第四十三話 私の勘違いだよね
放課後。薄青色の空に橙色が混ざり始めた頃。
六限目の開始を告げるチャイムが鳴ると、クラスの委員長が教壇に立ち今日も文化祭の劇の練習が始まった。
役者班と道具・演出班とに分かれて各々が準備を行う。なお、役者班は現在、各々自分の台詞の箇所に目を通し、これから行われる台詞合わせに備えているところだ。
そんな中私はというと、村人Qという脇役で二言三言しか出番がないにも拘らず、花と満咲が私のあまりのポンコツ演技を放っておけないというので、まさに二人から演技指導を受けている最中であった。
花と満咲に演技の極意を教わる傍ら、私はふと、劇の主役に選ばれた永美の姿が見当たらないことに気がつく。
「あれ、永美は……」
教室をぐるりと見渡してみる。廊下付近の男子達は年甲斐もなく台本を丸めチャンバラごっこをしていて、後方では用具班の女子達が舞台背景として使われるであろう大樹の作成に取り掛かっている。どこにも永美の姿は見当たらなかった。
一体どこに行ってしまったのだろうか――不安を募らせる私などお構いなしに、やけに高いテンションで花が腕を肩に回してくるのだった。
「おうおう未玖さんや、購買でジュース買ってきてくれないかい?」
「え、私?」
そしてそれに被せるように、目の前で満咲が笑顔の
「でも私、今月お金なくて……」
「あっはは。あたしのは一番安いのでいいから」
にげられない!
「まさかとは思うけど、色々演技指導してやってる恩を忘れたのかい?」
「よ、喜び勇んで買わせていただきます……」
すごすごと窓際の席へと向かう。一番前の席に辿り着いた私は、脇に掛けていた鞄を机の上に置いた。鞄の中からお財布を取り出したところで、背後から「さっきのは冗談だって」と笑う声がした。振り返ると、金髪混じりの眼鏡っ子は私の肩に手を置き、野口先輩を一人分スッと差し出す。
「ほれ。あたしと満咲がお金出すからさ、未玖の分も買って来なよ」
花は飾らない笑顔でニカッと笑ってから、「じゃ、頼んだからね」と私の背中を押した。
薄曇りの空に広がっていた雲が晴れていく。隙間から教室に差し込んだ金色の光が眩しくて、私は「ありがとう」と苦笑すると同時に目を細めた。
花の心遣いに感謝しつつ、教室入口の引き戸をガラリと開ける。
廊下に出たところで、委員長の前原さんに呼び止められた私は、彼女からも頼み事をされるのだった。
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第四十三話 私の勘違いだよね
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委員長から永美を呼んでくるよう頼まれた私は、花達からの
《蒲田さん、悪いけど門田さんのこと探してきて貰える?》
《はあ。全く何考えてるのかしら、あの人。劇の主役がいないと練習にならないじゃない》
「前原さん、相変わらず手厳しいよなあ……」
クラス一の秀才で頭のネジが歪んだ永美と、彼女に劣らず賢く気の強い委員長とが喧嘩するところを想像して、私は身震いがした。急がなければ。歩調が早まっていく。
屋上。体育館。職員室。思い当たる所を巡ってみたけれど、どこにも彼女の姿は見当たらない。
もしかすると家に帰ってしまったのではないか――こめかみを冷たい汗が流れた。
半ば諦めかけていた私の足が中庭に差し掛かったところで、ようやく私は、木陰のベンチに佇む永美の姿を見かけたのだった。
「永美……」
よかった、まだ学校にいたんだ。
私は胸を撫で下ろすと同時に、安堵のため息を吐いた。
弟を喪ったあの事件以来、久し振りに学校に来た私が見た景色はいつもと違っていた。
永美は私達と顔を合わせても話をしてくれない。花も満咲も、私達の元から永美がいなくなった理由を教えてくれない。
《それがさあ、あたしにもアイツが何考えてんのか分かんなくてさ》
