第三十七話 今、救ってあげるから。

 家族四人で写真を撮った。

 幼い弟と幼い私。弟は父に、私は母によく似ていた。


 やがて父が居なくなり、家族は三人になった。

 食卓の席が一つ空いた。


 「おれ、つよくなる。ねえちゃんを守れるくらいね」

 「あら。拓也は未玖のことが大好きなのね」


 記憶の中の二人が眩しかった。


 「母さん! おれ、ねえちゃんとけっこんする!」

 「あらまあ」


 ありふれた日常。父が欠けた日から、母の視線はどこか遠くを向くようになった。

 食卓テーブルの上で、今日も組み合わせのちぐはぐな夕食が並ぶ。


 私だけが一人取り残されたようにして家族の姿を眺めていた。

 徐に箸に手を伸ばすと、眼下に小さな掌が映った。私の手。幼い、無力な私の手だった。


 「まあ。どうしたの未玖、ぼんやりして。折角あなたの好きな唐揚げにしたのに」

 「……ねえちゃん?」


 ――どうして、泣いてるの。


 幼い弟が、大きな丸い瞳を真っ直ぐにこちらに向けた。


 ちぐはぐの夕食から温かい湯気が立ち上る。

 遠くの方で、誰も見ていないテレビから歓声が上がった。


 不意に、言い様のない感情が込み上げてきて、気がつけば私は無言で拓也を抱き締めていた。


 「ねえちゃん……さみしくなったの?」


 小さな弟の背中から温もりが消えてしまわぬように、幼い私は細い腕で必死にしがみついた。


 「しょーがないなー」と笑う弟の声が聞こえる。

 「仲良しねえ」と微笑む母の声が聞こえる。


 幼い私は声を上げて泣いた。

 何故だか無性に涙が溢れて止まらなかった。


 行かないで。喉の奥に言葉が詰まったけれど、結局それらが言葉になることはなかった。

 私はただ、泣きながら弟に縋りつくことしか出来なかった。


 こうしていないと、家族というものは手の届かない遠くへ行ってしまうような気がしたから。



 「どうしたんだよ、姉貴?」


 気がつけば、私は雨に濡れ玄関に立っていた。

 目の前にいたはずの小さな弟の姿は既になく、成長した弟は代わりに呆れ混じりの溜息を零した。


 いつから、こんなに大きくなったんだろう。

 いつの間に抜かれてしまった背丈。逞しくなった身体つき。子犬のように愛らしかった幼い弟はそこにはいなくなってしまったけれど、私には分かっていた。


 どんなに生意気になったって、何度喧嘩したって変わらない。

 目の前に居るのは、心根の優しい、たった一人の弟なのだと。



 静かな雨が音を奏でる。残酷な時計の針が時を刻んでいく。

 ふと天井を見上げると、真っ黒な夜空に月が浮かんでいた。一つ瞬きをすると天井に波紋が起こり、月だと思い込んでいたそれは幻でしかないと知る。


 何もない空。

 大きくなった弟は再び「しょうがないな」と零してから、照れ臭そうに続けた。


 「姉貴。あんまり無理すんなよ」

 「た、くや」

 「じゃあ俺、行くから」


 弟は最後に申し訳なさそうに微笑んだ。

 溢れ出した感情が胸の奥に詰まって痛んだ。弟は私に背を向け、何も無い廊下の奥へと向かっていった。


 「行かないで」と叫ぶ声は枯れ、必死で絞り出した音は空間にとけて消えていく。


 伸ばした手は空しく宙を舞い――

 途端、ガラスが砕けるような音がして壁が崩れ落ちた。


――――――――――――――――――――

第三十七話 今、救ってあげるから。

――――――――――――――――――――


 気がつけば私は、真っ白な世界にいた。

 遠くの方で弟の影が揺らいでいた。


 伸ばした手の隙間から、崩れ落ちる弟の影が映った。


 私は叫んだ。

 咄嗟に弟の元へ駆け出す。何度転んでも、足がもつれても。


 「やめて、死なないで」「お願いだから」

 「行かないで……!」


 こうしてまた、行ってしまうのだ。

 手の届かない遠くへ。


 内側からじわりじわりと毒が広がり、臓腑が侵されていく。

 足首に枷をはめられた囚人が一人。やがてもつれた足が絡まり、囚人は力なく地面に倒れ伏した。


