第二十二話 もう一度、天使の微笑みで
その夜。
お風呂から上がり真っ暗な部屋の明かりをつけると、いつもの自室の光景が広がっていた。
散らかった部屋。片付けるのが面倒で積み上がったままの教科書達。
ベッドの上のテディベアが相変わらず感情のない瞳をこちらへ向けていた。
濡れた髪をタオルで整えながら、窓際に歩み寄る。
何も無い空をチラリと見やり、私は今夜も一つため息をついた。
透明な窓ガラスが一瞬だけ曇った。
橙色のカーテンをピシャリと閉め、くるりと窓に背を向ける。
死神の居ない部屋は妙に静かで、扉の隙間から冷えた空気が入り込んだ。埋まらない隙間を誤魔化すべく、私は徐に
(録画、いっぱい溜まってる)
いつの間に予約録画をしていたのだろうか。録画リストには彼の好きそうな「お笑い番組」がいくつも並んでいた。
試しに一つ「視聴開始」ボタンを押してみると、色鮮やかなテロップがテレビ画面を埋め尽くし、同時に賑やかな音声が溢れ出した。
(……いつから帰って来てないんだっけ)
あれから何日か経ったけれど、ミタはまだ帰って来ていない。
テレビから活気に満ちた笑い声が溢れ出す。赤いパンツを履いた芸人が腑抜けたことを言っては観客の笑いを誘っているが、私には何が面白いのかさっぱり分からなかった。
一枚隔てたガラスの外側を、数多の笑い声が通り過ぎていく。
それらの全てが「与えられた笑い」に思えて、空しくなった私は再びリモコンに手を伸ばしテレビを消した。
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第二十二話 もう一度、天使の微笑みで
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再び、静けさが訪れた。
壁に掛けられた時計の音が響く。机の上に置いたスマートフォンが振動して、ロック画面にコミュニケーションアプリの通知が表示された。
机上にチラリと視線をやると、通知画面には弟からの
「『今日の風呂掃除サボんなよ』って……直接言いに来ればいいじゃない」
ひとまず当たり障りのないスタンプを返し、ため息の後に私はぼんやりと天井を見上げた。
背もたれが軋み、キィ、と乾いた音が響く。
何もない真っ白な天井を眺めていると、ふと感情が漏れ出した。
(なんか、寂しいなあ……)
ぼんやりと懐かしい想い出が蘇る。
思い馳せるのは、取るに足らない日常。
所構わず話しかけてきては
天界で仕事をサボっていたからと追い出されたにも関わらず、性懲りもなくサボタージュを試みていた死神のこと。
授業中、私の勉強を邪魔してきた死神のこと。
いつも、傍にいてくれた死神のこと。
辛い時、私を支えてくれた死神のこと。
《ほら、帰るぞ。君の家に》
私の頭を撫でてくれた、死神のこと。
その温もりに安堵していたこと。
その温もりに救われたこと。
(早く会いたいなあ……)
その温もりに――
「って、どうして!」
私は思わず椅子から立ち上がり、目をぱちくりとさせた。
突如として込み上げてきた感情を上手く整理することが叶わずに私は、
《もし俺の帰りが遅くなっても、気にしないでくれ》
《待ってるよ、ミタ》
「早く会いたい……なんて」
何だか胸のあたりがもどかしくなって、咄嗟にパジャマの胸元を掴んだ。掌の中でパジャマのハート柄がくしゃ、と縮む。
頭の裏側を去来していく日常。
先日撫でられた頭に手をあてる。瞳を閉じると、今なお鮮明に彼の温度が思い出された。
《俺は、君のことが嫌いだ》
《俺が暇じゃなかったら、絶対にこんなこと言わないんだからな?》
私の事が嫌いだと言った死神の、不器用な優しさを思い出す。
《後で、俺にアイス食べさせてくれたら許してやる》
あのあどけない笑顔がもう一度見られたら。
天使のような微笑みで私に笑いかけてくれたら――
そう思った途端、心臓がキュッと締め付けられるような心地がして、急に胸のあたりがむず痒くなった。
(何考えてるの、私……!)
訳の分からなくなった私は「ああああ」と悶絶しながら、両手で髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、布団の中にもぐりこんだ。
顔が火照って仕方がない。耳たぶまで赤くなっている気がするけど、きっと布団の中に入っているからだろう。そうに違いない。
(何、何……?! 早く会いたいって、何?!)
とにかく落ち着いて考えなければ。
私は布団の中で一つ、スゥ、と深呼吸をしてから、先刻生まれた感情の冷静な分析を試みた。そう、あれは単なる気の迷いだ。そうだ、そうに違いない。でなければおかしい。あんな小さくて、我儘で、意地っ張りで、私をからかってくる死神なんて私は、私は、私は。
「好きな訳ないんだからっっ!!!」
勢いよく布団をはけ、ベッドの上に仁王立ちした私の視線の先にあったもの。
黒いコートを羽織った少年の姿には、残念ながら
「いや、あの……声は掛けたんだよ?」
「みっ、み、みみみミタ?!」
そのまますすす、と壁際まで後退し、追い詰められた絶体絶命の犯人さながら私は壁に手をついた。
気まずさレベルが限界値に達したところで、顔から火を噴き出しながら私はしどろもどろに言葉を並べていった。
「あっはははお帰りミタ、遅かったね? いや別に待ってなんかないんだけどね? む、寧ろ死神が居なくなって一人で悠々自適な女子高生ライフを満喫してたところだけど?」
「……未玖?」
「とりあえずまあ、その……ま、まずはお茶でもいかがかな?」
何か面白い番組でも見ているのだろうか、背中の壁伝いに隣の部屋にいる母の笑い声が聞こえた。
一方目の前の死神は小首を傾げたまま、世にも珍しい獣でも見るようにして長い睫毛をぱちぱちとさせていた。
しばらく目を丸くしていた彼だったが、やがてクスリと笑って一言私に告げる。
「そのボサボサの髪、○-1グランプリに出たら優勝出来そうな感じだけど大丈夫?」
その瞬間ピシ、と皹が入る音がして、私は思わず笑顔を引き攣らせた。
「もう一度天使のような微笑みで私に笑いかけてくれたら」――その願いは、二、三十度程ズレた形で叶えられたのだった。
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