第三十九話 それでも諦められないから、人は

 警察署の建物裏、年々縮小されていく喫煙スペースの一画で門田は煙草をふかしていた。

 先程新しく調達したカートンに手を伸ばす。煙をくゆらせながら、白髪交じりの男は先程の出来事を思い返していた。


 《私はただ……見ていただけです》

 《でも、私は感謝しています。あの男が死んだこと》

 《私はただ、弟と私を救ってくれた神様に感謝するだけです》


 「神様、か」


 雨上がりの晴天に、白い煙が立ち上り溶けていく。

 焦点ピントの合わない少女の双眸は、あの時、一体何を見つめていたのだろうか。年端の行かぬ少女の言葉を思い返す度、これは「事件」などではなく天の災いに等しい何かなのではないかと感じさせられそうになる。


 「くだらねぇ。証拠は絶対にある筈なんだ」


 時折浮かぶ雑念を溜息と共に全て吐き出せば、薄煙が虚ろに揺らいだ。

 唸りながら額に手をあてる。

 すっかり思考に没入していた彼は、すぐ隣で小さな後輩が必死に訴えかけていることには気がつかなかった。


 背丈の低い彼女は、両手を縦に振ってみたり、ぴょこぴょこ跳ねてみたりと様々なアプローチを試していたが、門田の反応が帰って来る様子は全くない。ようやく呼び掛けられていることに気づいたのは、黒縁眼鏡の後輩刑事が勢いよく灰皿をひっくり返したタイミングだった。


 「どわわわわー! 何故にー!!」


 白と黒の混じった灰が土の上にぶちまけられる。新米刑事は目を回しながら急いで灰をかき集めていたが、やがて諦めたのか足でことに決めたようだった。

 呆れた門田が要件を尋ねると、彼女は申し訳なさそうに「そろそろ会議始まっちゃいますって、宮田さんが」と視線を泳がせた。


 「お前。さっきの件といい、最早わざとやってるだろ」

 「そ、そそそんな」

 「……冗談だよ」


 門田がくたびれた顔で苦笑するので、下谷は九死に一生を得たかのような安堵の表情を浮かべた。

 暫くの沈黙の後、下谷はずっと心に引っ掛かっていた事を尋ねることにした。


 「あ、あの。門田さん、先程の突然死の件ですが」

 「…………」

 「あの件って、事件性はないという判断だった気が……その、証拠不十分で」

 「ああ」


 瞬間、門田の声が低くなったことに下谷はゴクリと唾を飲み込んだ。門田は聞こえるか聞こえないかくらいの声で「腰抜け共め」と忌々しく舌打ちを一つ。それまで流れていた穏やかな空気が一瞬にして凍りつく。

 それでも、下谷にはどうしても解せないことがあった。


 「でっでも、上には従わないとマズいんじゃ」

 「…………」

 「それにもし、仮にもしこの件がだとしても、あの子がそんな事をするとは思えなくて……」


 一連の不審死が最初に起こったのは、二か月前のことだった。


 警察署内を騒然とさせた、ある男の不審死。

 死亡者の身元も定かではなく、これといった確かな情報が手に入らない。

 そもそも誰かの意図した事件なのか、何らかの事故なのかも分からない。

 仮に事件であったとしても、犯人は愚か、凶器については推測のしようもなかった。


 犯人の動機もその人物像も、全くもって雲を掴むような捜査だった。

 そんな中不審死は再び起こった。


 試行錯誤。

 空前絶後とも言える狂気的な事象の処理に難渋した挙句、遂に警察は捜査中止を決定した。


 以来、警察ではこの不審死については触れることがなくなった。

 この件は「事件」ではなく「事故」として処理する方針を定めた警察では、捜査は完全に打ち切られることとなった――のだが。


 二件目の。突如原因不明の死を迎えたの傍にいたという、夏目満咲。

 不審死を目撃し恐ろしくなって逃げ出したという、蒲田未玖。


 この二人は県内の同じ高校に通っていたことが分かった。

 そしてその学校には門田刑事の愛娘も通っていることが分かった。


 《お前の同級生に夏目満咲と蒲田未玖って生徒がいるだろ? お前、二人のこと何か知らないか》

 《し……知らない。話したことないわ》


 「捜査に自分の願望を重ねるな」


 彼は自分に言い聞かせるように言葉を吐いた。


 娘が嘘をついているであろうことは見れば明らかだった。

 父親としての自分と警察官としての自分がせめぎ合った末、彼は一つの結論を導き出した。


 「俺はあの『事件』を追うためなら何だってする。嫌なら俺を止めてみろ」


 三件目の事件現場には、二件目と共通の目撃者が居合わせていた。

 蒲田未玖――恐らくこの女子高生が、一連の不審死と重要な関わりを持っているに違いないのだ。


 娘を守るためにも、何としても一連の不審死の犯人に辿り着かなければならない。

 たとえ、娘から親しい友人を奪うことになったとしても。



 あまりにも遅い二人を迎えに来た宮田は、明らかに違和感しかない灰色の土を見てがくりと項垂れた。


 「連れて来るのが遅いと思ったら下谷、さてはお前、また門田さんにしてただろ?」

 「みみっ、みみ宮田さん!?」


 慌てた彼女ははわわわー、と奇声を上げながら勢いで両手を振り上げた。あろうことかその手刀の切っ先には門田の顔面があったのだが、宮田の瞬発力によって事故は回避された。今日も今日とて、宮田の心労は絶えない。

