第三十五話 だから私は、右目を瞑――

 扉の向こうから騒々しい声が聞こえてくる。

 一体、向こうで何が起こったのだろう。


 (もしかして、さっきの会話と何か関係があるんじゃ)


 つい先刻微かに聞こえてきた会話を思い出しながら、何とかこの状況を理解出来るだけのピースをつなぎ合わせようと試みた。

 しかし、聞き取れた僅かな情報だけでは、その答えに辿り着くことはできなかった。


 扉の向こうの様子を探るため、おそるおそる扉に耳をあてる。

 すると、先程までの様子が一変して静まり返っていることに気がついた。


 (どういうこと……?)


 両瞼を閉じ、全神経を右耳に集中させる。

 誰かが何かを話している。男の声。ファミリーレストランには似つかわしくない、随分と威圧的な声だ。


 冷たい汗がタラリとこめかみを流れる。ノブを握る掌が温度を失っていく。

 嫌な予感がした。私の本能が「この先に行くな」と警鐘を鳴らしている。


 様子を探ることに必死になるあまり、集中させた神経は手の方には行き届かず――ドアノブを握る手が思わずするりと滑る。

 最悪の事態が引き起こされたことに気がついたのは、体重の乗せられたドアがそのままゆっくりと開き、その現場に臨場してしまった後だった。


 「あ……」


 店内の数か所に、数人の男が立っていた。

 男達の服装は統一されていない。スーツの男から、ボロボロのTシャツを着た男まで。体格も屈強な者から貧弱な者までと様々であった。

 事が最悪であることを象徴しているのは、男のうち一人が拳銃を所持しているということ。

 張り詰めた空気の中、突然トイレから現れた私に全員の視線が集中することは当然の結果ともいえた。


 (…………!!)


 拳銃を手にした男がこちらへ向かってくるのが見えた。

 ――な、何で


 足を動かすことが出来なかった。

 ――何が、


 声を上げることが出来なかった。

 ――いったい、何が、起こっているの



 「何だ、お前」


 男の無機質な目が獲物を捉える。

 その手が私の胸ぐらを掴んだ瞬間、全身に凍りつくような戦慄が走った。

 私はなすすべもなくその男に捕えられた。


 思考が停止する。

 目の前の世界がかすむ。

 呼吸が、浅くなる。


 次の瞬間、私の後頭部には銃口がつきつけられた。


 (え。なん、で?)


 ぞわ、と毛が逆立ち、背筋が凍りついた。

 訳も分からぬまま、ただ突然訪れたリアルな「死」の感触だけが身体中を蝕んでいく。


 心臓の鼓動が速まり、身体の震えが止まらない。

 私は声を出すこともできず、ただ男のなすがままにされる他なかった。



 私を捕らえた男が頭上で声を張り上げ、レストラン内の空気を一層凍りつかせた。


 「早くしろ! ありったけの金をここに集めるんだよ! モタモタすんな!」


 怒声を浴びせられた店員が今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 怯えきって中々動けずにいた店員を急かすため、男は私の頭にガン、ガンと拳銃を叩きつけ「早くしろ」と叫んだ。

