第四十六話 報われなくても

 ――タスケテ。

 誰かの啜り泣く声が聞こえる。


 そこは静かな海の底を思わせる暗闇。

 近くでポゥ、と蝋燭が灯り、周囲をあかあかと照らす。

 廊下に真っ直ぐ伸びた赤い絨毯。黒い壁に掛けられた金色の燭台。


 ――タスケテ。


 誰かの啜り泣く声が響いている。

 ゴクリ、と唾が喉を通る。


 (どうして泣いているの)


 声のする方へと向かう。

 冷たい空気が肌を撫で、瞬間、ゾワリと寒気が全身を覆った。


 人が一人通れるほどの狭い廊下を一歩ずつ進む度に、壁に掛かった蝋燭の炎が一つ、また一つと灯っていく。

 弱々しい燈火が、風もないのに不気味に揺れた。



 廊下の突き当たりには古びた扉がある。

 長年の時を経てくすんでしまった白木しらきの扉。啜り泣く声はいつも、この扉の向こうから漏れ出してくるのだ。


 (あなたは、どうして泣いているの)


 緑青のこびりついたドアノブに手を掛けると、古びた扉がギィ、と音を立てて軋んだ。

 扉の向こう側にあるのは、いつもと同じ小さな部屋。装飾のない漆黒の壁が部屋の四方を覆い、壁に掛けられた幽かな灯が静かに部屋を照らしていた。


 (どうして……)


 部屋の真ん中に、泣き声の主は佇んでいた。

 心臓を一本の剣で貫かれた彼女。内側から血液が溢れ出し、じわりじわりと赤い絨毯に広がっていく。

 私とよく似た姿をした彼女は、両手で顔を押さえ、いつもこの部屋の中で静かに震えているのだ。


 ――た、すけ、て。


 彼女に手を差し伸べようと足を踏み入れた瞬間、壁に掛けられた蝋燭が大きく揺らいだ。


 炎は消え、暗がりが部屋の中を覆う。

 心臓の鼓動が耳元で強く鳴る。


 ――た、すけて。助けて。


 暗闇の中で彼女の啜り泣く声が響く。

 細い肩に手を伸ばしてみたけれど、差し出した手はすり抜け、虚しく宙を舞うのだった。


 「私を助けて――」

 「総督様」


――――――――――――――――

第四十六話 報われなくても

――――――――――――――――


 文化祭まであと一週間。放課後はどこのクラスも準備に取り掛かっていた。

 私達のクラスでも劇の練習は大詰めを迎えており、現在は体育館の舞台を利用して予行演習する段階まで来ていた。


 他クラスが舞台を利用している間、私達は舞台裏で各々自由に休憩を取っていた。


 「そういえば、花ちゃんは?」

 すぐ隣から満咲が尋ねるので、「えっと、どこだろう」私は周囲を見渡して彼女の姿を探した。


 舞台袖では台本を丸めて小突き合いをしていた男子達が委員長に叱られている。私達の身長よりも一回り大きな音響や照明機材の近くでは、用具班の男女が演劇部部員から操作方法の指南を受けていた。

 視線をさらに奥に移したところで、男子生徒達に熱血演劇指導を行う花の姿を見掛けた私は、彼女に声を掛けた。


 花は私の視線に気がつくと、「じゃあ、頑張ってくれたまえ」と彼らにガッツポーズを向けてからこちらに手を振った。

 達成感に満ちた表情で私達の元にやって来た花を迎える。「いやあ、演劇部部長としての腕が光りますなあ」得意げに鼻を鳴らす彼女に、満咲は初っ端から本題をぶち込むのであった。


