第三章 カゾク
第二十一話 薄氷の上の幸せ
季節は九月半ば。空は今日も青く透き通っていた。
通学路の脇には
同じ制服を着た高校生が次々と校門を通り抜けていく。
数名の生徒が小走りで自分を追い越していくので、脳裏に一抹の不安が過ぎった私は腕につけた時計をチラリと見やる。
(よし、まだ大丈夫)
予鈴が鳴るまであと十分ある。
周りの生徒が次々と自分を追い越していく中、校庭に足を踏み入れた私はふと立ち止まり、空を見上げた。
(……早く帰って来ないかな)
秋晴れの空はいつもより高くて、広いキャンバスの中でゆったりと絹のような雲が繊維を広げていた。
何も無い空を見上げながら、
――私はスゥ、と深く息を吸い込んだ。
校庭に咲いた金木犀の甘い香りが、肺いっぱいに広がっていく。
先日自分の元から離れて居なくなった死神のことを頭から押しやるべく、私はわざとらしく「この時期に冬服は暑いな」などと不満を垂れてみせた。
気がつけば周囲には誰一人として生徒の姿はなくなっていた。
最後に校庭に残された私は、今日も一人、教室へと足を運んだ。
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第二十一話 薄氷の上の幸せ
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教室の扉を開けると、いつもの光景が広がっていた。
窓際の席にたむろする友人達は今日も楽しそうに笑っていて、彼女達の笑顔を見る度に私は心の穴が満たされていくような心地がした。
「おはよう、未玖」
親友の柔らかい声に、私はいつものように「おはよう」と返した。
一番前の席に鞄を置くと、彼女は「未玖は相変わらずいつも遅刻ギリギリだよね」とつけ加えてから悪戯っぽく笑みを浮かべてみせた。
二階の窓から差し込む木漏れ日。
紆余曲折の末ようやく私達の日常に戻ってきた彼女は、あれからよく、こうして笑うようになった。
「まったく、満咲さんはいつも私の痛いところを突いてきますねぇ」
「痛いところ……? でも、本当のことだよ?」
そういうところですよ。
「まあ間に合ってるんだからいいじゃない」と苦笑いを浮かべながら、私は学生鞄の中からペンケースと教科書を取り出した。
しかし今日は良い日だ。なんたって一時間目から私の唯一得意な世界史(∵暗記科目)なのだ。それに今日は苦手な数学がない。素晴らしい。何たる幸福か。
「それはそうと、ずっと気になってたんだけど」
一時間目の支度を終え一段落ついたところで、私は登校してから今まで気になっていた疑問を呈することにした。
「……それは何かの儀式だったりするのかな?」
視線の先で男子生徒が女子生徒に羽交い締めにされている。この光景に一言突っ込まずにいられるほど、私は淡白な人間じゃない。
金髪交じりの気の強そうな彼女が、気の弱そうな男子生徒を拘束して逃げられないようにしている。男子生徒は顔を真っ青に染めながら、表情に「そろそろ戻りたい」と全力の意思表示を示していた。が、虐めっ子は聞く耳を持たないといった感じだ。
男子生徒を拘束する虐めっ子――もとい、神崎花は、懐疑的な私の視線に気がつくなり
「あ。おはよう未玖。いやあコイツがどうしても女子と話したいって言うからさあ」
「なっ、何言ってるんだよ花ちゃん! 僕はそんなこと一言も……」
一方、大人しそうな黒髪の彼は彼女の幼馴染である。
花と彼が同じクラスになった今年は、よくこうして二人
そんな二人を横から眺める虐めっ子その2――もとい、門田永美は、顔に笑みを含ませながら、嫌がる彼を諭していた。
「いいこと、
「じ……実験って……」
「克服したいんでしょう? 女の子嫌いを」
「そ……それは」
彼――
花がよくこうやって彼と戯れていることも多いので、私もたまに彼と話すことがある。ちなみに、高校に入ってから花が「ゲイジュツセイ」なるものに固執するようになった経緯を教えてくれたのも、この彼である。
とはいえ。神峰君は最近少しずつ心を開いてくれているような気もするけれど、こういうことをするから逆効果になっているのではと思わずにはいられない。実験などと称して同じく弄ばれてきた私にはこの時、僅かに彼に対する同情心が芽生えたのだった。
「克服……します。僕、頑張りますっ! だから……もっと鍛えてください!」
「よく言った将。じゃあまずは永美と手を繋いでみようか?」
