第三十八話 いつか、あの総督を
テーブルの上で花瓶の花が揺れる。
廊下から慌ただしい足音が響く。薄暗い廊下と違い、この部屋には壁の丸い窓から外の光が差し込んでいた。
事件現場に遭遇した私は、警察署で事情聴取を受けていた。
レストラン内で起きた強盗殺人事件。凄惨な事件に巻き込まれた一被害者として、目の前の女性警官は時折憐れみや同情に似たような表情を私に向けた。百面相をしながら話題をあらゆる方向に展開しようと試みていた女性警官だったが、彼女の話題に犯人の突然死に関する内容が上がることはなかった。
まるでカウンセリングでも受けているかのような感覚だった。
早口で少し不注意なところがある女性警官は、必死に機嫌を取ろうとしたのかポケットから何かを差し出した。小さな掌の上で桃色のキャンディーがコロンと揺れる。小学生か何かだと思われているのだろうか。どんな反応をすべきか考えあぐねた私は、結局のところぎこちなく口角を引き攣らせることしか出来なかった。
「あ、お茶いります?」
「…………」
「あ、はは、そうですよね、いりませんよね! あはは……」
厚めの眉が困ったように垂れ下がる。
ボブカットの黒髪。見たところまだ二十代だろうか。使い込まれていない新品の紺スーツから若手の新米警察官といった印象を受けた。
「よし、じゃあ
「…………」
何の代わりだろう――喉まで出掛かった疑問を寸でのところで飲み込むと、彼女はキリッと顔を引き締めてから親指を立ててウィンクを一つ飛ばした。一瞬だけドキリとしたのを悟られないようにしながら、私はとりあえず当たり障りのない表情を浮かべておいた。
小柄な彼女は立ち上がるとててて、と壁際に歩み寄り、設置してあったサーバーからお茶を注いだ。
――――――――――――――――――
第三十八話 いつか、あの総督を
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廊下の向こうから慌ただしく足音が響く一方、この空間だけ、時がゆったりと流れているようだった。
こぽこぽとお茶が注がれていく。窓から入り込んだ風で花瓶の花が揺れる。黄色のソファに少し体重を掛けると、年月を感じさせる音がした。
真夏に
「えっと、えっとえーと」
女性警官との事情聴取が始まってから一時間が経とうとしているが、未だに核心に迫る様子はない。
(どうして、何も訊いてこないんだろう)
以前にも事情聴取を受けたが、これ程までに
一体何を考えているのだろうか。それとも、何も考えていないのだろうか。
(…………)
それまであれこれと一人で口を動かしていた彼女が急に黙り込んだので、廊下の向こうの慌ただしさが一層目立つようになった。雑音に混じって、ふと、先程の喧騒が頭を過ぎる。無意識のうちに、私は貸与された服の裾を握り締めていた。
掌が冷たくなっていく。
弟の最期を思い出す度に呼吸が荒くなった。
男を殺した時の映像が脳裏を過ぎる。白と黒の車の中でガクリと首を垂れたあの男の死に様が鮮明に思い出されては吐き気が込み上げた。廊下の向こうから怒鳴り声が聞こえた気がして、ハッと顔を上げた。耳の奥で銃声が鳴る。奥歯がガタガタと音を立てた。
「だ、大丈夫ですから。蒲田さん」
突如、左拳が温もりに包まれたかと思えば、女性警官が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
自信のなさそうな弱々しい声。けれど、眼鏡の奥の黒い瞳には光が宿っていた。
「少しずつでいいんです」
「…………」
「前に進むには、きっと時間が掛かるでしょうから」
白いカーテンが風に柔らかく舞う。
彼女はしきりに「大丈夫です」を繰り返しては一人納得したように頷いていた。
左手を包み込む女性警官の両手から、少しずつ熱が伝っていく。気がつけば震えは収束し、呼吸は元の落ち着きを取り戻していた。
「ありがとう……ございます」
横目でチラリと彼女を見やると、女性警官は明かりを灯した電球のようにぱあっと顔を明るくさせた。
ピシリ、と何かが割れるような音がした。凍った心は穿たれ、開いた隙間から弱さが滲み出す。私は思わず涙が溢れ出しそうになるのをグッと堪えた。気を抜けば泣き出してしまいそうになった。
いっそ、この人に全て話してしまえたら楽なのに。
そんな資格は自分にあるはずもなくて、私は情けなく吐息を震わせた。
『綺麗事ね。反吐が出る程』
うるさい。
『都合の良い嘘に決まっているでしょう?』
うるさい。うるさい。
「蒲田さん……?」
「うるさい、うるさい、うるさい……!」
『忘れてしまったの? あなたは一度、裏切られた』
「うるさい、黙って……!」
物心ついた頃から聞こえてくる彼女の声は、彼女の夢は、いつからか少しずつリアルな感触を伴うようになっていった。
私とよく似た死神は、耳元で囁いた。
『あなたは一度、裏切られて
思わず呼吸が止まる。
視界が黒く暗転していく。
顔を上げるとそこは、いつも悪夢で見る景色だった。
蝋燭の灯った小さな部屋に、絵画が一枚。そこに描かれていたのは二人の人物だった。
「私は決して忘れたりしないわ。あの日、
すぐ隣から、クスクスと笑う彼女の声が聞こえた。
誰かの啜り泣く声が聞こえて目下に視線を移せば、心臓を剣で貫かれた死神が一人そこに佇んでいた。
「あなたは“私”――あなたが私を、
「な……んで」
