第三十三話 分かってるから。

 同日、夜。

 人の居ない深夜のリビングにスリッパの足音が響く。キッチンから冷蔵庫のモーター音が響き、時折製氷機の氷が落ちる音がした。


 耳を澄ませば、遠くの方からリーン、と鈴虫の鳴き声が聞こえた。

 窓の隙間から晩夏の夜風が流れ込む。前髪を撫でる風に私は幾ばくか肌寒さを覚えた。


 か細い音。小さな鈴虫の同胞を呼ぶ鳴き声が一匹分、寂しく響き渡る。


 (…………)


 いつから、一人の夜がこんなにも寂しいと感じるようになったのだろう。

 電気も点けぬまま、テレビの前のソファに座った私はふとそんなことを思った。


 先程の出来事が頭を過ぎる。

 「散歩に行ってくる」と部屋を出て行こうとする死神の背中は震えていて、私はその背中に縋るように声を漏らした。


 本当は、何を隠しているの。

 行かないで。

 ずっと、私の傍にいてよ。


 ――喉まで出掛かったその一言がどうしても言えなくて、現実の私は情けなく「気をつけてね」と声を震わせることしか出来なかった。


 《俺、戻ってくるから。必ず戻ってきて君を守るから》

 《だから、待っててくれ》


 散歩に行く者の台詞とは到底思えない大仰な台詞。

 嘘つきは優しく微笑んでから、窓枠に足を掛け闇夜へと消えていった。



 冷蔵庫からコロン、と氷の落ちる音が響く。

 暗がりのリビング。壁時計の針が時を刻んでいく。


 「あー。もう、ミタのことなんか知らないんだから!」


 私は咄嗟に立ち上がり、ソファの前で仁王立ちになって踏ん反り返った。


 「こうなったら、深夜にプリン食べてぶくぶくに太ってやる」


 考えても仕方ないことは考えても仕方ないのだ。

 こういう時は、禁断の深夜スイーツに手を出すに限る。私はリビングの明かりを点けてから、勇み足で冷蔵庫へと向かった。


 冷蔵庫の扉を開けると、中から青白い明かりが差した。扉の中から冷気が流れ出て、熱の籠った思考を冷やしていく。

 惣菜の並ぶ冷蔵庫の中に残されたプリンはたった一つ。最後のプリンを片手に、私は再びソファへと向かおうとしたのだが――


 「姉貴……それ、俺が食おうと思ってたプリンなのに……」


 丁度同じタイミングで、両目を丸くした弟と鉢合わせることになった。


―――――――――――――――――

第三十三話 分かってるから。

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 冷蔵庫に残るプリンはたった一つ。

 激しい争奪戦の後、聖戦を制したのは拓也の方だった。


 闘いに敗れた私は仕方なくホットミルクを入れることにした。

 はちみつを混ぜたお手製のミルクを片手にリビングへと向かう。一方、勝利のプリンを手にした弟は自室に戻ろうとしたのだが、折角なので、と私に呼び止められた途端不審そうに眉を顰めた。


 昔なら嬉しそうにはしゃいでいたのに。

 肩を落とし諦めて一人リビングに向かった私だったが、ふとソファが沈む感覚に左隣を見やれば、気恥ずかしそうに「仕方ないからな」と呟く生意気な弟の姿があった。



 物言わぬテレビの前で、並んで座る姉と弟。

 無言の沈黙を破るため、私は咄嗟に「私にもプリン一口頂戴」と言葉を投げ掛けてみせた。一方、カップに入ったプリンを頬張っていた弟は呆れたようにぷい、とそっぽを向いて一言。


 「やるわけねぇだろ。さっき勝ったの俺だし」

 「えー。いいじゃん、ちょっとくらい。お姉ちゃんにも分けてよ」

 「悪いけど、もうほとんど食べ終わったところだから」


 ほら、とこちらを振り向いた弟の手元にあったのは、ほとんど空になったプラスチックの容器だった。

 私は苦笑いを浮かべながら、「私も食べたかったなあ」と軽い愚痴を一つ。そんな私を横目に、相変わらず生意気な弟は勝ち誇ったような笑みを浮かべていたので、私は不満げに頬を膨らませる。

