった同棲も、私の考えていた打算的な事務所に近いから、という理由じゃなかった。

でも、そんな光希の気持ちを何度も気づかず、サインを見逃し続け呆れられてしまった。


そんなときに見つけたのが豆苗だ。野菜棚の一番上の隅に、ぎゅうぎゅうに押し込められた豆苗に今まで気づけなかったのは、その棚には私の手の届く値段の野菜はないと思い込んでいたから。

「98円」

半額のキャベツよりは高いが、コストは許容範囲内だ。パッケージの裏を見ると、

―スポンジ部分を水に浸すことでもう一度収穫できます

と書いてあった。そのときは試しにやってみるか…という程度の感想だった。

精肉のトレイに水を張って、東側のキッチンの出窓に置いた。

豆苗は無口だ。定時の仕事終わりに半額食品の入ったエコバックの中身を冷蔵庫に入れ替えるのと同時に水を入れ替えると、じりじりと無残な切り口から文句も言わずに新しい芽を伸ばしてくる。

100均の切れないキッチンバサミで収穫をしたときは思わず

「おぉ…」

と小さな声が漏れた。この部屋に生の声が響くのは何日ぶりだろう。私の漏らした感嘆は、豆苗と豚小間炒めで簡単に消えた。洗い物をしていると、久しぶりに玄関のドアがコツコツと叩かれた。泡だらけの手を慌てて流すと、

「光希」

と声を掛けながら玄関の扉を開いた。汚れた作業着を着て、埃だらけの光希は何だか捨てられた猫のようだった。

「今日、泊めてくれる?」

何週間も帰ってこなかったのは、鳥羽のおじさんの部屋に泊めてもらっているからだって知ってた。光希の言い訳を代弁するのも気が引けるほどに、光希は何だか傷ついた顔をしていた。

「先にシャワー浴びるから」

キッチンのリセットをしている間、ご飯は食べた?の質問に首を縦に振ることで応えた光希は若くて濁りのない目を力なくテレビの画面に向けていた。

ほとんど立つことしかスペースのないシャワールームで、ドラッグストアの最安値で買える石鹸で手早く体を洗い流しながら、何だかわからない予兆に私の体はふわふわとしていた。

「体洗って来たら?」

と、バスタオルを光希に手渡しながら、私は光希の顔を見れずにいた。パキパキと膝を鳴らして光希がシャワールームに入っていく音を聞く。タオルドライをする振りをして、ゆでだこのように真っ赤だろう自分の顔を隠した。

その夜、はじめて光希と結ばれた。

じっとりと汗ばんだ皮膚の下に、しなやかな血管と、太く白い骨を感じる。

目を閉じて、浮かんだのは小学生のころ連れて行ってもらった水族館で眺めたシロイルカだった。

狭いベッドがぎしぎしと軋み、ぎこちなく動く現実とは遠く、瞼の裏のシロイルカは自由だった。水槽をぐんぐんとものすごいスピードで泳ぎ、華麗にターンを決める。アクアリングで無邪気に遊ぶ。

習慣でスマホのアラームの鳴る前に自然と覚醒し、目の前にあった光希の裸の背中に夜が現実だということを理解した朝を迎える。ベッドの下に散らかった下着やパジャマを身に着けながら目覚まし時計を見ると、ちょうど朝の5時だった。

「光希?朝だよ。仕事は?」

と聞くと、光希はベッドの中からかすれた声で

「もう行かない」

と答えた。

「そう…」

その答えは、予想済みだった。ベッドのマットレスによりかかりながら、出勤時間までの間でうたた寝し、シャワールームの前に置きっぱなしだった作業着を紙袋に詰め、トーストの上に安い紙パックのジャムをつけたいつもの朝食を摂り、昨夜のごはんにふりかけと、卵焼き、ウインナーのタッパー弁当を包んで、いつも通りの時間に出勤した。