 白い地面の上で、私は唇を強く噛み締めた。

 かつての決意が呪縛のように私を縛りつけては、吐くように弱音を垂らす。


 《この力はきっと、誰かを守るためにあるんだ》


 「嫌……こんな、」


 《だから友達を、家族を、大切な人を守るために、私は力を使おう》


 「こんな筈じゃ……」


 《きっとそれが、あの時生き永らえた私の存在価値だと思うから》


 ――こんな筈じゃなかったのに。


 あの時、ちゃんと右目を瞑れていれば。

 私が臆病でなければ。私がもっと。もっと。もっと――


 幾つもの後悔が頭を過ぎっては自責の念に駆られ、嘔吐えずきを繰り返した。

 私はその場に座り込み、俯いたまま拳を強く握りしめた。


 ポタリ、ポタリ。


 少しずつ天から黒い雫が落ち、白いキャンバスに華が咲き乱れる。

 項垂れた私の頬に一粒の雫が垂れる。それはやがて頬を伝い、自重に耐えかねて地面に落ちていく。


 「大切な人を守れなかった私に、もう存在する価値なんて」


 ああ。今なら分かる気がする。


 《やっぱりさ、その……もう一度会いたいとか思ったりする?》

 《会いたいよ。……会って謝りたい。だから、空に行けば会えるかなって、思ったりもしたんだけど》

 《今行くね……陽》


 最愛の弟を失った時、満咲もこんな気持ちだったのだろうか。



 「滑稽ね」


 声のする左方に視線を移すと、彼女の姿があった。

 白と黒だけの何もない空間。首の無い二人分のむくろの上に座し、細身の黒い鎌を肩にかけた死神が一人。

 鏡映しのように自分とよく似た彼女は、淡々と現実を突きつけた。


 「所詮あなたは人殺し。誰かを守ることなんて出来ない」


 彼女は青い炎に包まれ姿を消したかと思えば、突然背後から私を抱き締めた。

 死人のような冷たい腕に首筋がゾクリとした。不意に横からの視線を感じ見やれば、骸の向こう側で頭蓋骨が二つ転がっていた。切り落とされた頭部の眼窩には虚無が広がっていて、私は思わず息を呑んだ。


 「可哀想に」「可哀想にね」


 ――クスクス。

 「死んだ人間は戻って来ないわ。もう二度と」


 思うように呼吸が出来なかった。

 掌から汗が止まらなかった。


 「あの時、ちゃんとあの男を殺せていたら良かったのに」


 私のせいだ。

 私のせいだ。


 「どうして、躊躇ってしまったの?」


 私が、弟を見殺しにしたんだ……。


 「可哀そうね、拓也君」


 ワタシ……ガ……ミゴロシニ……


 「人殺しのあなたが彼の為にしてあげられることは、もう一つしかないわ」


 喪失感と何に向けていいのか分からない怒りとで、頭の中は既に混沌と化していた。

 どこか遠くの方で男の嗤い声が響いた。銃声は鳴り止まず、その度にぽたりぽたりと天井から黒い雫が滴り落ちる。握り締めた拳が熱を失い、寒さに震えた。


 冷たい声が耳元で囁いた。


 「……早く弔ってあげないと、ね」


 ト、ムラウ……?

 ドウ、ヤッテ……?


 「そんなの、決まってるじゃない」


 ――クスクス。

 死神の姿をした彼女は、平淡な声で続けた。


 「あなたから大切なものを奪った、を殺すの」


 タイセツナ……モノ……?

 ワタシカラ……ウバッタ……?


 男の甲高い声が響く。

 その瞬間、先刻の男の表情が蘇った。


 「そうすれば、あなたもきっと楽になるわ」


 思い出した。

 脳裏にこびりついて離れない、あの嘲笑を。


 「人の大切なものを奪っておいて笑っていられるなんて、最低よね」


 思い出した。

 他人を見下すような、あの目を。


 そして気がついた。

 ……最初からこうしていれば良かったのだ、と。


 だって、こんな奴がいなければ。

 こんな奴がいなければ。


 拓也は、私を助けようとすることはなかった。

 拓也は、拳銃で撃たれて死ぬこともなかった。


 最初から、悪いのは全部――

 この男だったじゃないか。


 (ゆるせない……)