 後頭部に割れるような痛みが走る。

 私を何度も殴りつけた男の顔が脳裏を過ぎっては、差し迫る「死」の恐怖に胃の内容物が逆流する。喉の奥が酸味で痛んだ。


 「オラ、さっさと歩け」


 後頭部を銃で小突かれ、男が私に前進を命じる。頭の後ろに突き付けられた銃口がいつ火を噴くかと思うと、両手足が竦んだ。

 私は抵抗することもできず無理やり店の中央付近に連れられ、男の道具とされる他無かった。


 幾つもの未来が頭を過ぎっていく。

 「早くしろ、殺されてぇのか!」

 店員が男の逆鱗に触れ、殺される未来が。

 「ママぁ、ママぁ」

 見せしめに銃で撃たれ、殺される未来が。

 「うるせぇ、ぶち殺すぞ!」

 それとも、単なる気まぐれで殺される未来が。


 小さな子供の泣き声が耳をつんざく。その近くに立つTシャツの男が「静かにしろ!」と怒鳴っている。

 怯える客の憐れみの目線。表情。口元。「自分じゃなくてよかった」と安堵する声が聞こえた気がして、肺の奥が凍りつくのが分かった。


 まるで、生贄に捧げられた仔羊にでもなったかのように思えた。


 後頭部にあてられた銃口から弾丸が突き抜けるのを想像して全身に悪寒が走る。

 無力なままあっけなく命が散っていく姿を想像した。床に咲いた大輪の赤い華の中心で、生気を失った青白い人形として横たわる自分の姿を想像した。


 絶望的な状況の中、

 ――強くならなきゃ。

 それでも私は僅かに残された胆力を振り絞り、

 (助けて)

 ――覚悟を決めなきゃ。

 最悪の事態を回避するための策を、幾つも幾つも幾つもいくつもいくつも

 (助けて、ミタ……!)



 怖いよ……。


 非力で臆病な人間は、結局のところ空しくも祈りのような願いを捧げることしか出来なかった。

 壊れたオルゴールのように、何度も何度も。来るはずのない死神に助けを願った。

 いつだって私の事を支えてくれた、優しい死神に。


 《俺、戻ってくるから。必ず戻ってきて君を守るから》

 《だから、待っててくれ》


 戻ってくることのない、優しい、噓つきの死神に。



 ――クスクス。

 『情けない。情けないわね。あんなに見栄を切っていたのに』


 ――クスクス。

 『助かりたければ、その力を使うしかないのよ』


 「ひとり」になると、彼女の声が聞こえてくる。

 その声は私を嘲り笑い、怨嗟の籠ったような低い声で囁くのだ。


 ――だから言ったでしょう?

