第三十六話 一人目。

 嘘だ。


 「ねえちゃん、ねえちゃん」

 「どこにいるんだ」


 〈あはひゃはひゃひゃはひゃ!! おっ、俺はぁっ、生きているっ。いき、生きているぞぉお!!!〉


 これは、嘘だ。


 「大丈夫、大丈夫だよ。拓也」


 〈は、話が違うじゃないか、お前! 客殺すなんて聞いてなっ……〉

 〈嫌あぁ! お願いもうやめてえぇ!〉


 こんなの、嘘に決まっている。


 「怖いよ、何も見えない」

 「私はここにいるよ。ここにいるから、もう……」


 様々な声が頭のどこか遠くで響いている。

 錯乱した男によって無作為に銃弾が放たれる店内は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図となった。


 (私のせいだ。私がもっと、もっと……)


 弟はひたすら「痛い」と「怖い」を繰り返した。天に伸ばした腕は彷徨い、暗闇の中で必死に私を探していた。


 私は咄嗟に弟の手を握った。

 涙が溢れて溢れて止まらなかった。何度も「ここにいるよ」を繰り返したけれど、弟は虚ろに瞳を泳がせたまま「ねえちゃん、どこ」を繰り返していた。


 握った手の温もりが、私の中で少しずつ失われていく。何度も弟の名前を呼んだのに、弟には届かなかった。銃で撃たれた弟の腹部から血液が溢れ出す。零れ落ちていく命の欠片がこれ以上失われぬよう必死になって押さえてみたけれど、流血が止まることはなく、掌は温かい血液に濡れるだけだった。