《……永美ちゃんと話す必要なんてないよ、未玖》
私には、いつも花と満咲の二人が何かを隠していることは分かっていた。
私には、いつも視線を逸らす永美が時折寂しそうな表情をすることも分かっていた。
帰宅途中の生徒達が数名、彼女の横を通り過ぎていく。中庭に留まる者は彼女の他にいなかった。
腕に抱えた冷たい紙パックが結露し左腕を濡らす。声を掛けようとしたところで、背後から突如強い風が吹き抜けた。
「あ……」
綺麗だ、と思った。
薄暗い空の下、雲の隙間から一筋の光の柱が彼女の傍に降りていた。腰の辺りまで伸びた黒髪がふわりと風に舞う。一直線に切り揃えられた前髪。キリリと吊り上がった眉に、整った鼻筋。木陰の下、中庭のベンチに佇む彼女は独りであろうとも凛々しく、私の知る
ふと、彼女の目線がこちらを向く。私の存在に気がついた彼女は、一瞬、珈琲色の瞳を丸くした。
「…………」
舗装されたコンクリートの歩道を伝い、彼女の元へ向かう。次第に歩調が速くなり、気がつけば小走りになっていた。
今の永美は、私のよく知る彼女とは違うかもしれない。
彼女の元へ辿り着いたものの、何と声を掛けていいのか分からなくて、辛うじて絞り出した声は情けなく震えてしまった。
「その、委員長の前原さんが呼んでたからさ」
永美はベンチに腰掛けたまま、黙って私を見上げた。
彼女の表情を見るのが怖くて、思わず視線を下方に泳がせてしまう。永美はそう、と小さく呟いた。
「わざわざありがとね、未玖」
「……え?」
「私の事、迎えに来てくれたんでしょう?」
顔を上げると、永美は笑っていた。
その笑顔は私のよく知る彼女のもので、一瞬、思わず泣き出しそうになるのをグッと堪えた。
やっぱり、永美は永美のままだ。
久し振りに近くで見た彼女は相変わらず綺麗な顔立ちをしていた。目元がいつもより少しくすんでいるような気がしたけれど、私は気がつかないフリをしてしまった。
それから少し、永美と話をした。
中庭のベンチに二人で並ぶ。久し振りに彼女と話せた事が嬉しくて、いつも通りに振る舞おうとする彼女の笑顔が時折ぎこちなく見えたことは気にしないことにした。
腕に抱えた珈琲牛乳三つをベンチの脇に置く。永美の視線がそちらを向くので、「ああ、これはその――」説明しようとしたところで言葉に詰まってしまった。
永美を除いた三人分の珈琲牛乳。その中に永美の分が無いのが何だか申し訳なくなって、私は咄嗟に嘘をついてしまうのだった。
「私、こう見えていっぱい飲むんだよね! あはは……」
永美は愛想笑いを浮かべていたけれど、それ以上何も訊いて来なかった。
暫くの間沈黙が流れた。
穏やかな風が通り抜ける。すぐ側の樹が色づいた葉を落とし、黄色の葉は風に舞いながら二人の間にひらりと落ちた。
「本当…………は、……の」
隣の永美が俯きながら何かを呟いた気がしたけれど、小さな声は風の音に掻き消されてよく聞こえなかった。
紺色のブレザーが風で捲れる。風が収まると、俯いた彼女の髪がさらりと地面に垂れた。彼女の表情は分からなかったけれど、その肩は小刻みに震えていた。
「私この前、満咲と喧嘩しちゃったんだよね」
彼女が自嘲気味にはは、と苦笑するので、私は何と言っていいか分からず黙り込んでしまった。
「やっぱり私の勘違いだよね」
「…………」
「あんなこと、言わなければ良かったな」
何があったの――喉まで出掛かったその言葉は寸でのところで飲み込んでしまう。
それを口にしてしまえば取り返しのつかないことになってしまうような気がして、私は口を噤んでしまった。
「仲直り、したいなあ」
空を見上げながら、彼女は涙を堪え唇を噛み締めていた。
苦しそうに笑いながら溢す声は弱々しく震えていた。
涙の粒がぽろぽろと彼女の頬を伝っていく。普段凛々しく吊り上がっている眉毛は垂れ下がり、薄青の空を見つめる瞳は仄赤く潤んでいた。
(な、泣いてるの……?)
