第三十四話 日曜日

 ゴトン、車内が揺れる。地下鉄の窓に映る頭が二つ。

 背の高い頭は弟の方で、小さい方が私だ。


 おさげに結った髪型は私にしては珍しいヘアスタイルで、果たしてそれが似合っているのかどうかは隣の弟の顔を見れば一目瞭然だ。


 「姉貴、相変わらず寝起きが悪い癖治ってねーのな」

 目的地へと向かう途中、拓也は私のぼさぼさの髪を見やり呆れ混じりに言い放った。


 「ごめんなさい」

 一方、事実拓也を待たせてしまった私は、何も言い返すことができずただ項垂れるのみであった。


 元々朝は苦手なのだが、最近はいつも無理やりに私を叩き起こしてくれるミタが居た分幾分かマシになっていた。しかし、そんな死神も昨晩出ていったきり帰って来ていない。

 寝癖を隠すために慌てて結った三つ編みは、不器用な私にとってはレベル1の勇者が三匹の手下を引き連れて魔王城に挑むが如き難易度であった。要するに、あまりうまく結べなかった。


 「姉貴……似合わな」

 「知ってる」


 すると弟が馬鹿にしたように笑いながら「もうほどいた方がいいんじゃない?」と手を伸ばすので、私は慌てて阻止した。


 「何やってるの! でしょ!」

 「え。何が」


 これだから貴様は。私は悪態を吐きつつ寝癖の無い弟の頭髪を睨みつけた。生まれつきの髪質の良さは父親譲りなのだろう。母親譲りのくせ毛を引き継いだ私にとっては、キョトンと首を傾げた弟の一挙一動が悪意にしか見えない。


 電車が次の駅に到着し、ぞろぞろと人が入り込んでいく。都心に近づくにつれ車内も段々と混雑していき、それまで空席だった私達の両隣にも見知らぬ人が腰を掛けた。少し狭くなった車内で、拓也は軽く首を回してから何やらご満悦の様子で呟く。


 「今日は姉貴の奢りだし、好きなだけ沢山頼もうかな」

 「え。あ、うん」

 今月のお小遣いが一気に底をつくことは必至だ。

 「ま、任せなさい。姉の心の寛さと財布の深さにお、慄くといいわ」

 「本当か? よっしゃ、それじゃ遠慮なく」

 「あはは……」

 ――まずい。お財布の中身が……!


 拓也が「冗談だよ」と可笑しそうに笑うので、私は自分の財布の中身の危機を乗り越えたことに小さく安堵のため息を零す他無かった。


――――――――――――

第三十四話 日曜日

――――――――――――


 そもそも私が拓也に韓国料理を奢ると約束しなければならなくなったのは、先日彼に私が死神と話している場面を目撃されてしまったからである。正確に言うとミタは彼には見えないので、「私が一人で何やら話しているところ」を見られてしまったからである。

 私の挙動不審を訝しむ拓也を何とか「韓国料理を奢る」という約束で丸め込むことができたというのはかなりの成果であったと思わざるを得ない。案の定、辛いものに目がない拓也は私の挙動不審などよりもこちらを優先してくれた。まさに計画通りというやつである。


 昔から辛さが選べるような店に行くと、拓也に出てくる料理は私と同じメニューを注文したのかと疑いたくなるほど深紅に染まっていた。中には料理と唐辛子どちらがメインなのか疑わしい代物もあった。そんな弟の勇姿を横目に、私とて心の底では姉としての尊厳を保たなければならぬと誓っていたのだ。あれから少しずつ修行に修行を重ねて今に至る。どちらが辛いものに耐えられるかというバトルを前に、私の心は勇み立っていた。


 「拓也はまだ知らないのね? 私がここ数年積んできた修行の成果を」

 「だから修行って何だよ」

 「いい、これは戦よ。負けた方は勝った方の言う事を一週間――否、一ヵ月間聞くの!」

 「長過ぎるだろ……」

 「そもそも拓也、今日の韓国料理のお店どんなとこだか知らないでしょ?」


 都心へ向かう地下鉄に平淡な車内アナウンスが流れる。ドア付近の女子高生が楽しそうにキャッキャッと盛り上がっていた。

 生意気な拓也は興味が無いとでも言いたげに「知らないけど」と返す。


 「友達が言ってたの。新しくオープンしたばかりなんだけど、『芸術的に美味しいから絶対に行った方がいい』って」

 「芸術……?」

 「辛いもの好きの間で話題沸騰、究極の辛さと旨さを追い求めるファンが沢山いるんだって。凄く人気のお店で、今日なんか日曜日だし絶対混んでるんだから」

 「はあ……」


 列車が対抗車両とすれ違い、空圧がビュン、と鼓膜を震わせる。

 必死にご機嫌を取ろうとする情けない姉の像が出来上がっていたところで、沈着冷静な弟の一言が空気を一変させる。


 「そんなに混んでるなら、今日予約取っといた方が良かったんじゃ」

 「ん? 予約……?」

 「もし二時間待ちとか言われたら、姉貴待てる? ほらあるだろ、パンケーキの店とかで十四時間とか待たされるやつ」


 電車がガタン、と大きく揺れる。ドア付近の女子高生達が「マジあり得ないんですけどー」と高い声を上げた。

 やがて目的地への到着を告げる車内アナウンスが響き、私は笑顔を引き攣らせたまま掌の内側にじっとりと汗を滲ませた。


 (予約なんて取ってないけど、大丈夫かな。いや、絶対混んでるよね。二時間待ちとかですよね……)