作業着のポケットに入っていた仕事用のスマホの電源を点けると、何件も朝から着信があった。

「おはよう」

朝の仕事は、昨夜帰ってきた清掃員の用具の整理から始まる。光希のロッカーに乱暴に詰められた安全靴や、ヘルメットを取り出していると、朝から疲れた顔をした社長と、奥さんが事務所に帰ってきた。

「光希くんが、今朝来なくってね」

現場に行って頭を下げてきたらしい奥さんに、光希の仕事用のスマホを渡した。

「やめるらしいです。行きがけに会って」

「そう…」

昨日、現場で光希がバリ取りをしていたら、建設員にちょっかいを出されたらしい。後ろから、尻を蹴るような真似をされ、光希が怒ってその建設員の胸ぐらをつかんだのだという。大手のゼネコンのヘルメットを被った建設員は、うちのような名の知れない小さな会社の作業員を下に見ることが多い。内装業者や、電気工事員のように技術のない清掃用具を扱うだけの仕事だと見下しているのだ。

間に入った鳥羽さんに頭を抑えるように謝罪し、その場は収まったのだが、その後収支光希は言葉を発さず作業を続け時間までは仕事をしていたという話を聞いていた。

「光希みたいに、未来のあるやつにはこの仕事はキツいだろうな」

清掃員を続けていても、何か未来に繋がることはない。そんなことはあるのだろうか。

湯呑を抱えるようにお茶をすする鳥羽さんの手を見た。ガサガサにささくれだった手だ。大きな機械を力強く扱うことが出来なくなっても、鳥羽さんの丁寧な仕事はまだまだ現場で必要だ。現場指示を鳥羽さんでとご指名の仕事も多い。

意味のない今なんて存在していない。そんな風に大きな声で反論できたらいいのにと、今度の現場の作業面積を計りながら思う。大型スーパーの建設現場の仕上げ清掃だ。この仕事がうまく回れば、近隣に建つ予定のマンションなどの仕事も入ってくるだろうと、社長が張り切っている仕事。光希がいるから、短期仕上げの必要な仕事もうまく回せるようになるだろうと奥さんもいっていた。

「もう、戻るつもりはないってことね」

資格のない光希のために、自動車免許から取らせたらと、集めたパンフレットを紙ごみに捨てる奥さんは一つだけ、大きなため息をつくといつもの明るい表情に戻った。

「新規の現場の人出が足りないから、求人募集かけなきゃ。美鈴ちゃん、光希君の片付けしといてね」

「はい」

人を傷つけないための言葉を私は嘘とは言わない。新品で渡した作業着の膝の布が薄くなっている。これだけの時間と労力を光希はこの仕事にかけてくれていたのだ。



帰ってくると、テーブルの上に置かれたスペアキーは郵便受けの中に入っていた。夕べクシャクシャになったベッドは整えられて、昨夜のことが夢の中の出来事のように思えたけれど、事務所の光希のロッカーを片付けたのは自分だ。いつも通りの簡単な夕食をとるとスマホに光希から連絡があった。

―美鈴、昨日はありがとう泊めてくれて

―うん

―今日さ、仕事を探していたら、寮付の仕事が見つかって今日から働けないかって

……あっハイ。

―じゃあ。また連絡する

―うん

もう、ここで別れたのかと思っていた。事実そうだったのかもしれない。

シャワーを浴びてベッドに潜ると、少しだけ光希の匂いがした。


唯一の休みの日曜日は、一通りの家事を済ませると、ベッドのなかでインターネットの動画を見るのが楽しみだ。再生栽培、リボべジというらしい。ネギやサニーレタス、小松菜に大根などの根菜類まで、植物たちの再生力は実に多岐に渡って逞しい。定点カメラを利用した撮影動画に、刈り取られてもしたたかに生きる植物の命の強さを感じた。

あっという間に東側の窓はリボべジ置き場に変わった。

光希は数週間に一度くらい連絡をくれる。

―今日そっちいってもいい?