 「それはそうと花ちゃん。神峰君とは、どこまでいってるの?」

 「お、おう。どうした満咲、藪から棒に」

 「これは大事な質問だよ? 花ちゃん。それで、いってるの?」

 「あっはは。どこまでって、何がどこまでという話かね満咲君」

 「え?」

 「……え?」


 満咲が私に困惑の視線を向けるので、私も苦し紛れに「私達は、花が神峰君のことを好きなんじゃないか、って思ってたんだけど」と満咲に同調してみせるのだった。

 舞台の向こうから静かなピアノの音色が聞こえてくる。どうやら別クラスの合唱練習が始まったらしい。


 想起されるのは、昼休みの出来事。

 脳裏に、私と満咲との間で交わした会話が蘇る。


 《未玖。花ちゃんって絶対、神峰君の事好きだよね》

 《えっ。そうなの》

 《えへへ、わかってないなあ未玖。いい? あの顔は絶対、恋する乙女の顔なんだから》

 《言われてみれば確かに……》

 《告白はしたのかなあ》

 《でも花って恋愛に興味ないんじゃ》

 《よし。今日の放課後、私から鎌掛けてみるから、未玖はちゃんとアシストしてね》

 《あ、アシスト?》


 花はゲイジュツ一筋の変人なのだ。恋愛に興味があるとは到底思えないし、件の神峰将とのやり取りを見ていても好きな相手に対する態度とは到底思えない。

 けれど、満咲大先生が言うならばそうなのかもしれない。そう思って私も彼女の言う通りにしているのだが、この反応はやはり……


 「あ、あたしがアイツの事を好きだって?!」

 「ちょ、ちょっと声が大きいよ花」


 金髪混じりの女子は驚いたように目を丸くしていた。思わずながら舞台裏にいるクラスメイトの注目を浴びてしまい、私は何だか申し訳なくなって周囲に頭を下げた。

 花は声のトーンを落としてから言葉を続ける。


 「そんなの考えたことも無かったからさ……」

 「でも花ちゃん、ことある毎に神峰君のこと気にしてるよね」

 「な、何を言っているのかね、満咲君」

 「確かに。神峰君が女子に告白されたのが嘘だって分かったとき、実は花、ちょっとホッとしたんじゃない?」

 「未玖まで。でも確かに、ちょっとは安心したかも……」

 「それって好きってことなんじゃ」

 「…………!」


 すると、花は信じられない程顔を赤く染めてから、

 「そうなのかなあ……」

 常に自信過剰気味の彼女とは思えないような声を漏らすのだった。


 (花。本当に……?)


 正直なところ、彼女のこんな様子は初めて見たので驚いた。

 これは天然記念物爆誕の瞬間かもしれない。私は手持ちの携帯端末で記念撮影したくなる衝動をグッと抑えた。


 「でもあたし、その。アイツに女子として見られてないしさ……」


 花の頬がみるみるうちに紅潮していく。銀色のフレーム眼鏡の下で、透き通った茶色の瞳が泳いでいる。

 けしからん。私が男だったら確実にときめいているところであった。


 「任せて、花ちゃん。きっと未玖がどうにかしてくれるから。ね、未玖?」

 「え、ええっ?!」

 無茶ぶり!

 「い、いいよ二人とも! あたしなんか多分ダメだし! ハハ……」


 花は小声で全力の否定を示してから、タタッと荷物置き場へ向かって駆けていった。

 私と満咲が顔を見合わせていると、自分の鞄から財布を取り出した花が例の如く私にお札を差し出すのだった。


 「それより未玖。君には大事な使命を託すぞ! はい、これが今日の駄賃だ」

 「ええ」

 「つべこべ言わない。手数料として、余った分は着服しても構わないぞ」

 「着服……?」

 「君に拒否権はない。さあ行動を開始したまえ。さもなくば劇の指導がノーマルからスパルタに格上げだぞ」

 「そんなあ」

 今までのはスパルタじゃなかったの。


 諦めて渋々と舞台裏の出入口へと向かう。

 大きな扉に手を掛けたタイミングで、後ろから駆け足でやって来た花が私の肩を叩いた。誰にも聞かれたくないのか、彼女は周囲をチラ、と確認してから、私にある事を依頼するのだった。


 「それって」


 聞き返そうとして振り返ると、花は「じゃあ頼んだから」と笑ってそのまま行ってしまった。


 体育館舞台に透明な声音が響き渡る。ラストのサビに入ったのだろうか、合唱もいよいよクライマックスを迎えているようだった。


 私は彼女に手渡されたお札を握り締め、重たい扉に体重を掛けた。


  ☆★☆


 校舎内に六限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。


 昇降口前にある購買コーナーで購入した緑茶の紙パックを四つ、両腕に抱え廊下を歩く。

 食堂前では生徒達が「世界一のカレー」と書かれた看板を制作中であり、中から食欲をそそる香ばしい匂いが漂っていた。教室の前を通ると、メイド服を着た生徒やおどろおどろしい衣装に身を包んだ生徒が横を通り過ぎていった。


 《永美を見掛けたら、君からも声を掛けてやってくれないか》


 舞台裏を出る際の花の言葉が頭を過ぎる。

 あれから校舎内を回ってみたけれど、永美の姿を見掛けることはなかった。

 もうすぐ休憩時間も終わる頃合いだ。彼女は劇の主役だし、もしかすると既に舞台裏に戻っているのかもしれない。


 《私この前、満咲と喧嘩しちゃったんだよね》

 《仲直り、したいなあ》


 永美は満咲と仲直りがしたいと言っていた。

 私に出来ることは精一杯しなければ。四人分の紙パックを抱える腕に力が籠もった。



 舞台裏に戻ると、満咲は隅のソファに一人腰掛けていた。

 彼女の視線の先には花と男子生徒の姿があった。満咲の、時折顔を歪ませながら楽しそうに二人を鑑賞する表情を見て、私は自分のいない間に何があったのか大方察した。これは花も大変だ。この場に永美がいたら迷わず実験対象にされていたことだろう。


 (永美がいたら、か)


