第四十四話 もう好きになったりしないから

 帰り道。

 遠くの山が黒く染まっていく。最寄り駅の改札をくぐり抜けると、カラスの鳴き声が響く夕暮れの空が広がっていた。


 コンビニで買ったアイスを両手に持ち、路線沿いを歩く。駅前だというのに人通りはほとんどなく、目の前を黒猫が通り抜けては遠くから警戒するように私達を見つめていた。


 「最近ミタ、アイス食べ過ぎじゃない?」

 「いいだろ~未玖。だって美味しいんだから」

 「だからって、帰り道に食べたら私が一人で二つも食べてる人みたいになるじゃんー」


 折角購入したアイスも死神ミタが持っていると宙に浮いて見えてしまうので、仕方がなく私が彼の分も持っているのだ。


 カラスの群れが飛んでいく。

 隣を歩くミタはスイカの形をしたアイスの種部分をパクッと口に含んだ。「おお、種はチョコなのか。良いぞ」彼が感心したように顔を綻ばせていたので、私も思わず破顔してしまう。


 (人間にアイスを強請る死神、かあ)


 左隣に視線をやると、真っ赤な空を背景に自分と同じ位の背丈の死神の姿があった。葬式を思わせるような全身の黒一色。足下まであるロングコートや革製のブーツは、涼しくなってきた季節にようやく似合うようになってきた。


 人形のような柔らかい顔立ちを眺めてみる。年上だとは言っていたけれど、見た目は同い年くらいかそれ以下にしか見えない。

 冷たい陶器のような白い肌。ふんわりと長く伸びた睫毛に、細くて柔らかそうな黒髪。愛らしい天使のような小顔は相変わらず中性的で、ともすれば女子と見間違えてしまいそうだ。白雪姫を思わせる柔肌はきっと、前世で善行を積むか何かして天から授かったのだろう。そうに違いない。全く羨ましい。


 踏切を渡ろうとしたところでカンカン、と音が鳴り遮断機が下りた。

 電車が通過する瞬間強い風が吹く。二本に結った髪の片側がミルクアイスにつきそうになったが、何とか神回避した。髪だけにね。


 電車が通り過ぎ遮断機が上がる。再び歩き出すと、死神は後ろで立ち止まっていた。

 振り返ると、涙で瞳を潤ませる彼の姿があった。


 「どうしたの? ミタ」

 「…………」


 早くしないと溶けちゃうよ。

 スイカのアイスを差し出して急かすと、彼はタタッとこちらへ駆けてきて「なんでもない」と目線を逸らした。再びパクリ、とアイスを口に含む死神。子犬に餌をあげているような気がして何だか可笑しかった。


