第四十八話 気付かなければよかった

 翌日、放課後。

 文化祭も間近に迫った今日、授業が終われば校舎内の至る所で準備に励む生徒達の姿があった。


 中庭に木の葉が舞い落ちる。赤や橙に色付いた樹の下、門田永美はベンチに座りぼんやりと空を眺めていた。

 休憩中くらい、こうして一人で過ごす方が気が楽だった。

 高い空には薄く雲が伸びていて、風に合わせてゆったりと流れていく。両耳にイヤホンをはめて好きな音楽を流せば、周囲の喧騒から自分だけの世界が切り取られていった。ベンチの背もたれに寄り掛かったところで、ふと、視界の端にとある人物の姿が映る。


 (未玖……)


 風が吹き、落ち葉の擦れる音が響く。

 視界の端に映った彼女は大袈裟に驚いてから、小動物を思わせる仕草でタタっとこちらに駆けて来た。


 (どうして、私なんかのところに)


 胸の奥が痒くなり、思わず奥歯を噛み締める。

 その理由に、彼女自身気が付いてはいなかった。


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第四十八話 気付かなければよかった

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 木陰のベンチに並ぶ女子生徒が二人。右端に置かれた四人分の紙パック飲料から透明な雫が流れ落ち、木板に染み込んでいく。

 イチョウの葉がベンチの上に落ちる。後ろの方から、他学年の生徒達の戯れる声が聞こえてきた。


 「永美のジュリエットは流石だね」


 隣に座った彼女が笑うので、永美は曖昧に笑い返した。


 「そんなことないわよ。何で花が演じないのか疑問ね」

 「花は永美が演じるのを想定してこの長台詞にしたって言ってたよ。このは永美にしか出来ないだろうって」

 「それはどういうことかしら」

 「あはは。きっと、期待してるってことなんじゃないかな。クラス一の秀才、我らが永美は何でも出来る『天才』だからって」

 「……『天才』ね」


 視線を落とすと、白い上履きの上に赤い紅葉が落ちていた。落ち葉を手で振り払ってから静かに溜息を一つ。再びベンチの背もたれに体重を預け頭上を見上げると、先程まで浮かんでいた雲が無くなっていた。

 何も無い薄青の空が少しずつ黒く滲んでいく。中庭でふざけ合う生徒達の声が耳に纏わりつくようで煩かった。


 あのね、と弱々しい声がして、視線を隣に移すと、茶色の紙パック飲料を差し出す未玖の姿があった。


 「永美の分買って来たんだけど、い、要るかな」

 「…………」


 白い文字で珈琲牛乳と書かれた、掌サイズの小さな紙パック。奥には全く同じ飲料が三人分置いてあり、それらが誰の分かは容易に想像がついた。

 今回は自分の分も用意してくれたのだろう――そう思うと再び胸の奥がむず痒くなった。


 「ありがとう、未玖」


 そんな優しさでさえ疑る自分自身が情けなくて、差し出された飲料を受け取った彼女は視線を逸らし俯いた。



 膝の上に紙パックを置くと、制服のスカート越しに冷たい温度が伝わってきた。

 形容し難い幾つもの感情が、彼女の胸の中を渦巻いていく。何を話せばいいのか分からなくなった挙句、気がつけば永美は手元に抱えた飲料の成分表示を繰り返し眺めていた。


 ふと、右手に冷たい感触があった。

 誰かの手。すぐに、それが隣に座る蒲田未玖によるものだと分かった。


 《君の大切なお友達が、人殺しかもしれないんだ》


 以前自分に協力して欲しいと告げた刑事の言葉を思い出して、思わず息を呑む。

 彼女はハッとして反射的に手を振り払った。隣を見やると、申し訳なさそうに視線を泳がせる彼女の姿があった。


 「ご、ごめんなさい」


 永美は謝罪を告げてから、聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で「そんなはずないのにね」と零した。


 「私も驚かせてごめん。永美がその、辛そうにしてたから」

 「…………」

 「満咲と何があったのかは分からないけど、きっと何とかなるはずだよ。ね?」


 彼女は遠慮がちに告げてから、はは、と自信のなさそうな笑みを浮かべた。

 その笑顔を見ているうちに、また胸の痒みが増していく。


 《この嘘吐き》《上辺だけの、嘘吐き野郎》

 《未玖がそんな事するはずないのに!》


 あの時、夏目満咲が流していた涙の意味がようやく分かったような気がした。


 「だから私は、満咲にああ言われたのね」


 周囲の雑音がやけに煩かった。


 「こんな私だから、結局いつもひとりになってしまうのよね」


 自嘲気味に口角を吊り上げる。気がつけば、彼女の口からは乾いた笑い声が漏れていた。

 優しい友人に貰った飲料を両手で握り締める。掌の中が冷たくなっていく。足下を眺めていると、小さな蟻の行列が群れを成しているのが見えた。視線を少し移すと、後ろの方ではぐれた一匹が迷子になっていた。


 (結局、私は最初から)


 心の中に閉じ込めていたガラス瓶から感情が溢れ出していく。涙で視界が潤んだけれど、長い髪に隠れているからきっと見えないだろうと思った。

 冷たい秋風。すぐ側の樹が色付いた葉を落とし、黄色の葉は風に舞いながらひらりと二人の間に落ちていく。



 「ひとりじゃないよ、永美」


 その瞬間、周囲の雑音がピタリと止んだ。

 垂れていた首を僅かに持ち上げる。右隣を見やると、蒲田未玖は真剣な眼差しで言葉を続けた。


 「何か悩みがあるなら聞くから」

 「未玖……」

 「私はずっと、永美の隣にいるよ」


 ザア、と落ち葉の擦れる音がした。

 照れ臭そうに微笑む彼女の笑顔が眩し過ぎて、それが嘘を吐いている人間のものとは、ましてやそれが人を殺した人間のものとは思えなかった。


 (私の勘違いに決まっているはずなのに)


