第二十四話 届かない虹

 蒲田未玖の唯一無二の弟、蒲田拓也は悩んでいた。


 サッカー部の朝練を終え、汗ばんだ部室内で部活仲間が忙しなく着替えている最中も。

 教室に向かって部活仲間と共に廊下を歩いている最中も、彼は一人思案を巡らせていた。


 予鈴が鳴るまであと少し。

 廊下には数人の生徒達がたむろしていて、他愛無い会話で盛り上がる中学生達を通り抜けながら、彼の思考は昨晩の光景へと移りゆく。


 (姉貴、一体誰と……)


 思考に没入したままふと足を止める。

 先程まで隣に並んでいた部活仲間達は相変わらずくだらない話で盛り上がっていて、彼一人が欠けたことに気がつかぬまま前を進んでいく。


 顔を上げると、いつもの景色が広がっていた。


 廊下に並んだ幾つもの窓ガラスから淡い光の柱が差して、白い廊下に四角い陽だまりを描いている。

 周囲を取り巻く賑やかな声が次第に遠ざかっていく。

 水道の蛇口からピチャン、と雫が垂れる。雫は陽の光を反射し、逆さの景色を宿したまま水溜まりの中へ吸い込まれていった。


 「……だ、……刻だ」


 視界の先で、こちらに手を振る部活仲間の影が虚ろに揺れている。

 それから誰だろうか――後ろの方から、聞き馴染みのある女子の声が聞こえるような気がした。


 意識を少しだけ現実世界に戻しながら、彼は前方にいる仲間達に向かって「ああ、ごめんごめん」と口を動かす。

 銀色の蛇口に丸みを帯びた水滴が溜まり、再びピチャン、と雫が落ちる。


 「やっべぇ、やべぇ。遅刻だっ」


 背後から聞こえてくる音は次第に大きくなっていく。

 子供っぽい高い声と共に、ドドド、と走る音がこちらに近づいてくる。一体何事かと思った矢先、ゆるりとした思考は次の瞬間、強制的にシャットダウンさせられることとなった。


 強い衝撃波と共に視界が揺れる。

 何事かと振り返ると、ぶつかって来た小さな背丈の彼女はヘラヘラと笑いながら、全く気持ちのこもっていない謝罪を告げた。


 「おおっと、わりぃ悪ぃ。って、蒲田かよ!」


 彼女はビシっと彼を指差してから、何が面白いのか、追突してきた加害者であるにも関わらず全く悪びれる様子なく吹き出した。彼女に覚えのあった彼は、「……ああ、お前か」と肩を落とす。

 心ここに非ずといった彼の様子を見た彼女は首を傾げながら暫し観察していたが、やがて白い歯を輝かせてニッと笑った。


 「お前、ぼさっとしてると遅刻するぜ?」

 「…………」


 同時に、廊下に予鈴の音が響き渡った。

 彼女はポニーテールをぴょん、と跳ねさせてから、再び廊下をダッシュする。先程衝突された背中にじんわりと痛みが広がっていくのを感じながら、彼は心中で「朝から元気な奴だな」と文句を垂れるのだった。


