第四十七話 「天才」

 同日、帰り道。

 茜色が照り映える通学路。思考を巡らせながらぼんやりと歩く彼女を、同じ高校の生徒達が追い抜いていく。

 彼女――門田永美は鞄から携帯端末を取り出し、両耳にイヤホンを装着した。


 歩道の片隅で足を止め、瞼を閉じる。暗闇の中で静かなピアノの音が広がっていく。周囲の喧騒から離れ、余計な思考が浄化され、自分の世界だけが切り取られていく感覚。好きなクラシック音楽を聴いている間だけは誰にも邪魔されなかった。



 改札をくぐり抜け、階段を上がる。ホームに辿り着くと丁度電車が来ていたので、慌てて乗車した。

 ドアが閉まると同時に、車内の女子学生二人と視線が合う。どこかで見覚えがある顔だと思った。数秒ほど考えを巡らせたところで、クラスメイトの女子二人だと認識する。


 「あ、門田さん」彼女達は永美に軽く会釈すると、再び自分達の会話へと戻っていった。

 電車が動き出す。彼女は吊り革を握りながら、バイオリンの音色に集中した。ふと先日の満咲との口論が脳裏を過ぎったが、頭を左右に振ることで雑念の排除に成功する。

 イヤホンから流れる音楽は長調から短調へ。透明な窓ガラスには彼女の姿の他、クラスメイト二人の背中も映っていた。


 「でも、門田さんのあの長台詞、本当に凄いよね」

 「分かる、流石『天才』って感じ。この前の全国模試も順位一桁だったんでしょ」


 小声で会話している筈なのに、聞こえてくる。

 彼女はイヤホンの音量を上げた。


 「なんか住む世界違うって感じ」「ちょっと話しかけ辛いよね」

 イヤホンの音量を上げる。


 「ていうか、いつも『実験』って言ってるけど何なんだろうね」「正直、ちょっと変だよね」

 「ちょっと美人だからっていつも男子からチヤホヤされて」

 イヤホンの音量を上げる。


 「最近ずっと一人だよね」「友達に見限られたんじゃないの?」

 「「アハハハハハ」」


 吊り革を握り締める右手に力が籠る。

 電車がゴトン、と強く揺れる。電車の窓ガラスには孤独な女子高生の姿が映っていた。


 (私は負けない。私は屈しない。私は……)


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第四十七話 「天才」

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 クラス委員長、前原まえはらすずの悪態は今日に始まった事ではなかった。


 《門田さん、劇の練習サボって何処行ってたのよ》

 《いつも女王様気取りでいいご身分よね。ちょっと頭が良いからって調子に乗らないで貰える?》


 「天才」という言葉が重苦しかった。それは彼女を周囲から遠ざける言葉。

 周囲は門田永美という人間にレッテルを貼り、彼女から遠ざかっていく。


 孤独の恐怖を押し殺して明るく振る舞う日々は、息が苦しかった。


 《辛かったね》

 《僕が全部、受け止めてあげるから》


 堀口優は、そんな彼女にとっての心の拠り所だった。

 彼だけが唯一、彼女の孤独を理解してくれたから。


 しかし、幸せな日々はある日突然終わりを迎えてしまう。


 《僕はあの子と一緒にいくんだ》


 別れの間際、彼は彼女にある事を打ち明けた。

 それは、彼自身の秘密だった。

 人間の負の感情が目に映ってしまうこと。誰もが化け物ばかりに見える世界の中で、化け物にならない人間を探していたこと。

 以前から自殺願望があったけれど、それは「愛する人と共に死にたい」という歪んだものであったこと。


 《僕はね、本当の愛を探しているんだ》

 《僕の世界は生まれつき化け物ばかりだった》

 《んだ。表面上は笑っていても、負の感情があれば黒い仮面みたいなものが表情に張りついて見える》

 《はは。僕って不気味でしょ?》


 それは荒唐無稽で、永美は彼が自分に嘘を吐いているのだと思った。

 ただ自分を試すために、彼が嘘を吐いているに過ぎないのだと思った。


 だから彼女は、彼のことを嫌いになれなかった。



 それから数日後。堀口優が原因不明の怪死を遂げたというニュースを目にした時、彼女は膝から崩れ落ちた。その後も同じようにして二人が原因不明の不審死に見舞われたことを、父親達から聞いた。