というラインに、

―待ってるね

と返すのは、月曜か水曜が多い。どうやら、新しい勤務先は平日休みのようだったけれど、何の仕事をしているのか、どこに住んでいるのかなんて聞ける勇気はなかった。光希が職場を辞めてから、どうしようもない触れてはいけないような壁があるような気がしている。薄いシャボン玉みたいな膜。触れたら弾けて飛んで行ってしまう。

―ごはんどうする?

と聞くと、

―お土産買ってくよ

と返事があった。いつも見たことのない料理を抱えて光希は訪ねてきた。

「シンガポールの屋台料理なんだって。こっちはケーキ」

「開けてもいい?」

と聞くと、楽しそうに

「一緒に開いてみよう」

といった。並んだひよこの形のケーキが二羽。一羽はしっかりと立っていて、もう一羽は少し崩れて泣き顔のように歪んでしまっていた。

「残念。ピコピコチャレンジ失敗だな」

「ピコピコチャレンジ?」

と聞くと、光希はTwitterの写真を見せた。どうやら、ひよこの原型をいかに崩さずに持って帰るのかというゲームが流行っているらしい。

お土産を食べていると、二、三口食べたら光希は食べるのを辞めてしまう。

「美鈴のために買ってきたんだから、美鈴が食えばいいよ」

といって、スマホを興味なさそうにいじくっている。私が知らない食べ物を光希が知ってくるのと一緒で、光希の格好も私の知らないものになっていった。ロゴの入ったTシャツも、ピタッとしたパンツも、ふいに漂う香水の匂い、増えていくピアスに、指輪、ブレスレット。私は何一つ光希の今を知らない。でも、今確かにこの空間に光希はここにいるんだ。ひよこを二羽分遠慮なく食い尽くし一息つき終わると、一オクターブ低い声を響かせて

「美鈴、シャワー浴びてきなよ」

と光希が囁いた。

目を閉じると相変わらず自由に泳ぐシロイルカは、もう水族館の水槽の閉じられた空間にはいなかった。遊び過ぎてしまったのかどこまでも沖に来てしまった。こんなにも自由なのに、こんなにも満たされているのに、寂しく思うのはなぜ何だろう。

「明日の出勤の邪魔になるから、帰るよ」

と、衣擦れの音をさせる光希の声を寝ているふりをしてやりすごすと、玄関のポストにカシャリと鍵の落ちる音が響いた。




仕事から帰ってくると、ポストに一枚のチラシが入っていた。

―大和木曾田マンション412号室 定価値下げ1150万円

フルリノベーション済!日当たり良好!