  ☆★☆


 昼休みの間も、拓也は一人物思いに耽っていた。

 それもそのはず。彼は昨晩を目にしてしまったのだから――。


 「んだよぅ、辛気臭ぇ面しやがって〜」


 隣の席からジトリとこちらを睨んでくるのは、今朝方追突してきた彼女である。

 「何でもねぇよ」と小さく呟いてから、彼は藍色の弁当包みに手を掛けた。


 「どうした、話くらいなら聞いてやってもいいんだぞ」

 「別に、お前には関係ねぇよ」

 「おまえ! 朝からため息ばっかで、隣のあたしにとっちゃいい加減うぜーんだ。あたしのためにも、早く元気出せよ?」

 「…………」


 「な?」と付け加えてから、彼女は再び白い歯を見せた。

 彼女は清々しい程の伸びを一つしてから、悪戯っぽく付け加える。


 「その代わりあれな、購買のいちご牛乳奢りだ」

 「なんだよ、はた迷惑な親切の押し売りだな」

 「あたりめーだろ。タダでこんな話する訳ないじゃん」


 屋上にて。

 青空の下、いちご牛乳と書かれた紙パックを手に伸び伸びと両手を広げる身長百四十センチの小柄な背中を見ながら、拓也はを共有すべきか否か迷っていた。


 「良い天気だなー。で、何悩んでんだ?」

 「…………」


 誰もいない屋上に爽やかな風が吹いて、こちらを振り向いた彼女の制服のスカートが揺れる。

 遮るもののない青空は澄んでいて、顔を上げると日の光が染みて目が眩んだ。手に届きそうにないほど高い雲が悠々と浮かんでいる。やがて隙間から太陽が顔を出し、地上に眩しい陽射しが降り注いだ。


 (こいつになら……)


 は、今まで誰にも話したことがなかった。

 席替えで隣になって以来彼女とは何度もくだらない話をしてきたし、彼女が信頼の置ける人間であることも分かっていた。けれど、彼にとって姉の話を誰かにするというのは初めてのことであり、同時にそのことが彼自身にとって高いハードルとなっていた。


 後ろから風が拓也の背中を押す。

 彼はようやく意を決し、ゆっくりと重たい口を開いた。


 「なあ。もし……」

 「おう」

 「もし、自分の姉貴が、お前どうする?」


 「……は?」


――――――――――――――

第二十四話 届かない虹

――――――――――――――


 「つまり要約すると、お前の姉ちゃんが部屋で一人誰かと話しているところを目撃したと」

 「そうだよ」

 「んー。こっそり男でも連れ込んでるんじゃね?」

 「そんな訳ないだろ!」

 「うわ。否定が早すぎてドン引きしたわ」


 目の前の女子生徒は屋上のフェンスにもたれかかりながら、高い声でケラケラと笑った。それからいちご牛乳のストローを口に運び、呆れた口ぶりで「現実を受け容れろよ」の一言。

 一方彼は、柵の前にある青いベンチに座ったまま黙り込んでいた。無言で弁当を食べ進める彼の脳裏に、昨夜見た光景が思い浮かぶ。


 (姉貴、何で泣きそうな声だったんだ)


 あの時、暗がりの中で震える声が聞こえた。

 姉が誰と話しているのか、何を話しているのかは彼には分からなかったが、あれ以来違和感がしこりとなって残り続けていた。


 「絶対に。姉貴は何か、大事なことを隠してるに違いないんだ」

 「だから、男だろ?」

 「そう、男だ。って違う!」

 「ふーん。お前、姉ちゃんのこと随分と心配なんだな」

 「そ、そんな訳ないだろ。俺はただ、いつもと違う姉貴の様子が気になるだけだ!」


 普通そこ無関心なんだよな、と思いつつ、彼女は呆れたように肩を落とした。

 緑の柵にもたれかかりながら、いちご牛乳のパックを握る手に力を籠める。彼女は暫く思考を巡らせた後、やがて閃いたようにニヤリと口元を歪ませた。


 「なあ、蒲田。お前の姉ちゃんが誰と話してるのか、教えてやろうか?」

 「な……何だよその顔」


 拓也が「知ってるなら早く教えろ」と続きを促すと、彼女は再びストローを口に運びニヤニヤと顔を歪ませた。

 いちご牛乳のパックが空になりズズ、と音が響く。中身のなくなったパックをくしゃと潰してから、ポニテ女子は何もない空を虚ろな目で眺め、ゆっくりと言葉を紡いだ。


 「簡単なことだよ。お前の姉ちゃんが話してるのは……」


 ぴょんと段差を降りベンチまで歩み寄った彼女は、拓也の耳元に口を近づけ、いつもより一オクターブ低い声で囁いた。


 「この世のものではない、誰か……」

 「…………!」

 「ってのは、冗談だけどな!」


 あっけらかんと笑いながら、彼女は「やっぱりお前、幽霊苦手なの面白すぎるんだけど」と甲高い声を上げた。

 一瞬全身を硬直させていた拓也だったが、次第にじわりと安堵が広がっていくにつれ僅かに恥辱と怒りが込み上げる。バツが悪くなった彼はそのまま目の前の小さなコロポックルの頭をぐりぐりと押さえつけた。頭に生えた茶色の尻尾をふりふりと揺らしながら、小人は必死に抗議の声を上げる。