 「よかったって思ったんだよ」

 「えっと、何が?」

 「君に、その……嫌われてしまったかと思ったから」


 死神は顔を赤らめながら、ぐしぐしと涙を拭った。

 予想していなかった言葉に驚いてしまう。暫く頭を巡らせてみたけれど、何と返せばいいのか分からなくて踏切の先で足を止めてしまった。


 《まったく、君のせいで仕事が台無しだよ》

 《教えてあげようか。なあ? ……人間》


 その姿は初めて会った頃の彼からはとても考えられなくて、

 その台詞はとても私の知る死神のものとは思えなくて、


 どこかで糸が千切れた様な音が聞こえたかと思えば、不意に可笑しさが込み上げてくるのだ。


 「ミタって泣き虫だよね」

 「な、何だよ! あーあ。君にだけは言われたくないなあ、この泣き虫未玖!」

 「ふふ。人間みたい」

 「何だと。俺は立派な死神様だぞ!」

 「あーごめんごめん訂正するね。本当は子犬みたいって思ってたりして」

 「余計にひどいからな?」

 「はは……」


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第四十四話 もう好きになったりしないから

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 長い石段を下りるといくらか車通りがあった。

 歩道に敷き詰められた枯れ葉を踏み締めて歩く。日が暮れるのは早くて、夕暮れ後の藍色には月が浮かんでいた。

 食べ終わったアイスの棒を片手でつまみながら、人通りの少ない帰路を死神とともに辿っていく。


 「君は強いな」


 薄暗い空気の向こう側で、隣の死神がボソリと告げた。

 彼の表情はよく見えない。その言葉の意味する内容がよく理解出来なくて、私は「え?」と聞き返してしまった。


 「だって、君は何があっても必ず前を向いてきたじゃないか」

 「……そんなこと、ないよ」


 遠くの方に一本だけ灯った街灯が地面に細い光を落とす。

 か細い光は今にも消えてしまいそうなほどに弱々しく見えた。


 「私は臆病者なの。今でもふと、どうしようもなく怖くなることがあるんだよ」


 ミタは何も言わなかった。

 暗がりの向こうで、彼の荒い呼吸が聞こえた。


 「それに最近、たまに記憶が抜け……」

 「ごめん、未玖!」


 背後から彼の声がして、私は後ろの暗がりを振り返った。

 通り過ぎる車のライトが一瞬歩道を照らす。死神ミタは後ろで立ち止まったまま、頭を下げていた。


 「……ミタ?」

 「俺あの時、必ず戻るって約束したのに」


 車の通り過ぎた歩道は再び暗がりに覆われる。彼の姿は暗闇に飲み込まれ再び見えなくなってしまった。

 暗がりの向こう側で、今にも泣き出しそうな細い声が言葉を紡いでいく。


 「君の事必ず守るって約束したのに、俺は君のこと……」

 「ミタ」


 弟がいなくなる前の日の夜、彼は私を置いて出て行ってしまった。

 散歩に行こうとする者の表情とは思えない程切羽詰まった、あの時の彼の顔が忘れられない。


 《俺、戻ってくるから。必ず戻ってきて君を守るから》

 《だから、待っててくれ》


 ミタに私には言えない事情があることも分かっていた。

 その事実がどうしようもなく寂しくて、自分にも頼って欲しいなどと考えながら、本当は私が彼に縋っていたのだ。


 「わかってるよ。私はいつもミタに頼ってばかりだって」

 「ちがう、俺は……」


 《本当は、何を隠しているの》《行かないで》

 《ずっと、私の傍にいてよ》


 あの時、喉まで出掛かった言葉。


 《あんな嘘つきに頼る必要ないわ》

 《あなたには私がいるもの》


 もう、二度と口にしないと決めた言葉。

 それを思い出して、喉の奥が酸味で痛んだ。


 「分かってるよ。死神のミタにはきっと大事な仕事があるんだってこと」

 「そ、れは」

 「ごめんね。私が力を奪ったりしたから、きっと迷惑を掛けたよね」

 「ちが、違うんだ」

 「大丈夫だよ。私、もう『行かないで』なんて思ったりしないから」


 ――あなたのことを好きになったりもしないから。

 私は何度も自分の心に強く言い聞かせてから、「ごめんね」と笑ってみせた。


 きっと、これで良かったんだ。

 泣くのを堪えるために唇を噛み締めたけれど、暗いから彼には見えずに済んだだろうと思った。


  ☆★☆


 夜、食卓にて。

 野菜出汁の利いた味噌汁を啜る。静かな部屋にチク、タク、と壁時計の音が響く。


