ダック=ウエルター トロント市民 の証言
あの日の出来事ですか。ええ、とてもよく覚えていますよ。忘れるはずがないじゃありませんか。
あの日、私は彼女とのデートを楽しんでいたんです。
CNタワーはご存知ですか? そうです、トロントを代表する観光名所です。
あの日はね、付き合って九ヶ月の記念日でした。懐に指輪を忍ばせ、展望台で彼女にプロポーズをしようと考えていたのです。
喫茶店でお茶を楽しみ、いよいよプロポーズのためにタワーへ移動する途中の地下鉄の中で、私はあいつと遭遇しました。
他愛のない会話を楽しんでいたんですよ、直前までね。今度家に遊びに行ったときにどんな料理を作ろうかとか、セックスでどういう体位がお気に入りなのだとか。
今思えば地下鉄でするような話ではないようなものも多かったです。でも、逆にそれは当時がどれほど平和だったのか、分かりやすいと思いませんか?
……すみません、少々話が脱線しました。
それでですね、降りる駅まであと少し、というところでヤツは出たんです。
また話が脱線してしまいますが、許してくださいね。
今思えば、確かにあの日は少し様子がおかしかった。水道や配管のトラブルが多かったし、地下鉄にもかなりの遅延が出ていた。
でも、周りも彼女も特に気にしていませんでしたよ。だからなんだ、ここは日本じゃないんだぞって具合でね。
あの当時の日本は本当にすごかった。地下鉄、というよりは公共交通機関が時間ピッタリに到着して、時間感覚が完璧に計算されていて。
まぁ、何が言いたいかというと、多少の遅れは気にならなかったんですね。
私も、どういう風に彼女にプロポーズしようか必死に考えていましたから、そんな些事を気にする余裕なんて無かったんですよ。
それに、考えてもみてください。
ホロゥなんてものがいるなど想像できるはずもない時代に、地下で何か異常が起きていると理解したとして、「地下に何かいるから今日は地下鉄を使うのをやめよう」なんて言ったらどうなるか。
その瞬間、私の目的地はCNタワーから総合病院に変更になっていたでしょうね。
そんなわけで地下鉄に乗ってあと少しで駅って時だったんですよ。
今夜のテレビの話をしていたら、突然車両が大きく揺れたんです。金属質な異音も響いたので、電車が何か線路に落ちていた機材でも撥ねたんだろうと思いました。
倒れかけた彼女を支えて、私は近くにいた男性に何が起きたか聞いてみたんです。
でも、当たり前ですけどその男性も何も知らなくて、「メイラー※1でも轢いたんじゃないか?」って冗談っぽく言うんです。
私も彼女も、周囲の乗客も笑っていたんですけど、彼はほとんど正しかった。実際に出たのはメイラーみたいな大人しくて優しい存在ではなく、凶暴で邪悪な化け物でしたが。
しばらくすると、前の車両から重いものが落ちる音が聞こえて、黒板をひっかいたような気持ち悪い甲高い奇声と人の悲鳴が聞こえてきたんです。
そして、何事かと身構えた私たちの前に、連結扉を切り裂いてヤツが姿を見せました。
血に濡れた鎌の先端に若い女性の頭を突き刺して、首を傾げるような動作で私たちを睨めつけてくるような挙動のホロゥ。
ご存知でしょう? それが、人類が最初に遭遇したホロゥ……カマキリ型のタイプマンティスでした。
私たちの前に出てきたのは小型でしたが、それでも私の彼女と同じくらいの大きさでしたから……そうですね、百六十後半はあったんじゃないでしょうか。
もし人間とカマキリが同じサイズなら、なんて話はよく聞きましたが、まさかそれが実際のものになるとは。
そんなものがいるなんて思いもしませんから、私たちは映画の撮影だと思ったんです。
小さな子供がマンティスに近付いて、そして首を切断されたことでようやくこれが現実だと気づきました。
マンティスが暴れて、近くの何もかもを切り裂いて、そして電気系統か何かを切ったんでしょうね。車内が停電して全てのドアが一斉に開いたんです。
私は、どうしてあんな行動を取れたのか今でも分かりません。
気づけば、私は彼女を抱きかかえて暗闇の地下通路に飛びだしていました。
乗客たちは後ろの車両に逃げて、マンティスは乗客たちを追いかけていったので私たちは見逃されました。
でも、あんな化け物が他にもいるかもしれないと思えば恐怖で、スマホのライトを点けるのはとても怖かったですよ。
でも、意を決してライトを点け、彼女の手を引いてとにかく逃げました。
恐怖で震えて動きにくくなっていた彼女に、極限状態だった私は苛立ちさえ覚えました。ですが、今思えばバカな苛立ちだと反省しています。
こういう負い目もあってか、今でも妻には頭が上がらないんですよ。
――その写真の方が、あなたの奥さんで話に出てきた彼女さんなんですね。
そうなんですよ。私たちは無事に生き延びられたんです。……同じ車両にいたあの男性たちはどうなったか分かりませんけど。
とにかく私たちは必死に逃げて、そして気づけばいつの間にか隣のオシャワにいたんです。どこをどうやって走ったのか、よく体力が保ったものだと褒めてやりたいですよ。
オシャワは無事で、トロントで起きていることなど知らない人たちがいつも通りの生活をしていました。
それが感動的で、私も彼女も抱き合って涙を流したんです。周りからみるとおかしなカップルだったでしょうね。
その後、トロントの惨状を知って、カウンセリングを受けるようになった彼女を放ってはおけなくて、きちんとしたプロポーズはなしに籍を入れたんです。
……私が話せるのは、このくらいですかね。幸運なことに、私がホロゥと遭遇したのはこの一件だけですから。
こんな定年間近の老骨の話を聞いてくれてありがとうございました。何かの役に立つことができたのなら、私も妻も怖い思いをしたかいがあるというものです。
※1・当時ハリウッドで製作の映画『ギャラクシートラベラー』に登場する、銀色の体をした宇宙生物。
(中央議会検閲済み)
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