私は驚き目を見開いた。
クラス一の秀才門田永美は、決して完璧人間ではない。飄々としていて、時には頭のネジがおかしな方向に緩んでいるとしか思えないような発言をするけれど、そんな彼女も時折不安げな仕草をすることがある。
けれど、彼女がこうして泣いている姿を見るのは初めてだった。
私は何だか見ては悪いような気がして思わず目を逸らしてしまった。下方に移した視線の先で、握りしめた彼女の拳が小刻みに震えているのが分かった。
お腹の底からグッと熱いものが込み上げてくるような感覚。
普段決して人に弱みを見せない門田永美が、私には本音を話してくれた。その事実がどうしようもなく嬉しくて、こんな私でも彼女の頼りにされているような気がして、そんな時、単純な私はいつもこんな風に強がってしまうのだ。
「だ、大丈夫だよ永美。私がきっと、満咲を説得してみせるからさ!」
ついでに人差し指と親指で顎を挟んで決めポーズ。危うく右目から星を飛ばしそうになるのを、何とかギリギリのところで留まった。ここ最近は誤ってうっかりウィンクしてしまわないように充分気をつけているのだが、右頬がピクピクと痙攣し不完全なキマり顔になってしまうのが毎度のことながら悔やまれる。
どこか懐かしいやり取りに、永美は安堵の混じった表情で「ありがとう」と苦笑するのだった。
彼女が「後で戻るから先に行ってて」と言うので、私は先にベンチを立ち上がった。
脇に置いていた紙パック飲料を再び腕に抱える。三つの珈琲牛乳は全ての結露を解消しすっかり温くなっていた。後で待ち構えているであろう二人の小言が脳裏に過ぎり、心の中でガクリと肩を落とす。
「じゃあ、教室で待ってるからね」
永美を背に、コンクリートの歩道を歩いていく。
廊下に辿り着いたところで、丁度、六限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
☆★☆
風が吹き、地面に敷かれた赤や黄色の紅葉が舞う。
友人の背中を眺めながら、門田永美は声を震わせた。
「本当のあなたはどっちなの……未玖」
堀口優という人間はある日突然怪死を遂げた。
ニュースでその事実を知った彼女は膝から崩れ落ちた。
同じようにして、別の日、とある男が原因不明の死を迎えた。
後日、その時傍にいたのは彼女の大切な友人であったと知った。
《お前の同級生に夏目満咲と蒲田未玖って生徒がいるだろ? お前、二人のこと何か知らないか》
《し……知らない。話したことないわ》
上履きの白の上に舞い降りた紅葉が鮮血に染まっている気がして、一瞬、息を止めてしまう。
一人、ベンチを立ち上がる。次第に暗くなっていく空の下、彼女は肌寒さに身を震わせた。
これは”事故”などではない。
父親がこの事件を追っていることは分かっていた。
二度目の事件の後、満咲は学校に来なくなった。
大切な友人を疑ってしまう自分自身が情けなくて、一方で、この事件の犯人がどうしても許せなかった。
西日の差す電車の中で、彼女は友人の優しさに縋った。
《満咲に会いに行ってあげて欲しいの》
《私には、その……上手く話せる自信がないから》
《信じてるよ。未玖》
《あはは、もう。永美は大袈裟だなぁ》
けれど、三度目の怪死はその友人――蒲田未玖のすぐ傍で起こった。
それが何を意味するのか理解出来ない彼女ではなかった。
「本当のあなたはどっちなの。未玖」
大切な友人か、それとも、自分から
橙色に侵食されていく薄曇りの空を眺めながら、彼女は唸るように言葉を吐いた。
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