2色刷りの安っぽい広告に貼られたマンションの外観はいかにも昭和の団地というような、レトロな雰囲気を醸し出していた。


チラシは、野菜くずを捨てたり、ゴミ袋の目隠しに使えるのでまとめてとっている。

キッチンにとりあえずチラシを置いておくと、玄関の扉から控えめなノック音がした。

「光希、お帰り」

何週間ぶりだろうか、他に家がある飼い猫でももうちょっと顔を出すだろうというぐらいに久方ぶりに見た。

狭いアパートの廊下で、背中を丸めるようにしゃがみ込む光希。

「最近、仕事が忙しくって中々来れなかったんだ」

と光希は笑いながら、ビニール袋を差し出した。中身はお寿司に、唐揚げ、ローストビーフの乗ったサラダ。もう一つの袋には缶チューハイに、ジュース。

「すごいね。お誕生日みたい。すぐに食べる?」

自然と頬が緩んでいたのが自分でもわかった。

「いや、あとでいいよ」

と、光希が答えたので、生ものと、光希のビール、私のアルコール度数の低い飲み物をなんとかしまおうと備え付けの小さな冷蔵庫に出したり入れたり格闘する。

光希は、久しぶりに来た狭い台所に増えた野菜たちを手に取って眺めている。ペットボトルに刺さった水耕ネギや、サニーレタスだ。

「これは何?」

鶏肉の入っていたトレイに、緩衝材の発泡スチロールが置いてある。キッチンの窓の一番光の当たる特等席にいるのは、

「二十日大根だよ。ラディッシュっていえばわかるかな?」

「そうなんだ。育ててるの?」

「うん。野菜の種から育てるのは初めてなんだ。上手く育つかな?」

答えの代わりに、二十日大根のトレイを元の位置に戻しながら光希は台所に背を向けた。

一人だと、電気代が勿体なくて、夕日が沈むまで照明を点けなかったのに気が付いた。西日の強いベランダのカーテンは閉めっぱなしだけれど、薄いカーテン越しの明かりでも狭い部屋の中では不自由はしない。冷蔵庫を閉じて、立ち上がった拍子に部屋の電気を点けようと空中を探った手首を、光希の大きな手がつかんだ。反射的に体の中が電流を通ったようにビクリとしてしまう。その直後に意識的に体の力を抜いた。私の背中をもう一方の大きな手が支えて床に倒された。固いフローリングに当たった首の後ろがヒヤリとする。私は目を閉じた。これから始まる儀式を思い出して、体に原始の時代に遡ったかのような不思議な感覚を纏う。それから、どのくらいたったのだろう………。何も起こらない。おそるおそる目を開けると、能面のような表情で私を見下ろしている光希の顔があった。これは一体何の前兆なのか?静寂に耐えられず、かすれた声が喉から漏れた。

「光希…?」

私の声が届いたのか、光希の顔がくしゃっと歪んだ。見慣れた笑顔ではなかった。新聞紙をくしゃっとしたような苦い顔。

「無理だ……」

掴まれた手首に包まれた手が、背中を包んでいた大きな手がスルリと私の体から離れた。何が、無理なんだろう…って経験のない私にもわかった。シャボン玉は、弾けて飛んだのだ。それでも光希は誠実だった。

「清掃屋の荒くれもののなかで凛とした自分を見失わない美鈴が好きだった…」

くしゃくしゃの表情は俯いて逆光のなかでよくわからなくなった。ふいに頬に水滴が落ちてきた。顔は見えないのに、光希の気持ちはよくわかった。あぁ私…いまから失うんだ。

「でも…美鈴といると、いつも自分がちっぽけでガキっぽい完璧じゃないヤツに思えて仕方がないんだ…」

私を覆っていた影は、静かに立ち上がり、玄関の扉から出て行った。

薄い扉が閉まる音で、襟首を掴まれたように現実に引き戻された。

あぁ私は今、光希という男を失ったのだ。永遠に、もう帰ってこない。

頬に流れた水滴がすっかり乾いて消えるまで時計の針が止まったかのように動けなかった。

ネタかと思われるほど散々な振られ方をして粉々になった私の心に、不思議と目から湧き出る水は流れなかった。

失恋すると、泣くものではないのだろうか…

むしろカラカラに乾いた私の目に、ぼんやりと捉えられたのはキッチンに置き去りになったチラシだった。



―大和木曾田マンション401号室定価値下げ1150万円

フルリノベーション済!日当たり良好!


