第17話 記憶喪失のカラス、焦燥する
「ずいぶん時間がかかったわねー」
客席後方の関係者席に戻ると、麗子はスマホをいじりながら何やら上の空だった。
俺が隣に腰掛けても視線を上げることもない。
「進行を遅らせるよう小細工してたもんでな。気持ちを切り替えるまでの時間稼ぎにはなっただろうさ」
「優しいわね。あの子のマネージャーでもないのに」
「彼女にも言われた。なんでそんなに優しくするのかって。たしかに、やりすぎてる自覚はある。でもなぜだか……」
「気になってしまう?」
「あぁ」
記憶喪失で右も左もわからす、ただ手渡された自分の役割をこなしてきた。
そこには野望もなく無気力だった。虚無を忘れるための都合のいい言い訳にした。
なのに、いま知らない熱を感じている。
何かに突き動かされるような使命感が体中を唸っている。
「今日の彼女はなんだか様子が変だ。本番前はそんな素振りがなかったのに、ステージに立って突然……」
「舞台の魔物に喰われた。というより、トラウマが発動したって感じかしらね」
「は?」
素知らぬ顔で社長は言うので俺は聞き返す。
「トラウマって、何の……」
その問いをかき消す形で、会場が暗くなる。進行役がステージに上って観衆に呼びかけた。
『皆さま大変長らくお待たせしました!えー、色々あって時間も押しておりますので、さっそく小さなスターたちを呼び込みたいと思います!』
BGMが大きくなり、客席から拍手が送られる。アイドルの卵たちが思い思いに手を振ったりお辞儀をしながら登場する。
最後に羽山すずが現れる。
頬に涙の後はなく、胸の前で謙虚に手を振っている。
ひとまず俺はほっと胸を撫で下ろした。
「あの子ね、別にあがり症ってわけではないのよ」
安心したそばから麗子の低い声がどすんと腹に響いてゾッとする。
ステージの進行がマイクを通していようが、神の声を打ち消すことない。
「小学生でいくつもレッスンを掛け持ち。中学にあがると強豪ダンス部に所属。でも、家の都合でなかなか練習に出れず仕舞い。最後の大会にはなんとか出場が叶ったけれど、その結果はけっして芳しいものではなく、努力は結実することなく3年間を終えた」
「……なんだよ。まるで見てきたようなことを言うじゃないか」
「まるでじゃないわ。"視た"のよ」
人間の目じゃない眼が物語る。
それは鳥瞰。客観的にすべてを見渡す御業だ。
「全知全能とはいかないまでも、神である私のコネと権能があれば、人ひとりの個人情報くらい、まして女の子なら内面まで理解できるわ。専門は恋愛なんだけど、まぁ愛は応用がきくのよ。本当、私みたいな才色兼備は罪深いわよね」
「……こんな時に何が言いたいんだ。悪いが簡潔に言ってくれ」
まどろっこしい物言いに、俺はイラつき始める。
もうすぐ投票が始まる。今はそちらに集中したいところなのに、態とらしく、女神は悠々と戯れる。
「貴方って昔からからかい甲斐のある顔よね。人相は変わっても、中身はやっぱり貴方なのよ。だからついつい楽しくなってきてしまうのよねぇ」
「なんだよそれ」
「ふふん。でもまぁそうね。これ以上先延ばしにしたって出るものは何もないし……頃合いか。じゃあね、ハッキリいいましょう。今のあの子、羽山すずにアイドルになる資格はないわ。残念なことにね」
笑えない冗談だった。
本心とは思えない虚偽に満ちた瞳。
しかしそれを否定するほど自分に力はなく、言葉を失ってしまう。
「……ワケを話せよ」
「うん。まぁひとえにね、あの子は心が小鳥のままなの。小心者って言ったら聞こえが悪いけど、圧倒的にあの子に欠けてるのは音に対する耐性。動体視力がいいのも悪い方に働いてるわね。極度に感覚が研ぎ澄まされて敏感になりすぎてるのよ」
「……耐性って……まさか、この会場全体の音の?」
「音楽はまず問題ないわ。でなければ、歌すら歌えていないはずだもの。要は大勢の声の重なり、うねりとも言えるかしら」
そう言って、神の指が格子を作ってステージ上の赤色の少女を切り取る。
世界から隔絶された摘みたての林檎を吟味して、酸味に当たったみたいに麗子は舌を出しておどけてみせた。
「もしかしたら、彼女にとってオーディエンスは味方ではなくて、何か別の生き物にでも見えているのかもしれないわねぇ」
その時、会場の照明がズズズっと絞られて小さくなる。
暗闇に浮かび上がるステージ。そこにアイドルを夢見る少女たちが横並びになっている。
『ナナ、モモコ、ヒカル、ユリ、スズ。心の準備はいいでしょうか?それでは皆さん!ペンライトを掲げてください!』
司会の掛け声で客席がにわかに明るくなった。
青い光。海原の乱反射みたいに、波打つペンライトが世界を圧倒する。
『カウント!スタッフが只今カウントしております!皆さん、私がいいと言うまで降ろさないでください!』
もはや数える必要があるのか。
最初からわかりきっていた。虎狛ナナは決まりだ。あとは他の色。それだけが気がかりだった。
「羽山の赤……おい、赤は……赤あげてる奴もっと自己主張しろよ……」
どんなに目を凝らしても、彼女の色が見当たらなかった。
そんなわけがあるか。失敗はあったかもしれないか、彼女を推す奴がひとりもいないなんて。嘘だ。絶対にありえない。
「三郎」
俺の肩に指がかかる。ずっと一緒に働いてきたが、ついぞここまで黄色のネイルに花があしらわれてるのに気がつかなかった。
「すべて決したわ。すべて終わったのよ」
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