 電車が目的地へと到着し、車内の大勢がぞろぞろと駅構内へと降りていく。ぐるぐると思考を巡らせていた私は「降りるぞ」と拓也に急かされるまで目的地到着の事実に気がつかなかった。

 その後も幽霊のように顔を青褪めたまま、私は「どうかお店の中に入れますように」と空しい祈りを捧げることしか出来ず。


  ☆★☆


 「……ですよね」


 案の定、そのお店は大繁盛でした。

 店の前にできた列はもはやどこかの遊園地の列だと言ってもおかしくないような長さだった。あまりの行列に道行く人がちらほら二度見し、テレビ番組のレポーターらしき人影が列に並ぶ客に取材を行っている。

 この列に加わった場合果たして何時間待ちになるのだろうか。恐る恐る隣の弟を見やってみたが、弟は静かに首を左右に振り否定の意を示すのであった。


 (私の積年の屈辱が……!)


 電車で見かけた件の女子高生達が、携帯端末の画面を見せて店の中に吸い込まれていく。

 恐らく予約を取るか何かをしていたのだろう。勝ち組の彼女達の姿は眩し過ぎて、一方負け組の私は弟との戦いも花への食レポも果たすこと能わず、ただ力なく項垂れるのであった。そんな私に弟は「俺はどこでもいいから」と励ましの言葉を掛けてくれたのだが、「こういうドジなところ本当に姉貴らしいな」と付け加えたのが余計でしかない。

 店の中からどことなく香るキムチと鍋の美味しそうな匂いを背に、私達はしばらくの間都会の街を彷徨い歩き、そして――



 「ごめん、拓也……私のせいだよね……」


 小さな二人席のテーブルにつき、私は差し出された水を啜りながら申し訳なさそうにチラリと目の前を見やった。

 ピンポーン、と注文ボタンの音が響く。日曜日なだけあって店内は老若男女で賑わっていた。今しがた、家族連れの席から小さな子どもが「お子様セット!」と元気よく注文する声が聞こえたところである。


 「まあどこも混んでたからなあ」

 「反省はしています」

 「いいよ、気にしなくて。俺は姉貴の財布がぺしゃんこになるまで食い尽くすだけだし」

 「の……望むところじゃない」


 拓也は机の上にあったメニューを広げ「うーん」と吟味するので、私は笑顔を引き攣らせながらお財布の中身を思い浮かべた。本日引き連れてきたのは野口先輩が数人。弟が高額料理を候補に挙げる度、私の視線はおのずとメニューの隅にある最低価格の料理へと移っていく。


 「心配するなって。姉貴がしたら仕方なく俺が面倒みてやるよ」

 私って国か自治体かと思われてるの?

 「このメニュー、端から端まで頼んだらいくらになるんだ?」

 「この子いつからそんな富裕層みたいなこと言うようになったの……」

 「冗談だよ。流石の俺でも食いきれないし」


 テーブルの端に固定された注文ボタンを押す。一旦注文した後、私は突然襲われた腹痛に苦しみ(おそらく今朝急いでつまんできた消費期限の怪しいパンにあたったのだろう)、トイレへと向かった。

 拓也はそんな私を見てケラケラと笑っていたが、私にそんな彼を指摘する余裕は無かったので、背に腹は代えられず全ての弁明は後回しにして急ぎ直行するのであった。


  ☆★☆


 洗面台で手を洗い流す。腹痛を解消し調子を取り戻した私は、ポケットから取り出したハンカチで水分を拭き取ってから、手の甲で冷や汗を拭った。


 ふと目の前の鏡に視線を移すと、鏡の中に映ったおさげ髪の女子と目が合った。

 自分の顔を眺めるのは久方振りだが、以前よりは血色を取り戻してきたかもしれない。改めて見てみると、焦げ茶の瞳や垂れ下がった眉など、所々弟と似ているパーツがあるなと思った。

 それにしても、ヘアスタイルが想像以上に残念な出来栄えだ。ここにミタや友人達がいれば大喜利が出たかのような勢いでネタにされたに違いない。私は情けない苦笑を浮かべながら、手持ちのコームで寝癖を整え再度三つ編みに挑戦することにした。


 「それにしても、出際に摘まみ食いしたパンにここに来てやられることになるとは……」


 左半分の編み込みが完成したところで、私は小さく肩を落とした。

 袋の面に堂々と貼ってあった半額シールの意味を今更になって思い知った愚かな女子高生が一人。「次からは半額シールには気をつけよう」と意気込みながら右半分の編み込みに着手しようとしたところで、誰かの声が小耳に入る。


 『……早くしろ、時間だ』


 どうやら、トイレの小窓の外から漏れ出してきているらしい。

 誰かの会話。何を言っているのかはよく聞き取れなかったが、数人の男の声であることは分かる。緊迫した様子であることは感じ取れたが、内容まではよく分からなかった。


 「まあ、関係ないか」


 その言葉の意味が分かれば、未来は変わっていたのだろうか。

 私は、この力を使うことがなく済んだのだろうか。



 右半分の編み込みを終え、鏡に視線を移す。我ながら上出来だ、と思った。


 どこからか冷たい隙間風が入り込み、私は一つ身震いをした。半袖のワンピースを着るには少し寒い季節になっただろうか。ハンカチをポケットに戻し、扉を開けようとノブに手を掛けた矢先――

 私の耳に、鋭い叫び声が飛び込んできた。

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