 ――あなたはその力から逃れられない、と

 ――だから、誰もかも、全員、



 コロシテ シマエバ イイノニ。



 両目を強く瞑ると、今まで殺してきた二人の怨嗟の声が聞こえた。

 閉じていた瞼を再び開けば、一面に池が広がっていた。


 亡霊達が自分を血の池に引き摺り込もうと纒わりつく。

 私は両耳を塞ぎ、その場にうずくまった。

 圧し掛かる命の重みに耐えかねて、今にも潰れてしまいそうだった。



 「本当に情けないわね」


 近くで、彼女の声が聞こえた。

 足音がピチャン、ピチャン、とこちらに近付いてくる。見上げると、すぐ傍に彼女の姿があった。


 池の面を流れる灯籠に照らされて、彼女のシルエットが浮かび上がる。

 黒革のコートを羽織った死神。華奢な手足。黒紐のブーツのあちこちに血がこびりついていた。


 彼女がフードを外すと、顔が覗いた。

 栗色の長い髪がサラリと肩から降りる。

 私によく似た死神が一人。光を失った焦げ茶の瞳が、私を見下ろしていた。


 「生き残りたければ、覚悟を決めなさい。あなたはもう――」


 目の前を黒い何かが掠めた。

 すぐに、それは刃だと分かった。


 纏わりつく亡霊を細身の鎌で薙ぎ払う。

 白い月の下で、赤い雫が舞う。


 見上げた月夜の下。

 目の前で嗤う彼女は紛れもなく、「死神」だった。


 「――決して、のだから」


  ♪♪


 ――姉貴は、俺が守る。

 そう決意したのは、もうずっと前のことだ。


 昔から弱虫で、泣き虫で、

 俺をいじめてくる奴らに対してどうすることもできない自分に、いつも歯噛みして。


 帰り道。いつものように、俺はクラスメイト達にいじめられていた。

 悔しかった。

 けど、何も言い返せなかった。

 奴らが言う言葉が全部、本当の言葉だからだ。


 《弱虫!》《クズ!》


 奴らの言葉が胸に突き刺さる。

 そうだ。俺は何もできない、最低のクズなんだ。


 「ち、ちがうんだから!」


 それは、よく知っている声だった。


 「拓也は、よっ、弱虫じゃないし、クズなんかじゃないもん!」


 震える声。

 俺を必死にかばおうと、無理して張った見え見えの虚勢。

 この声を、知っている。


 「拓也は、強い子なんだから!」


 そう言って、姉貴は俺の前で精一杯手を広げて見せた。

 その声は弱々しく、

 その手は小刻みに震えていた。


 そのとき俺の目の前にいた姉貴は、

 確かに臆病で、すぐにでも壊されてしまいそうに見えたけれど、

 何故だかとても強くて、頼もしく見えた。


 そこで、気がついたんだ。


 今まで、自分と同じで弱虫で臆病だと思っていた姉貴は、

 本当は弱虫なんかじゃなくて、

 臆病者なんかじゃなくて、

 他人を守れる強い人間なんだってことに。


 だから、俺も強くなるって決めたんだ。

 誰かを守れるくらい、強く。


 今度は、俺が姉貴を守る。

 だって俺は、のことがずっと……


  ♪♪


 「拓也……!」


 乾ききった喉から掠れた叫び声が零れた。 

 すぐ頭上で、男が声を裏返して叫んだ。


 「お、お前っ! 何のつもりだ?!」


 こちらに向かってくる弟の腕に抱えられているのは、近くにあった木製のイス。

 弟は叫び声を上げながら真っ直ぐに私の元に向かってきた。


 「とっ、止まれぇ! とと、止まらないと、撃つぞ!」


 頭上から乱暴な声が降り注ぐ。荒い呼吸。あからさまな動揺は「予定外」とでも主張するかのようだった。

 男は私の頭部に拳銃を強く押し当てた。何度も、何度も。無機質な金属音が耳元で鳴り、頭皮に伝った冷たい鉄の感触に息を呑む。


 浅い呼吸を繰り返しながら、精一杯の威勢を込め叫ぶ男。

 が、拓也がその声に耳を傾けることはなく、その距離はみるみるうちに縮まっていく。


 「う、うう撃つって言ってんだろ!!」


 ふと、鉄の感触が後頭部から離れる。

 顔を上げれば、小刻みに震える銃口は真っ直ぐに前を向いていた。


 (…………っ!!)


 道連れに銃で撃たれて殺されてしまう弟の姿が脳裏をかすめた。

 瞳孔が開き、声にならない叫び声が喉を通り抜けていく。


 『さあ、早く』


 耳元で「声」が囁いた。

 両掌を強く握りしめる。汗で滲んだ掌に爪が深く食い込む。


 (そうだ)


 《この力は、きっと、誰かを守るためにあるんだ》

 《だから友達を、家族を、大切な人を守るために、私は力を使おう》


 私が、やらなくちゃ。


 《姉貴、その……あんまり無理すんなよ》

 《いつもありがとね》


 私が、弟を守らなくちゃ。


 《ミタがいなくたって、私は》


 守るんだ。

 



 離れていた私と弟の距離が少しずつ縮まっていく。叫びながら立ち向かう少年の姿に、その場にいた全員が息を呑んだ。

 私はこの力を受け容れた時の決意を思い起こし、ようやく覚悟を定めた。


 真っ白な空間。

 私と、拓也と、男の三人だけがその世界にいた。


 「うあぁぁぁぁ!!」

 「と、止まれって言ってるだろ! し、しし、死にたいのかっ!」


 (早く、この人を)


 ――5m。


 「う、撃つぞ! いい、良いのかよ!!」


 (この人の)


 ――3m。


 「とと、止まれぇぇっっ!!」

 「うぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 (この人の、目を)


 ――2m。



 目前、拓也は腕に抱えたそのイスを力強く振り上げ――、

 私は、頭上を通過するイスを見上げた。


 頭上を、まるで時が止まったかのようにゆっくりとイスが通過していき――



 『そう、それでいいのよ』


 男のを捉える。耳元で、満足そうに微笑む「声」が聞こえた。

 だから私は、右目を瞑――。



 刹那。背筋に凍りつくような、戦慄が、走、った。



 ……1m。


 店中にパン、と乾いた銃声が響き渡る。



 「    」


 おそるおそる、左方に視線を移す。


 「た、くや……?」


 私の口から、情けなく擦れた声が漏れる。

 拓也は瞳孔を開いたまま、床に崩れ落ちた。


 「な、んで」


 弟の身体から静かに、真っ赤な血が広がっていき――――――――

 その瞬間、私は言葉を失った。

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