第二十八話 星空の下――前半
深夜。
静かな住宅街を屋根伝いに駆けていく。
《ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて》
《私は、受け入れるよ。この力を。この運命を》
《私が死ぬときは、ミタに隣にいて欲しいな》
《一人で死んじゃうのは……怖いから》
「……近いな」
本当は俺にだって分からないんだ。
未玖についた「嘘」を告白する。君が力を手にした本当の理由を告げる。俺が下界で果たさなければならない使命を告白する。
そうすれば、俺がずっと抱いていたこの罪悪感も少しは消えてくれるかもしれない。
けれど、君に本当のことを伝えたらどうなる?
「……やっぱり出来ない」
人間なんて、どうでもいいと思っていた。
でも、君だけは守りたいと思ってしまったから。
だから俺は、君をこれ以上
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第二十八話 星空の下
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住宅街から少し離れたところに、小さな森が一つ。
妙な気配を辿った先にあったのは、森の中にある寂れた公園だった。
気配の正体は、灯りの下のベンチに座っていた。
公園の中にたった一つだけ灯った電灯。白いワンピースを着たその人物は、眼前に広がる街の景色を眺めていた。
夜の森がふわりと香る。
彼女の背中に手を伸ばそうとしたところで、彼女は前を向いたまま、ふふ、と笑った。
「そろそろ来てくださると思っていましたよ。
周囲の枝葉がそよぎ、灯りに照らされた白いワンピースが暗闇の中で映える。
こちらを振り向く彼女。彼女が微笑んだ瞬間、金糸の髪が舞い、
「総督様……どうして」
「ふふ、驚きましたか?」
「総督」と呼ばれた彼女は、かくれんぼで戯れる子供のように悪戯っぽく笑ってみせた。
口元に手をあてクスクスと笑う女神様に内心ムッとした俺は、眉根を寄せたまま尋ねた。
「あの。こんなところで何をしているんですか」
「さあ、何でしょう」
彼女が
天界では随分と彼女の傍にいたけれど、彼女が真面目に執務に励む姿を俺は果たしてどのくらい見ただろうか。すなわち、大方サボりに来たに違いないのだ。
「冗談ですよ。たまには下界に足を伸ばそうと思って来てみたんです」
「そうですか。というか、どうしてあなたは
「ふふ、質問続きですね」
「はぐらかさないで答えてください」
「べ、別にはぐらかしているわけじゃないんですよ!」
俺が鋭い視線を向けると、彼女は慌てて弁明した。
上半身だけこちらに振り向いたまま手元で指を弄ぶ彼女。口を尖らせながら、白いワンピースの女神様は悪戯がバレてしまった子供のように頬を赤く染めた。
「だって、休みで来ているんですから。下界の人間の誰とも話せないなんて
「はぁ。またそうやって……」
俺は完全に呆れながら、「力の無駄遣いですね」と吐いた。この人は何でもかんでも面白くしようとするから困るんだよな。
無邪気な
「折角ですから、少しお話しましょう」
彼女が手招くので、俺は肩を落としたまま彼女の元へと歩を進めた。
彼女の隣に座る。木製のベンチは初め少し冷たかったが、やがてじんわりと温もりが伝っていった。
彼女と目線を揃え、眼前に広がる深夜の街を眺める。寝静まった街のところどころで、ぽつりぽつりと灯りが灯っているのが見えた。
目下に続く公園の景色に視線を落とす。
錆び付いた階段の手すり。消えかけた道案内の看板。真ん中にある水の止まった噴水が、余計に寂寥感を煽っていた。
修理すれば良いのに。
物悲しさしか感じられないその噴水を見ながら、俺は心の中で言葉を吐いた。
「下ばかり向いてないで、ほら。見てください」
隣の彼女は嬉々とした声で頭上を指さした。
腹の奥底に生じた僅かな倦怠感を押し殺しながら渋々顔を持ち上げると、そこに広がっていた景色に俺は思わず声を漏らした。
(あ…………)
群青色の空を埋め尽くしていたのは、息を飲むほどの、満天の星だった。
夜風が肌を撫で、背後で草木が穏やかに音を立てる。
頭上いっぱいに広がる星空は手に届きそうなほど近くに感じられて、気がつけば俺は、大小さまざまな光の粒達が瞬きを繰り返すのをただ無心で眺めていた。
「下界の空はこんなに綺麗なのですね。久しぶりに見た気がします」
隣から彼女の声が聞こえて、俺は視線をワンピースの彼女へと移した。
頭上を眺める彼女は、碧い瞳の中に幾つもの星々を閉じ込めたまま、懐かしいものでも眺めるように微笑みを湛えていた。
すぐ隣の自動販売機がヴーン、と音を鳴らす。彼女は「実はそこで買っちゃいました」と笑ってから、俺に温かいミルクティーを差し出した。
差し出された250mlのペットボトルに視線を落とす。「深夜の紅茶」と書かれたパッケージを見るや否や、砂糖のたっぷり入った甘いホットミルクティーの味が想起された。甘いものに目がないこの人らしいチョイスである。
右手の指にはめられた金色の指輪が視界に映り、ふと、天界で聞いた彼女の話が頭を過ぎる。
(