 満咲の隣に腰掛ける。随分前に寄贈された古いソファは、二人分の重みに耐えかね鈍い音を立てた。

 舞台の方から別クラスの合唱が響く。買ってきた飲料を一人分だけ彼女に手渡し、残りをソファの右脇に置く。

 「いつもありがとね」彼女は謝辞を告げてから、ストローを紙パックに差し口へと運んだ。


 私が満咲と永美を仲直りさせなければ。

 自分のやるべきことは分かっているはずなのに、誰かがそれを聞いてはいけないと止めているような気がした。


 脈の音が耳元で強く響く。口はカラカラに乾き、手先が冷たくなっていく。

 「未玖、どうしたの?」すぐ隣から満咲が心配そうに私の顔を覗き込むので、私は決心して重たい口を開いた。


 「満咲、その」

 「何、未玖?」

 「永美がね、仲直りしたいって言ってて」

 「…………」

 「二人とも、何があったの?」


 その瞬間、ピタリと合唱の音が止まった。

 満咲はハッとして私を見つめた。


 「ど、うして……未玖が」


 彼女はギリ、とストローを噛み潰し、紙パックを近くの机に置いた。


 ドキリ、と心臓が強く跳ねる。

 やっぱり、聞いてはいけなかったのだろうか。


 でも、それでも。


 「ごめんね、未玖」


 こちらに座り直した満咲は、俯いたまま私の左手を握り締めた。その表情は見えなかったけれど、彼女の手が冷たく震えていた。

 声を掛けようと口を開いてみたけれど、何と言えばいいのか分からなかった。


 「仲直りなんてしないよ。あんな嘘吐き野郎」


 思わず言葉を失ってしまった。


 「永美ちゃんは、私が心から信じられる人間を侮辱したから」


 低く唸るようなその声も、その台詞も、とても彼女のものとは思えなくて、

 私には目の前の親友が何を考えているのか分からず、何と言えば赦してもらえるのか思いつかなかった。



 七限目の開始を告げるチャイムが鳴り響く。体育館の舞台もそろそろ交代の時間を迎える頃、ソファの隣に座る満咲は先程のことなど無かったかのように笑顔を咲かせていた。

 彼女が暗黙のうちに「もう二度とあの話題に触れるな」と言っている気がして、私は情けない笑顔を貼り付ける他なかった。


 委員長が「そろそろ準備に取り掛かるように」と号令を掛けていたけれど、舞台袖の階段では相変わらず男子組がふざけ合っていた。

 満咲は花と神峰君の恋愛成就に向けた様々な作戦を説明してくれていた。一方私は、漠然とした不安がグルグルと渦巻いては思考を支配していくので、残念ながら作戦会議の内容は殆ど頭に入って来なかった。


 「未玖、ちゃんと聞いてる……?」

 「き、聞いてるよ! えっと、花と神峰君にキスしてもらおうって話だよね?」

 「違うよ……」


 《愛、なんて――そんなもの、ある訳ないじゃない》

 ふと脳裏を過ぎった言葉を頭を振って掻き消す。


 《大丈夫だよ。私、もう行かないでなんて思ったりしないから》


 私は元恋人を手に掛けた罪人だ。

 私は人を殺した。

 自分を守るために。誰かを守るために。憎んだ相手を殺すために。

 その上、死神と出会って、迷惑ばかり掛けただけでは飽き足らず、あろうことか死神の優しさに縋ろうとした。


 (こんな私に、誰かの恋を応援する資格なんて)


 一瞬、胸がズキリと痛んだ。

 奥歯を強く噛み締める。痛みを誤魔化すように、私はいつも通り笑ってみせた。


 「まずは、花の女の子らしい魅力をアピールすればいいんじゃないかな」

 「花ちゃんの魅力かあ」

 「満咲は、花のどんなところが魅力だと思う?」

 「うーん。花ちゃんって普段は自己肯定欲の塊の癖に、恋愛初心者過ぎてこの手の話には弱いんだよね」

 「確かに……」

 流石満咲さん。分析が的確である。

 「花ちゃんの魅力は、男気があるところかなあ」

 「女の子らしい魅力をアピールするんじゃなかったっけ」

 「だって、花ちゃんの女の子らしいところ、ある……?」

 それを言ったら作戦終了ですもん。


 花と神峰君が笑い合っていた。

 満咲が微笑ましそうにその姿を眺めていた。

 私も満咲に合わせて幸せそうな二人を眺めた。


 けれど、私は元恋人を手に掛けた罪人だ。


 「上手くいくといいね」


 胸の中を渦巻く黒い靄を押し殺す。そうだね、と返事をしようとしたところで、一瞬、強い眩暈に襲われた。



 「未玖、今何て」


 再び意識を取り戻した頃には、満咲は驚いたように固まっていた。


 「あれ、私何か言ったかな」


 まただ。一瞬、

 私は誤魔化すように苦笑交じりで言葉を続けた。


 「うん。二人とも幸せになって欲しいなあ」


 今は私に出来る精一杯をしなければ。

 そう思っているのに、同じ言葉ばかりが頭を巡ってしまう。


 ――堀口優という人間と出会わなければ。

 ――あんなことさえ起らなければ。


 全ての崩壊が始まったあの日の光景。街で見掛けた彼の隣にいた可憐な少女の後ろ姿が、脳裏に焼き付いて離れない。


 あの日、あの時。

 彼の隣にいたのは一体誰だったのだろうか。

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