 恐る恐る門田の表情をチラリと見やった宮田は何となく状況を察しつつ、何があったのか彼女に尋ねることにした。


 「じ、自分はただ例の『事故』の話をしただけです」

 「事故……」

 「恐れながら、その。あの件に関する警察の方針はもう決まったのでは、と」


 宮田は呆れたように肩を落としてから、何も知らない新米に諭すように告げる。


 「あのな、下谷。警察うちの方針とか、門田さんにそんなが通じるはずないだろ?」


 しょっちゅう会議遅刻するんだから。

 すぐ目の前で全く悪びれる様子もなくつけ加える部下に対し、門田は心の中で「お前が一番失礼なんだよ」と溜息を吐いた。


 今日も今日とて、門田の心労は絶えない。突然の手刀による攻撃を回避したかと思えば唯一自分についてきた部下に言葉攻めにされた男は、もうすぐ会議が始まるというのにも拘わらず、再び白箱に手を伸ばした。


  ☆★☆


 昼休みを告げるチャイムが校舎に鳴り響く。

 夏希は鞄から取り出した弁当包みと購買で買ったいちご牛乳を手に、一人屋上へと足を運んだ。


 秋晴れの空は澄み切っていた。今朝方の雨が嘘のようだ。頭上を見上げると降り注ぐ陽光が両目に染みた。

 屋上を吹き抜けた涼しい風が制服のスカートを揺らす。


 フェンスの前にある青いベンチに腰掛けた彼女は、弁当包みを解き、金色のリボンで結わかれたラッピングを取り出した。透明な袋を開けると、前より焦げが少なくなったクッキーが現れた。

 ほんのり香ばしいバターの香りが風に運ばれていく。


 「なあ、蒲田。あたし、クッキー焼くの上達したんだぞ?」


 空に向かってビシッと指をさし、彼女は白い歯を覗かせて笑ってみせた。

 誰も居ない屋上で一つ、ポニーテールがぴょんと跳ねる。何も無い青空は相変わらず明るく地上を照らした。


 拓也に渡すはずだった星型のクッキーを一枚口に運ぶ。

 週末に必死になって練習したハート形のクッキーを一枚口に運ぶ。

 火傷して怪我をした痛々しい指が目に入った瞬間、不意に、「不器用だな」と呆れる彼の笑顔が脳裏を過ぎった。


 「あれ、おかしーな。砂糖と塩間違えたのか? はは……」


 一人きりの屋上にびゅう、と風が吹き抜けた。前髪が風と共に舞い上がる。買ったばかりのいちご牛乳のパックを握り締める。

 涙交じりの少女の声は風にとけて掻き消えた。


 「上手くなったはず、なんだけどな」


 ふらふらと立ち上がり、彼女は緑色のフェンスに手を掛けた。冷たい金属に掌の熱が少しずつ奪われていく。

 何気なく校庭を見下ろすと、いつかの野球部員が女子と話をしていた。


 「あいつ……」


 校庭の隅で彼のことをずっと見守っていた彼女。

 気がつけば、雨上がりの校庭に虹が掛かっていた。


 《俺は強くなる》《姉貴を守れるくらい、強く》


 すぐ横から彼の言葉が聞こえた気がした。

 ハッとして隣を見やったけれど、そこにはただ風が吹いているだけだった。


 「な、んでだよ」


 また、月曜日って言ったのに。

 彼女の叫びは誰に届くこともなく、秋晴れの空に消えていく。



 校庭に架かった虹の橋に向かって手を伸ばす。

 けれどそれは到底届くはずもなくて、


 《俺達、似た者同士だよな》

 《届かない虹に手を伸ばそうとして》


 この世には、どれだけ欲しいと願っても手に届かないものがある。

 そんな当たり前の事実に気がついては、何度も打ちのめされるのだ。


 「なあ、蒲田」

 彼女は無力な声で尋ねる。


 「お前は最期、届いたのかよ」

 ――何故自分の傍からいなくなってしまったのか、と。


 「お前はそれで満足出来たのか」

 ――何故自分を置いていってしまったのか、と。


 「あたしにはもう、分かんねぇよ……」



 野球部員は再び走り出す。

 すぐ近くで女子が満ち足りたように微笑んでいた。



 第三十九話 それでも諦められないから、人は




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第三章完結まで、あと二話です。

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