「えっ。何でいきなり?! ハードル高いよ、花ちゃん!」
「私と手が繋げないの……将君?」
「か、門田さん?! いや、あの……そういうことじゃ……」
クラス一の美人が瞳を潤ませると、教室中の男子生徒の怨嗟のこもった視線が次々と彼に突き刺さった。
彼はあちらこちらに目を泳がせては弁明のために次々と言葉を並べていくが、そのどれもがまるで意味を成していなかった。
花は一旦神峰君の拘束を解いたかと思えば、彼の右腕を掴んで無理やり手を繋がせようと試みる始末。
彼の手がプルプルと震えている。その様子を横目で眺めていた私は、あまりのくだらなさに失笑を通り越して微笑ましさすら覚えた。
「でも不思議だよね、神峰君。花ちゃんとは普通にお話出来るのに……」
私の横で満咲が一言疑問を口にすると、ようやく手を繋ぐことに成功した二人を背に、花がふふん、と鼻を鳴らす。
「決まってるじゃないか。それは勿論あたしが特――」
「ああ。花ちゃんはその……女子にカウントしてないから」
永美と手を繋いだまま、彼はボソリと呟いた。
どこかでピシ、と亀裂の入った音が聞こえた気がして、私は思わず「あ」と声を漏らした。
(神峰君、それは言っちゃ駄目……)
恐る恐る花へと視線を移すと、太縁眼鏡のガラスはすっかり灰色に曇っていた。続いて聞こえたのは「……ほぅ」と呟く彼女の声。
うん、これはまずいね。
「将、とりあえず表出ようか?」
「え、あ、いや……ごめんなさいごめんなさい!」
「問答無用!」
再び羽交い締めにされる彼を見ながら、永美、満咲、私の三人は今日も傍から生温かい視線を向ける。
なお、その日彼が男子生徒の間で「門田永美と手を繋いだ男」として話題になったことは、私達の預かり知らぬ話である。
☆★☆
同日、夜。
帰宅した私を迎え入れたのは二つ下の弟だった。
「ただいま、
たまたま廊下を通りかかった弟の姿を見ているだけで、それまで思考を埋め尽くしていた死神の事が少しずつ頭から離れていく。次第に安堵が込み上げてきた私は、気がつけばふにゃりと顔を綻ばせていた。
「ニヤニヤすんな、気色悪い」
「……なっ」
実に可愛げのない反応である。
中学三年生になった弟は反抗期真っ只中で、可愛かった昔に比べすっかりひねくれてしまった。
しかし、お風呂上りだろうか。スウェットにタオル姿の彼は、スポーツ刈りにした暗めの茶髪をタオルで乱雑に乾かしながら「そろそろ夕飯だってよ」と続けた。
弟の背中を眺めながら、改めて体格の違いを実感する。サッカー部所属の引き締まった身体は中学生とは思えない程で、随分と立派になったものだ。私としては、小柄の頃が可愛かったなんて思ってしまうのだけれど。残念ながら、かつての子犬のような可愛らしい面影は今やどこにも見当たらない。
あーあ、昔はお姉ちゃんっ子で可愛かったのになあ。時の流れとはかくも残酷なものか……。
「弟よ。本当はお姉ちゃんが帰って来て嬉しいの、知ってるよ?」
「…………」
うーん、昔はここで可愛い反応が返ってきたのに。
反抗期の息子を持った母親の気持ち、何だかすごく分かる気がする。
「まあいいよー。それより、今日の晩御飯はもしや……」
靴を脱ぎスリッパに履き替える。弟はサッカー部のロゴの入ったタオルで髪をくしゃくしゃと乾かしながら、「早く」と私を促した。
弟の背中に追いついた私は、先程から鼻の奥をつついてくる芳醇な香りに思わず鼻をひくつかせた。
「そうだよ。姉貴が好きな、か……」
「ふふん。言わずもがなよ、拓也。何故なら私の嗅覚が既に
「……犬かよ」
夕食にて。
「いただきます!」
私は両手を合わせるや否や、早速テーブルの真ん中に置かれたメインディッシュに視線をやった。
白い大皿にこんもりと積み上げられた茶色のチューリップ達。その身に纏った薄衣はこんがりと焦げ茶色に焼け、煌々たる輝きを放っている。にんにく醬油の芳醇な香りが私を誘惑し、私は躊躇うことなくそれに箸を伸ばした。
真に美味なる物というのは、口に運んだ瞬間に人を別世界へと誘うものだ。
一口、噛み締める。柔らかい衣の殻を破ると、肉厚な鶏もも肉からじゅわ、と肉汁が弾けた。ああ、これが生きている悦びか。そして白米を口に運ぶ。やはり至高……塩麹でよく揉み込まれた鶏肉、にんにく醬油の殻衣、それらの塩気が白米の甘味と絶妙なハーモニーを奏で、生まれ出る極上の世界は決まって私を一つの結論へと到達させる。