2色刷りの安っぽい広告に貼られたマンションの外観はいかにも昭和の団地というような、レトロな雰囲気を醸し出す。


薄暗い部屋には、私がトレーで育てた二十日大根、豆苗、ペットボトルに刺されたネギや、レタスたちが息を潜めていた。

ここに生きてるのに…

しかも食べられるし、緑があるっていいじゃない

シングルベッドで絡みながら二人で眠った夜はいつだっただろう

重なり合った肌のぬくもりはもうそこにはなかった

ずるずると重たい体を、脱ぎ捨てるように、ぬるりと立ち上がり、自転車にまたがった。

流れる景色は見慣れてきるのに、いつまでたっても私の肌に馴染まないのはなぜ何だろう。

子ども部屋にいたころのふわふわとした安心感や、いつまでもここにいてもいいんだっていう安堵感はどこにいってしまったのだろう。

この薄い壁の、狭いアパートにもう何か月も住んでいるのに私の家だって感じない。

私の家はどこだろう。

自転車は吸い寄せられるように団地の前に着いた。

マンションの前庭には丁寧に刈り込みがされた緑が生き生きとしている。手作りのプレートが一つ一つの植栽に名前を示していた。

ツツジ、コデマリ、カエデ、サクラにノイバラ。

行儀よく植栽された奥には、小さな公園が備えられている。さび付いたブランコの前の鉄柵に団地の子どもたちが腰掛けて話をしている。

隣の鉄棒では小さな子どもがおばあちゃんと逆上がりの練習をしている。

見上げたマンションの角の部屋。一つだけベランダに洗濯物が干されていないその部屋が、ぽぅっと明るく光って見えた。夕日のような穏やかな光。

「帰ろう…」

一人ごちると、クシャクシャになったチラシの連絡先に電話を掛けた。


「マンション買ったの?」

引っ越しの報告に寄った実家には、里帰りしている姉がいた。

「そうだよ。どうせ何年も支払うんだから、自分のものにしたほうが月々の家賃として考えると安く済むし」

「駅近のマンションとかなら、いざというときに投資用マンションとかになるっていうものね」

慣れた様子で孫をあやす母。

「駅からは離れているかな…会社には自転車で通えるけど」

「あぁ。ディベロッパー開発のマンションだろ?あの辺にショッピングモールができるって話を聞いたよ」

最近料理教室に通い始めた父がキッチンでビーフシチューを作っている。

「あっちの方向じゃないよ。川沿いの古いファミリータイプのマンション。大きな南向きのベランダがついてたから気に入って」

と、グーグルマップで外観を調べて見せると、三人の表情が変わった。

「そうなの。じゃあ、一回みんなで新居祝いに行かなきゃね」

三人は目くばせをしながら、その話は一旦切り上げよの合図をしていた。


「美鈴。いるか」

予定時刻ちょうどに鳴らされたインターフォンを確認すると、両手に寿司桶とパンパンに膨らんだビニール袋を抱えた母と、両手にサンセベリアとモンステラの鉢を抱えた父が張り付けたような笑顔で映っている。マンションはちょうど南北に位置している間取りなので、玄関は北向きで薄暗い。扉を開くと、廊下の電気を点けた。玄関からリビングに続く廊下には左右に部屋が二つと、トイレ、バスが続いている。両親はそれらの扉を開けたり閉めたりしながら荷物のないガランとした部屋や物置に

「中は何にもないんだな」

とか

「でも全面リフォームなのね。部屋も多いし」

引っ越してまだ一度も湯を張ったことのない浴槽に感想を述べていた。

廊下を過ぎたリビングを開くと前方向は大きな窓で採光が取られている。

「すごく広いリビングだな。窓も大きくて明るい」

「そうね。それにしても…何もないわね」

最初の両親の感想が反転して漏れた声が、何もない空間に響いて消えた。

「この部屋しか使っていないから」

と、リビング横の引き戸を開けた。そこだけが、和室になっているので、布団を敷き寝起きしているのだ。4畳半ほどの小さな和室に、コタツにもなるローテーブルと、ベッドライトが置いてある。テーブルの上に高校生から使っているノートパソコン、ほかの洋服や鞄などは和室についている押し入れに収納している。

「冷蔵庫も洗濯機も買わなきゃって思っていたんだけど、配送とか考えたら先延ばしになっちゃって…」

と、コタツからパソコンをどかし和室の中央に置いた。父の手に抱えられた鉢を

「ありがとう」

といって日当たりのいいリビングの窓際に置き、母の手に抱えられたビニール袋を

「ありがとう」

といってローテーブルの上に中身を乗せていった。寿司桶に、唐揚げがメインのオードブル。生ものを食べるのは引っ越して以来だ。炊飯器すらないので、おにぎりばかり食べていた。うきうきとしながら、もう一つのビニール袋の中の缶のアルコールや、ペットボトルを出した。そこまで出して

