第二十七話 パンドラの匣――後半

 未玖の弟不法侵入者が去った部屋の中で、未玖と俺の二人は揃って無言のテレビタイムを過ごしていた。


 (………………)


 部屋の隅にある四角い箱が人工的な光を放つ。

 やがて番組は次のコーナーへと移りゆく。ポップなタイトルが画面に現れるとともに、狭い部屋の隙間を歓声が埋めていった。


 (やっぱり、気になるな)


 依然として脳裏を掠めるのは、夕方頃から違和感を抱いていた

 それは俺が追い続けている大罪人ターゲットの気配ではないものの、どうにものように感じられて胸騒ぎが止まらないのだ。


 (天界から誰か来てるのか……?)


 番組の内容に集中すべく、俺は一度強く両目を瞑り頭を横に振った。雑念をあらかた排除したところで両目をぱっと開くと、横目に、ベッドの上に腰掛ける未玖の姿が映り込んだ。

 再び前方のテレビ画面へと意識を集中させる。しかし次の瞬間、視界の端に映っていた彼女が突然せわしなく頭を掻き回すので、同タイミングで放たれた渾身のネタも残念ながら右から左へと受け流されていく。


 (なんか未玖、最近様子が変だな)


 彼女は髪をぐしゃぐしゃにさせたまま、何か言いたげな視線をじっとこちらに向けた。

 残念ながら俺はそんな彼女を無視し続けられるほど冷静沈着な性分ではない。折角の至福タイムではあったが、今日は到底味わえなさそうだ。


 俺はハア、と肩を落としてから、歯切れの悪い彼女に対し「どうしたの」と視線をやった。


 すると、未玖は慌てて視線を反らし、あちらこちらに視線を泳がせた。

 心なしか彼女の頬がいつもより紅潮しているように見える。やがて俯いた彼女は手元を弄び続けていたが、やがて顔を上げ真っ直ぐにこちらを見つめた。


 「あ、あのね。ミタ、ありがとね」

 「…………」

 「その。私に生きて欲しいって言ってくれて」


 彼女は照れくさそうに微笑んだ。

 俺は瞬きを忘れ、目を見開いた。


 「ありがとう。こんな私と出会ってくれて」

 「未……」


 言いかけたところで、頭の奥がズキリと痛んだ。


 《ありがとう、■■。こんな私をここまで連れて来てくれて。こんな私を……好きだと言ってくれて》

 《こんな私に……こんなに素敵な景色を見せてくれて、ありがとう》


 焼け焦げたフィルムの景色の中に、涙で顔を腫らしたの笑顔が映る。

 一瞬、未玖が誰かと重なって見えた気がした。


 (また、


 時折、見覚えのない景色が断片的に見えることがある。

 きっとそれは、俺の失った記憶なのだろう。


 それは決して思い出す事の出来ない記憶で、

 僅かに残された細い糸を手繰り寄せ記憶の元を辿ろうとする度、言い様もなくただ震えが止まらなくなるのだ。



 まるで、決して開けてはいけないはこに手を掛けているかのように。


―――――――――――――――

第二十七話 パンドラのはこ

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 「だから、あのね。この先もずっと……」

 「……すまない、未玖」


 君が力を受け容れて、苦しみながら前に進もうとする度に、俺は自分の弱さに心底辟易する。

 そんな君に、俺は空虚な謝罪の言葉を告げることしか出来ない。


 「ミタ……」


 未玖は一瞬目を見開いてから、すぐさまパッと笑顔を咲かせた。栗色の瞳が僅かに潤んで見えた気がした。


 「そっ、そうだよね。いきなりごめんね。ミタは死神で、私は人間なのに」

 「な、なに言って……」

 「わかってる! わかってるよ。私なんか、そんな資格がないことくらい」


 未玖は泣きそうな顔で笑っていた。

 震えを堪え必死で強くあろうとする彼女を見ているうちに、腹の底が熱くなった。細い肩を無性に抱きしめてあげたくなった。


 けれど、嘘つきの自分にはそんな資格などないように思えて、俺はただ弱々しく「ごめん」と漏らすことしか出来なかった。


 (俺が君の運命を捻じ曲げたせいで、君を苦しめている)