 目の前でほかほかと湯気を立てるから揚げの山に箸を伸ばしてから、私は期待の一口目を堪能した。


 「凄い、すごいよ。やっぱりお母さんのから揚げは最高だね」


 白米と塩麹から揚げの夢のコラボレーションを実現させてから、野菜のたっぷり入った味噌汁で口の中を整える。

 出汁と味噌の仄かな甘味で口の中を満たした後は、再びから揚げご飯へと出陣するのだ。


 「ふふ。母さんのから揚げは世界一なのよ?」


 母親が席につく。彼女は四人テーブルの斜め前の席に座った。

 エプロン姿の母はいつものように自慢の料理の秘訣を語り出す。彼女は話の途中で得意げに鼻を鳴らしては、グッと親指を立て顔をキメるのだった。


 ――いつも通り。


 後ろでミタが「なるほど。すぐに調子に乗るのは遺伝なんだな」と独り言を吐いていた。大変失礼である。

 私とて齢五十手前にして顔をキメる母親に若干思うところはあったものの、から揚げ本気で三ツ星レベルだと思うので黙って食べ進めることにした。


 静かなリビングに、味噌汁を啜る音が響く。


 「よく聞きなさい、未玖。父さんはね……『母さんのから揚げが好き』って言って結婚してくれたのよ」

 「……うん」

 「ふふ。拓也もちゃんと、美味しいご飯の作れる立派なお嫁さんと結婚してくれたら」


 少し前までは、隣の拓也と二人で呆れながら母の自慢話を聞いていた。

 でも今は、私の隣には誰もいない。


 静かなリビングに、味噌汁を啜る音が響く。



 「困るわよね~。二人とも



 自慢話の後は、こうして母の愚痴を聞くのだ。

 私はいつものように「そうだね」と返事をした。


 「父さんは単身赴任が長いし、拓也も合宿が長引いているのよね。母さんのご飯なんて、食べたくないのかしらね」

 「……そんなこと、ないよ」


 食卓の真ん中で、明らかに作り過ぎたから揚げの山から湯気が立ち上る。

 私はから揚げを食べながら、二人分の席を空けてに座る彼女を励ます。


 「お母さんの料理、美味しいよ」



 家の中は、暗いままだ。

 食卓付近だけに灯った明かりは、決して明るくなんてなかった。


 この空席が埋まることは、もう二度とない。

 私の前の父親の席は、もうとっくの昔に空っぽになってしまった。私の横の弟の席はこの間空いてしまった。

 私達の家は、暗いままだった。


 「父さんね、本当に格好良いのよ。いつもご近所の自慢なの」

 食器がカチャリ、と音を立てる。から揚げを箸で掴む。


 「拓也は父さん似よね」「お姉ちゃん想いの優しい子なのよ」

 食器がコトン、と音を立てる。茶碗に入った味噌汁を啜る。


 「ドラマチックで素敵な恋愛をして」「素敵な子供達に囲まれて」「それって幸せ」「母さん、


 彼女はどこか懐かしそうに零した。

 幸せな日々を思い浮かべる彼女の瞳には、目の前にいる私の姿は映っていないらしかった。


 あんなことが起こらなければ、母は一人で抱え込んでしまわずに済んだのだろうか。

 空席に座るはずの二人が今も生きていれば、母はこんな風に壊れてしまうこともなかったのだろうか。


 《あなた達に寂しい思いはさせないわ。父さんの分も、母さんが頑張るからね》


 あの時、一人で頑張り過ぎないで欲しいと言えたらどれだけ良かっただろう。

 きっと、本当に寂しいのは母の方だというのに。


 「また家族四人でご飯が食べたいわね」


 母はニコリと笑ってみせた。

 キメ顔はあんなに自然に出来るのに、その笑顔は如何にも不自然で極まりなかった。


 今はもう隣には誰もいない。今はもう垂れ流すテレビの音すらもない。

 もう、母には私しかいない。


 「……お母さんには、私がいるよ」


 私は母子揃って不自然極まりない笑顔を浮かべることしか出来なかった。



 彼女は愚痴を続けた。私はいつも通りの相槌を打つ。

 もうこの生活にも慣れてきた。

 母はあの時からずっと、止まった時間の中で生きている。


 でもね、お母さん。


 「それにしても、今日はいい天気だったわねえ未玖」

 「……うん。そうだね」


 私は、前に進むよ。


 「父さんの録画してたテレビドラマ、いい加減消しちゃってもいいのかしら」

 「……うん。いいと思うよ」


 こんな私でも、傍で支えてくれる人達がいるから。



 食器を片付ける最中、隣で死神が「今夜はトランプで勝負な」と瞳を輝かせるので「負けないよ」と笑い返した。

 机に置いたスマートフォンのホーム画面に、友人達と撮影した記念写真が映っていた。

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