「凄い、すごいよ。やっぱりお母さんのから揚げは最高だね!」
野菜のたっぷり入った味噌汁を一口すすり、口の中を整える。
野菜出汁と味噌のほのかな甘味で口の中を満たしてから、再びから揚げご飯へと出陣するのだ。
「そうよ。母さんのから揚げはね、世界一なの」
私の斜め前に座った母親は得意げに鼻を鳴らすと、グッと親指を立て顔をキメた。
ちょうど同じタイミングで、つけっぱなしになっていたテレビからドッと歓声が上がった。
(お母さん、すぐに調子に乗るんだよなあ……)
拓也も右隣で黙々と味噌汁をすすっている。
「二人ともよく聞きなさい。父さんもね……『母さんのから揚げが好き』って言って結婚してくれたのよ」
「……えっ」
それが理由なの。
「拓也? 拓也もちゃんと、美味しいご飯の作れる立派なお嫁さんと結婚しなさいね」
隣で味噌汁を飲み干した拓也は、明らかに「面倒臭い」といった具合に顔を顰めた。
「はあ。別に俺は……」
「クスクス、分かってるってば。拓也はお姉ちゃんと結婚するって言ってたもんね?」
「姉貴?! いっ、いつの話だよ!」
私は「うーん、八歳ごろだっけ?」と首を傾げた。
から揚げを頬張りながらしたり顔を浮かべてみせると、弟は目線で「ウザ過ぎる」と訴えてきた。
「ダメよ拓也。未玖はあんまりお料理出来ないから、もっと家事が上手な子をお嫁さんに選びなさい」
「ってお母さん、ツッコミどころ違うでしょ」
同じタイミングで再びテレビから賑やかな笑い声が上がった。
誰も見ていないテレビは、完全に食卓のBGMと化していた。
――それで、○○ちゃんはどうしてアイドルになったの?
――うーんと、あたし、笑顔で人を幸せにしたいと思ってえ
――○○ちゃんはアイドルっていうより芸人だよね
――ハハハハハ……
「未玖も心配しなくていいわ。母さんほど完璧になる必要はないのよ? 拓也も、そこそこに立派な子を選ぶといいわ」
すぐに調子に乗る、面倒臭い母親。
「うるせえな。どうでもいいだろ、そんなこと……」
すっかりひねくれてしまった、生意気な弟。
「あっ拓也、それ私が狙ってたから揚げ!」
「はあ?! 狙ってるってなんだよ」
「それ、すごく美味しそうだったから楽しみにとっておいたの! 食べちゃダメ!」
「じゃあ最初から自分の皿に取っておけよ……」
「ふふ。二人とも仲良しねぇ」
この力は、大切な人を守るために使う。
私はそう誓い、大切な人を守るために生きると決めた。
はずだった。
――○○ちゃんは笑顔で人を幸せにする夢、叶えられた?
――えーと、どうだろ? まだよく分かんなあい
――ハハハハハハハ……
――ハハ……
あの日、あんな事が起こるまでは。
その日、私は初めて人を恨んだ。
その日、私は初めて人を殺したいと思った。
――こんな奴死んじゃえばいいのに、と。
☆★☆
同刻、警察署。
先日の不審死に関する調書資料をぐしゃりと握り締め、一人の男が苛立たしげにデスクに拳を振り下ろした。
夜遅く静まり返った署内に、男の苛立ちに満ちた怒声が響く。
「畜生。臆病モンどもが、ふざけやがって!」
「か……
「お前もおかしいと思わないのか? これが『事故』のはずがない」
門田と呼ばれた男は、山積みになった書類を睨みつけながら、忌々しげに言葉を吐く。
「この『事件』には絶対に犯人がいる」
「…………」
他の者は既に帰宅しており、薄暗い署内には男二人を除いて誰もいなかった。
静けさを誇張するかの如く、チク、タク、と時計の音が響く。
門田の傍に立つもう一人の男は暫くの間沈黙した後、ゆっくりとその口を開いた。
「僕はずっと、門田さんについていきますから」
若い男は彼にそう宣言し、瞳に決意を宿らせた。
門田は「ああ」と小さく返事をしてから、拳を強く握りしめた。
「絶対に捕まえるぞ、宮田」
門田は立ち上がり、椅子に掛けていた黒いジャケットに手を伸ばす。
冷えた珈琲を一息に飲み干してから、彼は低く唸った。
「必ず証拠はあるはずなんだ。何としてでも法の下に引き摺り出してやる」
デスクの上に置き去りにされた調書資料には、先日の事件で取調べを行った重要参考人の名前が記載されていた。
ぐしゃぐしゃになった憐れな二人の名前を眺めながら、もう一人の男――宮田は拳を強く握りしめた。
「ええ、捕まえましょう。僕達の手で、絶対に」
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