 俺は拳を強く握りしめた。

 息を深く吸い、ゆっくりと吐き出す。両目を閉じると、今まで彼女に責任を転嫁し続けてきた自分の情けない姿が思い出された。


 (俺は君に本当のことを言うのが怖いだけなんだ)


 膝の上で握り締めた両手が震えた。

 クーラーの冷たい風が身体の温度を奪っていく。お笑い番組の歓声がどこか遠くの方で聞こえていた。



 以前より時折、断片的な景色が蘇ることがある。それは朧げな色や音を伴って、色褪せた記憶となって頭の中を埋め尽くしていく。

 焼け焦げた景色の中では泣きながら微笑み、こんな俺に感謝を告げるのだ。


 《こんな私に……こんなに素敵な景色を見せてくれて、ありがとう》


 きっとこれは、俺が人間だった頃の記憶だ。

 彼女が誰か思い出せなくて、何度も記憶の糸を辿ろうとした。けれどその度に、どうしようもなく震えが止まらなくなるのだ。

 

 (俺は、本当のことを思い出すのが怖いだけだ)


 自分の情けなさに、心底辟易する。

 俺は拳に力を籠めながら、ゆっくりと息を吐いた。


 リモコンに手を伸ばす。独り賑やかな音を奏でていたテレビを消すと、部屋の中には静けさが広がった。

 彼女は暫くの間何を口にすべきか悩んでいた様子だったが、やがてベッドに背を預けごろんと横になり、天井を見上げたままポツリと零した。


 「ミタは人間だった頃、二十一歳で死んじゃったんだよね」

 「…………」


 享年を知ったのは、死神として『あの人』にこの名前を与えられた時。

 その時から俺は人間として生きていた頃の記憶を持たなかった。死神はただ『あの人』を守るために存在し、そのために過去の記憶は邪魔でしかないから。


 《こんな私に……こんなに素敵な景色を見せてくれて、ありがとう》


 だから、「君」のことなんて思い出したくない筈なんだ。


 「ねえ、ミタ」

 「…………」

 「いつか死んじゃうとしたらさ、私もミタみたいに死神になるのかな」


 天井を見上げながら、彼女は細い声で呟いた。

 俺は何と声を掛けるべきか分からず、彼女が震える声を押し殺しているのをただ黙って眺めていることしか出来なかった。


 気がつけば、ゴクリと唾が喉を通っていた。


 「ミタはさ。私が死ぬまで監視してなきゃいけないんでしょ?」


 それは、俺が最初についた嘘。

 自分のせいで君を巻き込んでしまった罪悪感に耐え切れず、咄嗟についた嘘だ。

 心の優しい君が苦しむのを見ていられなくて、放っておいたら君が死んでしまいそうな気がして、だから俺は――


 「だったら、私が死ぬときはミタに隣にいて欲しいな」

 「…………!」

 「一人で死んじゃうのは……怖いから」


 未玖は震える声で笑っていた。

 俺は両手を強く握りしめ、小さな声で「君を死なせたりしない」と呟いた。


 (君を死なせたりしない。だから)


 ――俺は、君をこれ以上に巻き込む訳にはいかないんだ。



 やがて夜が更けていく。

 深夜。電気を消した薄暗い部屋に、彼女がすうすうと寝息を立てる音が響く。


 (確かめに行かないと)


 音を殺して椅子から立ち上がると、壁沿いに小さくなって横たわる未玖の姿が目に映った。

 はだけた布団を再度肩に掛け直してやりながら、俺は心中で「すまない」と謝罪した。


 依然として気になっていたを探るため、俺はこっそりと部屋を後にした。

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