 姉の威厳など捨て、幼い子どものように泣きじゃくりながら、嫌だ、死なないで、と繰り返す。視界が熱で歪む。透明な雫が溢れ、ぽたり、ぽたりと弟の頬にこぼれ落ちた。


 ――その瞬間、弟の震えが止まった。


 「ねえ……ちゃん……」


 虚ろに泳いでいた瞳が動きを止める。

 その黒の中に私の姿は映っていなかったけれど、弟はようやく私の存在に気がついたのか、安堵に頬を緩めた。


 「泣か、な……で」


 弱々しく持ち上げられた弟の手が左頬に触れる。

 いつの間に大きくなった手。私が知っている頃のものよりもずっと大きな掌が、私の頬を優しく包み込んだ。


 「やっと……守れ……」


 私の傍らで、

 拓也は満ち足りたように微笑みながら、


 ――最期の言葉を告げた。



 静かに瞼を閉じる。

 静かに呼吸が止まる。


 私の頬を包み込んでいた手が、だらりと床に崩れ落ちる。


 動かなくなった弟を抱き締める。

 現実を受け入れられないまま、私は呆然と弟の亡骸に縋りつき、ただひたすら泣きじゃくった。



―――――――――――――

第三十六話 一人目。

―――――――――――――


 〈あひゃひゃっ! 生きているぅっ! ひゃっはぁっはひゃひゃひゃ!!!〉

 銃を乱射する男の、狂気に満ちた叫び声が響く。


 〈神様……どうかお助けください……〉

 〈うわあああん!! ママー! マ……〉

 〈どうしてこんな! 誰か、誰か〉

 無作為に放たれる銃弾に怯える人々の、悲痛な声が響く。


 脅すために利用するはずだった拳銃をしてしまったことで錯乱した男は、狂ったように見境なく銃口を向けた。

 数名が命を落とした。その中には、犯行仲間や、先程まで元気に注文していた小さな子どもの姿もあった。

 ファミリーレストランは恐怖と狂気に包まれ、人々は泣きながら身を寄せ合い、この絶望的な状況が終わることを祈るしかなかった。


 いつ死ぬかも分からない状況の中、人質にとられた人々の心理状態は既に極限にまで達していた。

 このまま状況が停滞するかと思われたその時――最悪な状況を打開する変化が訪れた。


 現場に警察が駆け付けたのだ。


 〈お、おい、何でサツが! 見張りの奴らはどうしたんだよ!!〉

 〈サツが来てるってことは捕まっちまったってことだろーが、畜生!〉

 〈落ち着け、お前ら。今はとにかく、俺達があの野郎に殺されることはなくて済んだってことだろ〉


 拳銃を所持していない犯行集団の一味は、冷静な判断を見失った彼に殺されないようにと、テーブルの下に隠れ密かに話し合っていた。

 彼らは最早自分達にとっても凶器となった彼をどうすることもできず、大人しく身を隠していることしかできなかったのである。


 武装した警官たちは次々と店内に入り込んでいき、拳銃を所持していない犯行仲間はもとより、銃を乱射していた犯人でさえもあっさりと取り押さえた。

 それは実に迅速で、死を覚悟し絶望していた人々にとっては救世主到来の如く感じられた。


 「可哀想に……」


 駆けつけた捜査員の一人が、とある少年少女の姿を見つめながら零した。

 血の海の上で眠る少年。物言わぬ少年に縋りつく少女。

 警官は少女に声を掛けたが、少女は何も応えなかった。


 まるで、その空間だけが切り取られ、時間が停止しているかのようだった。


 生気を失った青白い亡骸を抱き締めながら、虚ろな瞳でうわ言を反芻する少女。

 元々は白かったのであろうワンピースは赤に染まり、生者である少女の啜り泣く声だけが、その場に虚しく木霊していた。



  ☆★☆



 あれ、私、何してたんだろう。


 〈大丈夫、もう大丈夫ですから!〉

 〈ええぇっと、どどどうしよどうしよ〉

 〈とにかく、えっと、自分についてきてください!!〉


 今私に声を掛けているのは、誰……?

 私、どうしてこんなところにいるんだろう。


 「た、くや……?」


 そうだ。拓也がまだあの中にいるんだ。

 早く、たすけてあげなきゃ。


 「たくやは……どこですか……」


 〈ええぇっと?! どどどこでしょう〉

 〈何してるんだ、下谷君。早く彼女を連れていきなさい〉

 〈あああハイ分かりました! そっそれじゃあ、早く、自分と一緒に行きましょう、ね?〉


 早く、たすけてあげなきゃ。

 きっと今も私を待っているから。だから早く、早く。


 「たすけてあげないと……」



 “弟は死んだ。”

 女性警官目の前の人はそう告げた。



 〈モタモタするな、さっさと歩け〉


 弟を撃った男が、私の目の前を通り過ぎた。


 男が私の前を通り過ぎる瞬間。

 その男はチラリと私の方を見やり――恐らく私以外の誰にも気づかれない程短い時間――男が、私に視線を向けながら浮かべた表情に、私は思わず息を呑んだ。

 それはほんの一瞬に満たぬ出来事であったにも拘わらず、私に底冷えのするような感覚を植え付けるには十分だった。



 まるで私の心の奥底まで全てを見透かしているかのような、血も凍る程の冷ややかな嘲笑。

 私はその表情を、



 「あ……ああ……」


 忘れることはない。

 あの時、拓也がイスを振り上げた瞬間。


 男は震えながら、

 錯乱したような演技をしていながら、

 同じ表情を浮かべていたのだ。


 ――まずはと、嗤いながら。


 人を見下すような冷笑。何かを嘲笑うかのような口元。 

 それはとても錯乱していた人間の浮かべる表情とは思えない程に、冷静で、残酷な表情だった。


 おそらくこの人間の心中には、などなかったのだ。


 仲間を含めた、複数の人間を無差別に殺害する行為。

 この人間に、殺害に伴ったも、も、も、存在するはずがなかったのだ。


 何故なら、この人間は――

 他人の大切なものを奪うことに、を感じていたのだから。


 全身の血液が凍りついていくような感覚がして、

 その時確かに、私はこう思った。



 ――こんな奴、死んじゃえばいいのに、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る