第二十七話 パンドラの匣――前半

 リモコンの「再生」ボタンを押した瞬間、きらきらしい電飾と共にドッと音が弾ける。

 俺は椅子に逆向きに座り、背もたれに顎を乗せながら、手慣れた手つきでテレビの音量を調整した。


 (よし。今朝録画予約しておいた『クイーン・オブ・コント』がようやく見られるぞ)


 この部屋の主である蒲田未玖のバスタイムこそが、俺にとっての至福の時だった。

 部屋の中に一人残された俺は、誰にも邪魔されることなく声を出して笑う。

 夕方頃から感じていたを今だけは意識の外に押しやり、俺は貴重な至福タイムへと全神経を集中させた。


 「下界の芸人もなかなかやるな。この絶妙に滑っている感じがまた」


 一人頷きながら感心していたところで、背後からガチャリ、と扉が開く音がした。

 未玖にしては早すぎる。この俺の至福の時を邪魔することは誰にも許されないというのに。


 (一体、何だっていうんだ)


 肩を落としてから、恨みがましく心中で舌打ちを一つ。

 集中を阻害した悪の根源に対し恨み節を唱えつつ、背後にくるりと首を動かすと、そこには――



 「姉ちゃん、テレビ点けっぱなしじゃないか」


 思いがけぬ人物の姿に、俺は驚きのあまり瞬きを数回繰り返した。

 突如襲来したこの人物がこの部屋の主の弟、蒲田拓也であることを俺は即座に理解する。彼は点けっぱなしになったテレビを一瞥してから、呆れた様子でリモコンへと手を伸ばした。一方俺は、必死に「ちょっと待ってくれ」「今いいところだから」と抵抗するも、普通の人間には見えない・聞こえない俺の主張はテレビの音と一緒に空しく潰えるのだった。


 (ああ……俺の唯一の楽しみが……)


 項垂れる俺のすぐ隣で、俺の存在に全く気がつかない彼は考え事をしながら何やら呟いていた。

 一体何をしに来たのだろうか。念仏を唱えるだけだったら、頼むから自分の部屋でやってくれないだろうか。


 「ヴィータさんは部屋に入ってみれば姉貴の隠し事が分かるって言ってたけど……一体何なんだ」


 俺は蚊を追い払うような手つきでお引き取りを願うポーズをとっていたものの、決して届くことのない威嚇ほど空しいものはなく。

 テレビをもう一度点けて驚かせてやろうかとも思ったが、部屋の主が後々面倒な説明責任を押し付けられることは想像に易かった。ただでさえ憑かせていただいている身、流石の俺でもそこまでの所業は憚られた。失意の中僅かばかり残されていた理性が、実行中止を選択する。


 彼はしばらく逡巡した後「この部屋に何か隠してるってことなのか?」と首を傾げ、部屋中のあらゆるものを物色し始めた。

 それから、弟の手はピンク色の箪笥たんすへと向かったのだが、


 (いやいや、ちょっと待てお前。そこは――)


 開けてはいけない、禁断の。

 それが勢いよく開かれた瞬間、中に並んでいた下着を目にしてしまい罪悪感に駆られ葛藤する中学生男子の像が出来上がったのは言うまでもない。


 (うん。まあそうなるよな)


 分かるぞ、弟よ。俺もこの前間違えて開けちゃったし。

 でもその中を確認しても、未玖の割と小ぶりな下着が出てくるだけだぞ。


 俺は「未玖にバレたら殺されるから絶対に言えないけど」とつけ加えてから、改めて弟の動きを観察する。


 視線の先には、一つの見事な石像が出来上がっていた。

 中学生にしては図体逞しい石像は、やがて覚悟を決めたのか、ゴクリ、と喉仏を上下させた。


 というか、何をやっているんだ。けしからん。俺もやったけど。


 「でも、もしかしたらこの中に……」


 弟が手を伸ばそうとした瞬間、お風呂から上がった未玖が階段の下から呼び掛ける声が聞こえた。

 タン、タン、と階段を上る音が響く。

 目前の不法侵入者は兎が跳ねるかのごとくぴょん、と飛び上がってから、慌てて部屋を飛び出したのだった。



 「ていうか、本当に何しに来たんだよアイツ」


 俺は呆れ交じりに息を吐き出した後、再び黒椅子の背もたれに顎を乗せ、リモコンを手に取った。

 電源ボタンを押し、リモコン上で人差し指を滑らせる。「まあいいか。それより、」手慣れた手つきで録画メニューに戻してから、俺は「視聴再開」ボタンの上にカーソルを動かし「再生」ボタンを押下した。


 「ようやく続きが――」


 殺風景だったテレビ画面に再び賑やかな映像が映し出されたところで、扉の奥から頓狂とんきょうな声が耳に飛び込んできた。

 おそらく今しがた部屋を後にした不法侵入者が、階段を上がりきった未玖とすれ違ったところなのだろう。廊下に響く彼の声はいつもより高いトーンで、普段の冷静な彼らしからぬ様子であることが容易に窺えた。

 俺は静かにしてくれと願う反面、珍しく狼狽する弟の様子が気になり、ほんの少しだけ耳をそばだてる。


 「どうしたの、そんなに慌てて」

 「あ、慌ててなんかねーし」

 「あ。さては拓也、お姉ちゃんの部屋にこっそり侵入してたな?」

 お、鋭いな未玖。

 「はぁあ? そんな訳ないだろ?! 気色悪い想像すんな!」

 はいダウトォォ!


 廊下に響き渡る彼の声のトーンが一際高くなる。

 俺は思わず吹き出しそうになるのをグッと堪えるので精一杯だった。



 それから程なくしてパタ、パタ、とこちらに向かって廊下を歩く音がして、背後から「入るね」と声が掛かった。

 ガチャリ、とドアが開く音がして、ふわりとシャボンの匂いが香る。未玖は濡れた髪をふかふかのタオルに包みながら、ベッドにぽふ、と腰を掛けた。


 背もたれに顎を乗せたまま、横にいる彼女をチラリと一瞥する。

 ハート柄の散りばめられた薄手のパジャマ。下半身へと視線を落とせば、短めのズボンから柔らかな太腿がちらりと目に入り込んだ。未玖が「何?」と無垢な瞳を向けるので、俺は何だか気まずくなって咄嗟にテレビの画面へと視線を戻す。


 「ミタ、何の番組見てるの?」

 「…………!」


 今まで散々面白くないだの何だのとなじられてきたけれど、ようやく興味を抱いてくれたとは。

 些か気分が高揚する。


 「よくぞ聞いた、未玖。これは『クイーン・オブ・コント』といって」

 「はは、面白そうだね」

 「台詞が棒読みだぞ! いいか、この番組は――」


 彼女は「ミタが楽しそうだから嬉しくて」と微笑んだ。何がそんなに面白いのかは分からないけど、と最後につけ加えたのが余計ではあったが、まあいい。この面白さは少しずつ布教していくとしよう。


 「このパジャマだけだとちょっと寒いかなあ」


 エアコンの風を受け身震いを一つした未玖は、立ち上がり、薄桃色の箪笥たんすへと向かう。

 俺が「あ」と声を漏らしたと同時に、異変に気がついた彼女は「あれ?」と小首を傾げた。


 「私、開けっ放しにしてたかな……」


 (あのバカ野郎!)


 先の不法侵入者に対し心中で罵声を浴びせる。一方、絶望的に鈍感な未玖は「気のせいかな」と呟いた後引き戸を閉めたので、ただの傍観者に過ぎなかった俺も、何故だかホッと胸を撫で下ろしたのだった。

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