 カラスの鳴き声が響く。遠くの空に視線を移すと、夕空の雲に橙色が混じっていた。

 落ち葉がひらりと空を舞う。何の変哲もない風景が何故だか妙に懐かしくて、愛おしく感じた。


 「ありがとう、未玖」

 「私じゃ頼りないかもしれないけどさ。あはは……」

 「ふふ、本当ね。説得の件も大方、満咲に言いくるめられているのでしょう?」

 「ギク」

 「冗談よ。あなたが無理する必要なんて、どこにもないんだから」


 きっと、自分の勘違いに違いない――そう言い聞かせていくうちに、自ずと彼女の表情は緩やかに綻んでいく。

 冷え切った氷が融けていくような感覚。ピンと張っていた緊張の糸が嘘のようにスッと解れていく。


 取るに足らない他愛のない日常の中で、彼女は確かに永美の傍にいた。

 我儘に付き合ってくれる彼女の優しさに甘えて八つ当たりしてしまったこともある。愚痴を零したこともある。それでも蒲田未玖は嫌な顔をすることなく隣にいてくれた。


 (そうか。私の心の拠り所は)


 自分をひとりにしないという言葉の意味をようやく理解出来た気がして、久方振りに平穏な心を取り戻した彼女は情けなく笑い声を漏らした。

 気を抜くと涙が溢れてしまいそうだった。

 彼女は手元の紙パック飲料の飲み口を開き、ストローも使わずに勢いよく飲み干した。驚いたように隣の小動物が目を丸めていたので、彼女は意地悪そうにニヤリと笑ってみせた。


 「そこにある三つ含め、今日から未玖の差し入れは全部私が頂くわ」

 「ええっと、それはその」

 「何日したら私が太るか、今度は私自身で実験ね」

 「お願いだから。クラス中の男子が泣くから、やめてあげて」

 「そうなったら未玖が全責任を負いなさい」

 「ええ!」


 二つに結った栗色の髪がぴょん、と跳ねる。ココア色の瞳を左右に揺らしながら口をパクパクさせる姿は宛らリスかハムスターのようで、彼女は可笑しさに笑いを堪えることが出来なかった。


 (やっぱり私の勘違いに決まってる)


 だからもう、これで最後にしよう。

 両手の拳を強く握りしめる。彼女は瞳を閉じ、ゆっくりと深く息を吸った。


 掌が汗で滲んでいく。自分の呼吸の音だけに意識を集中させれば、余計な感情は次第に薄れていった。



 雨雲が空を覆い、ポツリ、ポツリと雨が降り始める。

 そろそろ行こっか、と立ち上がった未玖の背中に、彼女は恐る恐る声を掛けた。


 「ねえ、未玖。大事な話があるの」


 何、と聞き返す蒲田未玖の声はいつもと変わらなかった。

 橙色の空に黒が混じる。穴が開くほど地面を見つめる永美の頬に、冷たい風が吹きつける。


 「もし今も、未玖の弟を殺した犯人が


 膝の上で強く拳を握り締める。

 黒灰色のスカートが風に靡く。


 「未玖はその犯人を……殺す?」



 顔を上げる。

 背を向けた彼女の表情は永美には見えなかったけれど、その両肩が小刻みに震えているのが分かった。


 強い風が吹き、地面に敷かれた色鮮やかな紅葉が音を立てて一斉に空へ舞い上がる。


 ――クス。

 ――クスクス。クスクス。


 振り返った彼女は、まるで別人のようだった。



 「『面白いことを言うのね――?』」



 何かの聞き間違いかと思った。

 勘違いだと思いたかった。


 (どういう、こと)


 口の中が乾いていく。目の前が眩み、視界が黒く点滅する。身体中が強張り、握りしめた拳が震え出した。

 暫くの間声を出すことが出来なかった。蒲田未玖の目が、その口が、自分を嘲笑っているような気がしたから。


 (面白い、ですって……?)


 先程まで群れを成していた蟻の行列は既に途絶え、はぐれた一匹だけが取り残されたように彷徨っていた。校舎内に鳴り響くチャイムの音が酷く歪に聞こえた。

 頬にあたる冷たい雨粒。周囲を埋め尽くす不協和音。

 永美は再び拳を強く握りしめた。

 胆力を振り絞り、再び彼女を見やる。心配そうにこちらを窺うその表情は不気味で仕方がなかった。


 「もう一つ、聞きたい事があるの」

 

 声の震えを殺し、喉の奥から言葉を搾り取り、一つ一つ紡いでいく。


 「堀口優という人間を、知っているかしら」


 目の前の蒲田未玖連続殺人犯は視線を泳がせた。ニュースで見た事があって、などと言葉を並べていたが、その後の言葉は殆ど永美の耳に届かなかった。

 カチリ、カチリとパズルのピースが繋がっていく。仮定は全て確信へと変わり、残酷な真実へと繋がっていく。


 ――つまり。つまり。つまり。つまり。


 《僕はあの子と一緒にいくんだ》


 冷たい風と共に紅葉が舞う。目の前が真っ赤に染まっていく。

 ――解った。わかってしまった。


 (こ、殺される)


 優しい友人のフリをした人殺しが嗤っているような気がして、彼女は形振りも構っていられず、その場から逃げるように校舎内に駆け込んだ。

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