俺は「ありがとうございます」と謝辞を述べてから、彼女に天界の様子を尋ねることにした。
「そういえば、向こうの皆は元気ですか? こっちにはほとんど連絡がないものですから」
「あら。確か、連絡係の子は『通信した』と言っていたのですが」
「……そうですか」
(あの野郎)
俺はコートのポケットに入っている電信機をチラリと一瞥した。
下界に来てからというもの、俺の電信機には何の音沙汰もない。俺はお世辞にも仲が良いとは言えなかった白髪の同僚を思い浮かべながら、心の中で悪態を吐いた。
僅かに肩を落とす俺の姿を見て、隣に座る彼女は励ますように俺の手を取った。
「大丈夫です。ほら、もし下界で一人寂しくなったら、その時は
「……何ですか、これ」
「先日特注した私のミニぐるみです」
「いりません」
彼女はええ、と目を丸くしてから「貴方が寂しいかもしれないと思って折角用意したのに……」と項垂れた。いらないものはいらないのだから仕方がない。
少しの間つまらなそうに唇を尖らせていた彼女だったが、立ち直りの早い彼女は「それより」と自ら話題を切り替え、再び瞳を輝かせた。
「下界はどうですか、ミタ? 楽しんでます?」
この純粋無垢な瞳から察するに悪意は無いのだろうが、それが今の俺に掛けるべき言葉でないことは確かだった。
俺は恨みがましくため息を吐いてから、天真爛漫な女神様に不満を垂れる。
「あなたの思考回路は本当に毎日が休暇でいらっしゃるようですね。俺はこっちに飛ばされて大変だというのに」
俺は精一杯の皮肉を込めて呟いてから、彼女の方をジトリと睨みつけた。
予想外の反応に戸惑ったのか、彼女は慌てたように言葉をつけ加える。
「いえ、別に悪気があって言ったわけではないんです! 本当に! それに、私だって休暇以外にも
「へえ、目的が。どんな目的ですか? 言ってみてくださいよ」
「そ、それは」
彼女は視線を右往左往させた後、目を伏せて小さく呟いた。
「言えない……ですけど……」
ほら、やっぱり無いじゃないですか。
俺は口を尖らせたまま、「そうですか」と再びため息を零した。
星空の下。公園に冷たい夜風が流れ込み、甘い香りが鼻をくすぐる。
隣を見やると、彼女は俺に差し出したのと同じ種類のものを口にしていた。飲み口から湯気が立っているのを見て、俺も手元のミルクティーのキャップに手をかけ、飲み口を口元に運んだ。
彼女に貰ったミルクティーは予想通り甘かったけれど、どこか優しい味がした。この人らしい温かさが、冷えた身体の隅々に広がっていく。
「例の死神は、捕えられそうですか」
「…………!」
彼女の声はとても穏やかだった。一方俺は、何を伝えるべきか言い淀んでしまった。
俺は、天界の牢獄を抜け出した大罪人を追うために、この人に命じられて下界にやって来た。
けれど、俺は未だに奴と対峙することすら出来ていない。それどころか関係のない人間すら巻き込んでしまった。
「俺は……」
口を開きかけたところで、彼女のポケットから突如、幻想的な静けさを打ち破るような
バスドラムの効いた重たいサウンドは、雰囲気をぶち壊すには十分だった。
「出なくていいんですか」
「いいんです! 私はちょっと働き過ぎだと思うんです、たまには休まないと」
天界では随分と彼女の傍にいた気がするが、彼女が真面目に執務に励む姿を果たして俺はどのくらい見たのだろう。
俺は「あなたはもうちょっと働いた方が」と口にしようとしたものの、先程から鳴り響く場違いな音楽がすべての思考を破壊するので、そちらの方を先に指摘せざるを得なかった。
「その音楽、どうにかできないんですか」
「むぅ。別にいいじゃないですか。あの人が好きだったんです、こういう、脳細胞を破壊する曲」
彼女は「好みは人それぞれなんですから」と主張していたものの、俺の向ける鋭い視線に渋々、電信機の音を止めた。
「脳細胞を破壊する」というパワーワードが些か頭の隅に引っ掛かったが、どこか懐かしそうに天を眺める彼女の横顔を、俺は大人しく眺めることにした。
再び静かになった森に風が流れてゆく。
「その人、その……音楽が好きだったんですね」
「ええ。私にも色々な曲を教えてくれました」
彼女は天を見上げたまま、懐かしそうに零した。
星々を閉じ込めた碧い瞳から、一粒の雫を零した。
「聡明で、とても優しい方でした。明るい彼女はよく冗談を言って私を笑わせてくれたんです」
「…………」
「あんなことが起こらなければ、今頃……」
彼女の表情に暗い影が掛かる。
頬を伝う雫はやがてぽたり、と彼女の手の甲に落ちた。
「またその話ですか。――剣で貫かれ絶命したという、
天界にいた頃、彼女の傍にいた俺はよくこの話を聞かされた。
総督に刃向かい処刑されたとされる、裏切り者の死神の話を。
《ずっと昔――俺達の仲間が一人、下界に降り立った。その人物は、ある力を持っていた》
《魂を天界に転送する力――君が、俺から奪い取った力だ》
《
初めて下界に降りたとされる死神の話を。
初めて「死神」と名乗った、
大切な存在を失った女神様の姿は、俺の目にはいつも、どこか寂しそうに映った。
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