 いつも通りの他愛無いやり取り。単なるあたり前が唐突に、何故だかかけがえのないものに感じられて、今夜だけはそんな弟を許してあげることにした。


 ローテーブルの上に置いた朱色のマグカップに視線を落とし、陶器製の取っ手に指を掛ける。ホットミルクを口元に運ぶと、立ち込めた甘い香りに些か心が和らいだ気がした。温めたばかりの飲み物に一瞬舌をやけどしそうになったけれど、それは冷えた身体にしみ渡っていく。


 静かなリビングに時計の音色が響く。

 マグカップの中身をほんの少し口に含んでから、私はソファに並んだ左隣の弟に目をやった。


 (拓也ももう、中学三年生だもんね)


 いつから、こんなに背が伸びたんだろう。

 小さな頃は私よりも背が低くて、子犬のように私の後をつけて回っていたのに。


 反抗期真っ只中に突入した弟は、可愛かった昔に比べすっかりひねくれてしまった。

 スウェットにタオル姿。スポーツ刈りにした髪に、私とよく似た焦げ茶色の瞳。

 弟の姿を眺めながら、私は改めて彼の成長を実感した。サッカー部所属の引き締まった身体は中学生とは思えない程で、随分と立派になったものだ。繰り返しにはなるが、私としては、小柄の頃が可愛かったなんて思ってしまう。残念ながら、かつての子犬のような可愛らしい面影は今やどこにも見当たらない。


 大きくなった背中が逞しくて、寂しさに似たような不思議な心地がした。


 《ねえちゃん、ねえちゃん!》

 《みてみて、おしろ作ったんだよ!》

 《ねえちゃん、すきー》


 あどけない幼少の弟の姿が脳裏を過ぎる。

 こうして少しずつ、家族というものは手の届かないところに行ってしまうのではないかと思った。



 遠くの方で、リン、と鈴虫の透き通った鳴き声が響く。夏の終わりに涼しい夜風が向こう髪を撫で、私は不思議と穏やかな心地に包まれた。

 深夜のリビングにあかりが灯る。冷蔵庫から再びコロン、と氷の落ちる音が響く。


 「あのさ、姉貴」


 暫しの沈黙の後、珍しく拓也が話を切り出した。私は驚きを抑えつつ軽く相槌を打った。言い淀む弟を急かさぬよう、視線を逸らして続く言葉を待つ。


 「あ、あんまり無理すんなよ」


 それは、聞こえるか聞こえないか程度の小さな声だった。

 驚いた私は思わず左隣に視線を移す。彼は視線をこちらに向けぬまま、唇を震わせた。


 「その……なんだ、俺がいるからさ。だから、姉貴」


 幾つもの表情を浮かべながら、必死で言葉を探す弟の姿が横にあった。

 珍しい弟の様子に、私は思わず両目を見開いた。


 途端、胸の辺りがむず痒くなって視線を逸らす。朱色のマグカップを両掌に包み込むと、じんわりと熱を感じた。遠くの方から鈴虫が二匹、美しい音色を奏でていた。

 ホットミルクの温もりが湯気とともに私を包み込んでいく。死神の居なくなった心の隙間を、不器用な優しさが埋めていく。


 いつから、こんなに大きくなったんだろう。

 あの日と同じ。生意気ながらも傍に寄り添ってくれる弟の心遣いが嬉しくて、私は気恥ずかしさにはにかんだ。


 「分かってるよ、拓也」


 拓也が本当は優しい子だってこと、分かってるから。


 「いつもありがとね」



 机の上に、空になったプリンの容器とマグカップが並ぶ。

 自室に戻ろうとする弟に「ちゃんと歯、磨きなね」とつけ加えると、弟は案の定不快そうに表情を曇らせた。



 (ミタがいなくたって、私は)


 再び覚悟を思い起こし、私はひとり両掌を握り締める。


 決めたのだから。

 もう、弱音を吐いたりしないと。もう、迷ったりしないと。


 この力はきっと、誰かを守るためにあるから。



 夜空に浮かんだ月に分厚い雲がかかっていく。

 壁に掛かった時計の針が、チク、タク、と時を刻んでいく。




 ―――――――――――――――

 次話から、いよいよクライマックスです。

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