 思わず零れ出しそうになった残酷な言葉を飲み込み、代わりに唇を強く噛み締めた。千切れた唇から鉄錆の味が広がっていく。

 再び握り締めた拳に熱が灯る。それはやがて全身の血液を巡り、炎のように燃えていく。


 「た、くや」


 乾いた唇が震え、愛しい家族を呼ぶ声が零れた。

 顔を上げると、真っ白な床に黒い水溜まりが出来ていた。


 ――ピチャン


 また一つ、黒い雫が地面に吸い込まれては、一際大きな波紋を描いた。

 その瞬間、それまで圧し掛かっていた何もかもが消え去って、心がスっと軽くなった気がした。


 「か、わいそう、に」


 男の高嗤う声が響く。

 見境なく向けられた銃口の先で幾つもの影が黒い華を咲かせていく。


 「大丈夫、だ、から」

 「今、いま、お姉、ちゃんが」


 “人の大切なものを奪っておいて笑っていられるなんて、最低よね。”

 彼女の冷たい声が背中を押した。


 この理不尽に抗えるのは、私しかいない。

 だから――。


 立ち上がった私のすぐ目の前に、男の影があった。

 男のシルエットが私に銃口を向けた。甲高い声で生命いのちの悦びを謳いながら、いやしくも幾つもの命を毟り取ってきたその銃口を。



 “こんな奴、死んじゃえばいいのに。”

 「こんな奴、死んじゃえばいいのに。」


 唸るように言葉を吐いた瞬間、男の影は勢いよく弾けて消えた。




 ――ピチャン、ピチャン


 天井から黒い雫がこぼれ落ちる。

 私は身体中に浴びた黒を滴らせながら、弟の元へと歩み寄った。


 ようやく辿り着いた頃には、弟の身体は既に冷たくなっていた。


 「……ごめんね、拓也」


 真っ白な地面の上に弟は横たわっていた。満ち足りた表情。手を伸ばすと、弟との取り留めのないくだらない会話ばかりが想い出された。


 ポタリ、ポタリ。

 頬を伝った黒い泪が、青白い弟の頬に零れ落ちる。


 白と黒だけの何も無い空間に、姉と弟が二人。


 銃声は止み、白いキャンバスには惨憺たる光景だけが描かれていた。

 冷たくなった弟の頬を撫でながら、私は壊れた機械のように幾度も謝罪を繰り返した。


 《ねえちゃん、俺、大きくなったら――》


 「ごめんなさい。ごめんなさい……」


 この子の時間は、ここで永遠に止まってしまった。


 死んでしまった人間は二度と、戻って来ない。

 人殺しの私が弟にしてあげられることはたった一つだけ。


 「守ってあげられなくて……ごめんなさい……」


 天井がバラバラと崩れ落ち、黒が無秩序に流し込まれていく。

 残された白はやがて黒に呑み込まれていき、重さに耐えかねた床がピシリと音を立てた。


 物言わぬ弟の亡骸を抱き締める。

 崩れ落ちる世界の中、私は泣き腫らした顔で微笑んだ。


 「大丈夫。大丈夫だから」


 せめて、私がずっと傍にいてあげるから。

 だから――


 「今、。」



 警察に連れられ、パトカーに入れられた男を睨みつける。

 まるで人を殺すことを何とも思っていないような、嘲笑うような目。

 私を見下す、あの表情。

 それを思い出した瞬間、全身の血液が凍りついていく。


 (ゆるせない……)


 右目を閉じる。それは、一瞬だった。

 車内で突然あの男の首が力なくもたげる様子が視界に映る。


(……死んだ)


 その瞬間、自分でも気がつかないうちに、驚くほどに冷静になっていた自分に気がついた。

 弟を殺した人間を、冷静なまま、躊躇うことなくに殺した自分に。



 やがて事実に気がついた警官が息を呑み、

 あたりは騒然とし、

 喧騒に包まれた。


 パトカーの中で既に息絶えた男の肩を、慌てた様子で警官が揺さぶっていた。

 人々が恐怖に青ざめた。


 横にいた女性警官は、震える声を必死に押し隠しながら、

 私に何とかして温かい言葉を掛けようとしていた。


 私は、ただ……


 〈どうしてだ! 何故被疑者が死亡している!〉

 〈まさか……また例の……〉

 〈くそっ、やられたか!〉


 ただ……


 〈もう嫌だ! 早く帰らせてよ!〉

 〈きっと……俺も殺されるんだ……〉

 〈助けてくれ! 誰か〉

 〈大丈夫、だ、だいじょうぶです! あなたは大丈夫、だだ、だから、何も心配は無用ですから!〉


 現場が騒然とし、

 人々が恐怖し、

 隣にいた女性警官が私に声を掛け続ける中――


 私はただ、愛しい弟を殺した人間を静かに睨みつけていた。

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