 同じような事故死が偶然に立て続けて起こるなんて有り得る筈がない。すなわち、これは自然発生的な事故ではない。

 堀口優は唯一彼女の孤独を理解してくれた人間だった。そんな彼を奪った犯人を、彼女は赦すことが出来なかった。例えそれが神であったとしても、彼女はそんな理不尽な神を許すことが出来なかった。


 《君の大切なお友達が、人殺しかもしれないんだ》


 父親と捜査を共にしているある刑事からその事実を聞いた瞬間、彼女は絶望した。

 けれど、否定の為の論理を組み立てようとすればする程、仮説は綻び、破綻していく。


 《花、満咲。少し話があるのだけど》


 理解していたはずだった。


 《永美、あんた何言って》

 《どういうことなの……永美ちゃん》

 《違うの! 私はただ、そうかもしれないって可能性の話をしただけで》


 彼を失った今、彼女のことを理解してくれる人間など何処にもいなくなってしまったというのに。


 《未玖はあの時、あの男から私を庇ってくれたんだ!》

 《あんなにボロボロになって、自分が殺されるかもしれないっていうのに》

 《何度も。何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も!》


 夏目満咲の流した涙が彼女の脳裏に焼き付いて離れない。

 神崎花の絶望する顔が彼女の脳裏に焼き付いて離れない。


 《どうして……どうして、信じてあげられないの》


 門田永美は初めから、孤独だった。


 《未玖がそんな事するはずないのに!》

 《でも、情況証拠から考えればこれは妥当な推論だと思うけど?》


 心が泣きたいと叫ぶのを押し殺して笑う日々は、息が苦しかった。

 孤独の恐怖を押し殺して明るく振る舞う日々は、息が苦しかった。


 《ああ、そうか。永美ちゃんは未玖のこと、友達だと思ってなかったんだね》

 《そ、そんなわけ……っ》

 《永美ちゃんみたいに『天才』になっちゃうと、そんな風に考えるんだ》


 「天才」という言葉が重苦しかった。


 《この嘘吐き》


 それは周囲から彼女を遠ざける言葉。


 《上辺だけの、嘘吐き野郎》


 周囲は門田永美という人間にレッテルを貼り、彼女から遠ざかっていく。



 「何であんな事言ってしまったのかしらね」


 電車が駅に停車し、ガタンと一際大きく揺れる。

 ドアが開き、ぞろぞろと人が降りていく。振り返れば、先程のクラスメイト二人の姿も無くなっていた。


 《私がきっと、満咲を説得してみせるからさ!》


 ふと、蒲田未玖連続殺人犯の笑顔が脳裏を過ぎる。


 駅のホームに軽やかな電子音が鳴る。慌てて駆け込んできた親子が「間に合ったね」と息も絶え絶えに笑い合っていた。

 発車ベルが鳴り響く。けたたましい音に紛れて、項垂れた彼女は小さく掠れた声を零した。


 「私だって、未玖のことは好きなのに」


 ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。人の少なくなった車内はガランとしていたけれど、彼女は依然として立ち続けていた。

 握り締めた吊り革がキィ、と乾いた音を立てる。


 「仲直り、したいなあ」


 そしてもう一度、何も知らなかったあの平和な日常に戻れたなら。

 決して叶う事のない願望を心中で唱えながら、門田永美は自嘲気味に口角を持ち上げるのだった。


 窓の外の景色が目まぐるしく移り変わっていく。見慣れた景色が過ぎる度、友人達とふざけ合った帰り道を思い出す。やがて電車は真っ暗なトンネルに吸い込まれていった。

 一人だけ窓ガラスに映った女子高生は、失った日々を想い、静かに唇を噛み締めた。

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