「コップ、うちに一個しかないわ」

と気が付いた。ペットボトルのお茶は2Lだったのだ。

「玄関ホールに自販機あるから買ってくる。二人とも先に食べててもいいよ。家を見て回ってもいいし」

自分の部屋のある棟にはエレベーターが付いていないので、ここに越して以来階段を上り下りして移動をしている。中央にある玄関ホールまで行き来する時間も合わせて、結構な時間を要して自販機で調達して部屋に戻ると、和室の仕切りが閉められていた。

「どうしたの?閉め切って」

と、仕切りを開くとまるでお通夜のように固まった表情で正座をする母と、胡坐で鎮座する父がいた。オードブルや寿司桶のラップは掛けられたままだ。しばらくの沈黙があった後、張り詰めた空気に父が声をひっくり返しながら

「ここは、カーテンもないから、人目が気になってね。ほら、すごく見晴らしがいいだろう?」

といった。私はベランダに出ると、

「このベランダが気に入ったの。角部屋だから東向きの小さなテラスも付いているし」

とついでに窓を開けた。階下から遠く子どもたちのにぎやかな声が部屋の中に届いた。人目が気になるというので、仕切りで上手く二人のいる位置を隠しながら、私はテーブルの上にある寿司桶のラップを外していった。取り皿が必要だと、キッチンのシンクの下から、発泡スチロールのトレイを出した。引っ越して以来、これが私の皿代わりになっている。

「いただきます」

と、皿に醤油を垂らし、寿司を頬張る私を二人はぼんやりとみていた。米粒でもついているのだろうか?とまた不穏な空気がよぎった。

「お父さんも食べたら、好きでしょイカ。お母さんもエビ食べようよ」

というと、

「あぁ。いただきます」

と父はいわれるがまま、いかをつまみ目の前にあったトレイに移した。母は、トレイを手にしたまま、視線を空中に彷徨わせていた。そんな母に掛ける言葉も見つからないまま目の前の寿司を次々と黙々と私と父は口に運んだ。

「…して?」

「えっ」

「どうしてなの?」

母の取り皿にはまだ一つの寿司も載っていない。そして母の表情も見たことのないほど無表情だった。

「母さん…」

「美鈴もお姉ちゃんも、お兄ちゃんも同じように育てたのに」

「母さん!」

「どうして美鈴だけいつも違うものを選ぶの!」

「お母さん…どういう意味?」

「美鈴、こんな風に生きていたらいつまでも独りよ。未来はどうするの!」

「母さん、やめなさい。」

父は、母の手をトレイごと降ろすと、一瞬母は傷ついたような顔をして私を見た。何を応えて欲しかったのか。でも私には…

「ごめんなさい。お母さん。変なことを…」

「あぁ。美鈴…悪かったな。折角の日に。今日は帰るよ。また近いうちに家に帰ってきてくれ。」

玄関まで両親を見送ると、和室に戻り、残った寿司桶を見た。まだ生ものが残っている。食べなきゃ。痛んじゃう。

独りが何だっていうんだ、人間はたった一人で生まれてきたんだ

未来が何だっていうんだ、私は今を生きているんだ

口の中に広がるのは生臭く感じるだけの寿司の味を噛み締めながら

その日初めて私は泣いた

たった一人だった

がらんどうのベランダに100均で買ってきたプランターがある

あの薄っぺらい部屋から持ってきた唯一の荷物が二十日大根だ

スポンジの中からふよふよと生えてきた小さな芽を見捨てることが出来ずに連れてきた

一か月もたたないうちにこのプランターいっぱいの二十日大根がワサワサと勢いよく生えてくるだろう


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