 「やめろやめろ~、背が縮むだろ!」

 「今更縮んだところで何も変わんねぇよ」

 「何だと蒲田~! あたしは今、絶賛成長期なんだぞ」


 ようやく彼の手を逃れたところで、彼女はふんす、と胸を張り「いつか絶世の長身美女になってやる」と主張した。

 到底叶いそうにもない荒唐無稽な夢を前に、拓也は自分の悩みなど些細なもののように感じて、思わず声を上げて笑った。


 そんな彼の姿を見て、少女は安堵したように、困ったようにして笑うのだ。


 「じゃあな、あたしは先戻ってるからさ」

 「…………」

 「いちご牛乳、また奢ってくれよな」


 屋上に爽やかな風が吹き、淡い光の粒が舞い降りる。

 彼女はにぱっと笑ってから、くるりと背を向け去っていった。



 「俺、ただ揶揄からかわれただけじゃねーか」


 一人になった屋上で、青いベンチに座ったまま、彼もまた空を見上げ困ったように笑った。

 緑の柵よりも遥かに高いところで薄い雲が伸びていた。少し視線を落とすと、校庭に虹が掛かっているのが見えた。手を伸ばせば届きそうな気がして何気なく手を伸ばしてみたけれど、それは想像以上に遠いところにあって、自分一人の力では到底辿り着けないことを思い知る。


 なんてことはない、当たり前の話だ。


 (姉貴……)


 思案を巡らせる度に思い出すのは、あの夜のこと。

 あの日は土砂降りの雨だった。傘も差さず、全身を雨で濡らして帰って来た姉を目にした瞬間、彼は言葉を失った。


 その日の出来事がいつまでも、頭から離れない。

 泣きじゃくりながら、姉は初めて弟に弱さを見せた。


 友達と喧嘩して帰って来たときも、恋人に裏切られたときも、いつだって姉は他人に弱さを見せなかった。

 小さな動物が強がっているのを見るのは耐えられなくて、何度だって手を伸ばそうとしたのに、いつも小さなプライドが邪魔をした。

 無理やり貼り付けた姉の笑顔を見る度に、彼は胸の中で何度も「もう無理をしないでくれ」と願った。


 そんな意地っ張りな姉が、あの日初めて弱さを見せたから。


 (何があったっていうんだよ……)


 空になった弁当箱を片付けながら、彼はため息を一つ。

 あれだけ眩しかった太陽は雲に隠れ、涼しい風が汗ばんだ肌を撫でていく。雲の影になったベンチを通り抜ける空気は些か冷たくて、誰もいない屋上で一人、彼は身震いをした。


 あの日から姉の様子がおかしいのは明白だった。

 安堵は不安に変わり、やがて疑念へと変わっていく。


 時折、姉の部屋から声が聞こえてくることがある。

 まるで誰かと話しているかのような声。初めは長電話でもしているのかと思っていたが、どうやらそんな様子でもなさそうだった。


 まさか男でも連れ込んでいるのでは。

 その疑念に行きついた矢先、彼の身体はバネのように飛び起きた。


 昨晩。壁越しに聞こえてきた姉の声に先の疑念を抱いた彼は、音を殺して姉の部屋へ向かった。

 扉を開けた彼が目にしたのは――誰もいない空間で一人、まるで誰かと会話するかのように姉の姿だった。



 あの日から、姉の様子がおかしい。

 あの日の事を、姉は一言も話さない。


 「姉貴の話し相手、確かめた方が良いんだろうか……」


 校舎全体に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。

 どこまでも高い青空の下、彼は立ち上がり、到底届きそうにない虹に再び手を伸ばすのだった。

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