「信じたものは必ず裏切られる。また
金の額縁に飾られた絵画が色を変えていく。多色の色は混ざり合い、やがて一つの像を映し出した。
必ず守るから――そう言って私を置いていった死神の姿が揺らぐ。
「あんな嘘つきに頼る必要ないわ」
あなたには私がいるもの。彼女は私を抱き締めてから、耳元で冷たく囁いた。
風もないのに蝋燭の炎がゆらりと揺れた。
「あなたは、一体……」
「言ったでしょう。もう戻ることなど出来ない、と」
――教えてあげる。
「あの雨の日、死ぬはずだったあなたが生き延びた理由」
――あなたにしか救えないからよ。
理不尽な悪意によって奪われた、哀れな憐れな犠牲者の魂を。
彼女はそう言って穏やかに微笑んだ。
初めて見せた彼女の優しい表情に一瞬、言葉を失った。
蝋燭の炎が一際大きく揺れ、金色の額縁に囲われた絵画が移り変わる。次第に映像は白い床の上で横たわる弟の姿を映し出した。
弟だけではない。白いキャンバスの上に、幾人もの犠牲者が横たわっていた。
目下で静かに涙を流す黒コートの彼女が唇を動かす。ゆっくりと、音のない言葉が紡がれていく。
彼女が「たすけて」と泣いているような気がしたから。
《今、救ってあげるからね》
《教えてあげる。あの雨の日、死ぬはずだったあなたが生き延びた理由》
――あなたにしか救えないからよ。
「私にしか……救えないから……」
そうだ。私はあの時、冷たくなった弟に誓ったんだ。
だから、私は――
☆★☆
血染めの画廊の中で、彼女はひとり額縁の中に映る映像を眺めた。
そこに映し出されるのは、「彼女」の眺める現実世界の映像。長年閉じ込められてきたこの空間とは異なる、生者の世界。
「滑稽ね」「滑稽だわ」
同じ過ちを繰り返す。
真っ直ぐで愚昧な生者共に、彼女は苛立ちと呆れを通り越して笑いを覚えた。
一歩、また一歩。
時折ズキリと痛む心臓を押さえ、彼女は呼吸を整えてから額縁に手を掛けた。
胸が痛む度に荒くなる呼吸を噛み殺し、唸るように吐息を漏らす。
縋るように「彼女」の生きる外の世界を眺めてから、彼女は一つ嘆息をこぼした。
ふと、左の壁に掛かったもう一枚の古い絵画にチラリと視線を移す。
絵画には変わることなく二人の人物が映し出されていた。白いローブを纏った人物を睨みつけてから、彼女は怨嗟の籠った声で低く唸った。
「私は、消えない」
《モウ キミニ ヨウハナイ》
呪われた運命に抗うことなど出来ないのなら、せめて全ての元凶を生み出した存在を、この手で。
「いつか、あの総督を」
――殺すまで。
☆★☆
下谷観月。女性警官は自分のことをそう名乗った。
彼女も姉を事件で亡くしたらしい。だからこそ、私のような被害者を放っておけないのだという。
《あなたにしか救えないからよ》
優しい警察官に全てを打ち明けそうになる度、臆病な私は「彼女」の言葉に縋るのだ。
例え誰かのことを守れなくても、犠牲者の魂を救えるのは私しかいないのだ、と。
ゆったりと時が流れていく。女性警官はパニックを起こした私を心配してか、時折おろおろとこちらを覗き込んだ。
壁に開けられた窓から光の柱が差し込む。
白いテーブルの上で色鮮やかなガーベラが風に揺れる。
もう自分に構わないで欲しい。
――そんなことを考えていたところで、突如、部屋の扉が開き二人の刑事が部屋に入ってきた。
「お話中かな? 失礼するよ」
大柄な刑事は横柄な態度で入口のドアを開け、中に入り込んだ。
すると、あろうことか、突然の第三者の登場に慌てた隣の女性警官が手に持っていたお茶を勢いよくぶちまけた。
それなりに熱を帯びた茶飛沫が宙を舞う。ちなみにぶちまけたお茶の行方はというと――
「どわわわわー!! ごめんなさいごめんなさい」
「わー! 何してんだ下谷! だ、大丈夫すか、門田さん」
「…………誰かタオルを持ってきてくれ」
刑事はスーツの胸ポケットから白い箱を取り出すと、濡れて使い物にならなくなった中身を見てやるせなさそうに眉尻を下げた。
女性警官が慌てて部屋を飛び出していく。残った二人がまじまじと私の顔を眺めるので、私は咄嗟に視線を伏せた。以前の事情聴取と同じ。バレる筈がない――それが分かっていても、こちらの心の内を見透かそうとする鋭い視線はあまり心地の良いものではなかった。その点、必死に場の空気を和ませてこようとするあの女性警官はイレギュラーだ。
「初めまして、だな。蒲田未玖さん」
「…………」
刑事はよっこらしょ、と一息ついてから、テーブルを挟んだ目の前に座った。真ん中に置かれた花瓶を見やり「邪魔だな、これ」と眉を顰めると、傍に立っていたもう一人の若い刑事に処分するよう指示を飛ばす。もう一人の刑事は「え、勝手に処分していいんすか」と戸惑っていたが、上司の鋭い視線に肩を落とし渋々従った。
目の前の刑事のスーツから煙草の匂いがした。私は小さく咳き込んでから顔を顰めた。
顔は伏せたまま、チラリと視線を目の前に移す。
父親が生きていたらこのくらいの年齢だろうと思った。所々白髪の混じった髪。随分と寝ていないのか、目の下に濃い紫色の隈が浮かんでいた。
「単刀直入に問おう」
ベテランの刑事。この人物を一言で表すならばこの言葉が妥当だった。
そんな刑事の放った次の一言に、私は一瞬――心臓の止まる思いがした。
「君だろう? あの被疑者を殺したのは」
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