第二十話 少女を黒く染めたのは
帰り道。
女子高生は制服のポケットから携帯端末を取り出すと、浮かび上がった画面を眺めて愕然とした。
「やばい、お母さんからめっちゃLINE来てる」
彼女は「後で怒られるよぉ」と嘆きガクン、と項垂れた。俺は苦笑を交えながら「まあまあ」と彼女の肩に軽く手を乗せる。様々な励ましの言葉を並べながら、頭に浮かんでいたのは
ふと、空を見上げる。
真っ黒な夜空に幾つもの小さな瞬きが見えた。落ち着いてスゥ、と呼吸をすると、夏の夜の匂いがした。
無意識のうちに去来していく思考を頭の隅に押しやるため、俺は心中で「すっかり遅くなったなあ」などと間の抜けた台詞を唱えては、呆けたフリをしてみせた。
頭の中をぬるま湯で満たしていく。
呆けた思考の延長線上で、ふと、俺は驚愕の事実に気がついた。
「やばい。マジでやばいよ未玖」
「……どうしたの、ミタ」
目の前が暗くなっていく。顔からサーッと血の気が引いていく感覚がした。
彼女は項垂れたまま視線だけをジトリとこちらに向けながら、「女子高生みたいな台詞吐くミタの方がヤバいよ」とため息交じりの声を漏らした。
「聞いてくれ、未玖。今日は
「えぇ。別にいいじゃん、似たようなお笑い番組なんていつでも見られるんだし」
「な、何だと! 全く、君はあの番組の良さを何も分かっていないな?」
未玖が「お笑い番組なんてどれも同じ」と首を横に振るので、俺は呆れのあまりハァ、と肩を落とした。
「いいか、未玖。笑いを堪える姿が滑稽に映るのは、あらゆる世界の共通認識なんだ。俺達の世界では新年になると、絶対に笑ってはいけないという恐ろしい番組が……」
「新年早々暇なんだね」
彼女は口に手をあててクスクスと笑った。
随分と失礼なことを言われたような気がするのに、思わずつられて笑ってしまったのは何故だろうか。自分でもよくわからなかった。
住宅街を抜け商店街に近づくと、周囲の人影が少しずつ増えていった。
こちらに向かってくる人々がチラリと未玖の姿を見ては、特段気に留めることもなく通り過ぎていく。
彼女が
ぼんやりとそんな事を考えていたところで、隣から自分を覗き込む栗色の瞳と目が合った。
「……ミタ?」
「ん? ああ、そうそう、天界は暇なんだ……って、そうじゃなくて! 俺は断じて暇じゃないからな? ハハ、何を隠そうエリートの俺の周りには常に仕事が殺到し」
「サボってたから追い出されたんでしょ?」
「そ、れは」
《下界に追い出されたのは向こうの世界で仕事サボってたからで、それはしょうがないにせよ、だ》
ああ。
そういえば、
駅近くの商店街は賑やかで、俺は彼女の背中を追って進んだ。
湿った風が肌に纏わりつく。
彼女に掛けるべき上手い話が思いつかなかった。
黙ったまま一人先へ進んでいく彼女を、人混みの中で見失ってしまいそうになった。
「待って」と声を掛けようとした瞬間――頭の中をピリ、と電撃が走り、
俺は思わず、ハッと息を呑んだ。
(――
その場に立ち止まり、両目を閉じる。
すれ違う人間達が自分をすり抜けていくのも気にせず、俺は先の一瞬感じた気配に意識を集中させた。
捉えた気配は、紛れもなく自分が追っている
奴が近くにいる。それを理解した瞬間、全身の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。
俺は未玖に、嘘をついている。
浮かび上がる雑念を排除し、奴の気配を追うために自らを奮い立たせる。やがて身体の底から湧き上がる使命感は、魂に刻み込まれた使命を思い起こさせた。
それは、必ず果たさなければいけない使命。
俺が下界に来た、本当の理由――
――――――――――――――――――
第二十話 少女を黒く染めたのは
――――――――――――――――――
――それは少し前の天界での出来事。
その日の「宮殿」は、騒がしかった。
《どうだ、そっちにはいたか!》
《いや、こっちには誰もいなかった》
《畜生、あの野郎どこ逃げやがった!》
騒ぎが起こるのも当然のことだった。
その日、牢獄の扉が破壊され、大罪人が脱獄したから。
牢獄警備兵は手練れの死神が任務にあたる。しかし、その日入り口の門の前に倒れていたのは、本来負けるはずのない彼等の方だった。
「あの人」から緊急召令がかかった。
どうやら、大罪人は下界に逃れたとのことだった。
天界と下界はもともと隔絶された世界。そう易々と行き来できる世界ではない。
天界から下界に向かうためには、相当なエネルギーを必要とする。それゆえ、下界と行き来するには大きなリスクが伴う。普通の死神はエネルギーの消耗に耐えることができず、あっという間に消滅してしまうのだ。
俺は「あの人」の元を訪れた。
金色の髪が風になびく。
身に纏った白いローブは眩しく、袖の下でキラリと輝くのは、指に嵌めた金の指輪。
自分に大罪人を追わせてほしい――俺はあの時、そう志願した。
天界において唯一絶対のはずの牢獄から罪人が抜け出した。この事実が明るみになれば、治安を、「あの人」の地位を揺るがす一大事の事件。
「あの人」自身も、一刻も早い事件の解決を望んでいた。
死神に厳戒令が敷かれる中、極秘裏に、「あの人」――総督は俺にこう命じた。
「牢獄を抜け出した大罪人を追え」と。
「ミタ、どうしたの? こんな所で立ち止まって」
後ろを振り返り、戻ってきた未玖が自分に手を差し伸べた。
華奢なその手を取ろうとした瞬間、何かがギュッと胸を締めつけた。
早く、奴を追わなければ。
俺はそのために下界に来たのだから。
だから、早く――
「ごめんね。私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて。その、サボってるなんて言っちゃったけど、大事な仕事出来なくなっちゃったんだよね」
「それは……」
「私ね、やっと覚悟できた。あのね」
強く風が吹き、一人のか弱い少女の髪をなびかせた。
自分を見つめるガラスの瞳は透き通っていて、少女の真っ直ぐな言葉に俺は、
――言葉を失った。
「私は、受け入れるよ。この力を。この運命を」
ズキリ、と胸が痛んだ。
(全部、嘘なんだ)
君が力を奪ったなんて、嘘なんだ。
本当は――
真実を口に出そうとした瞬間、喉の奥が乾いて言葉が上手く音にならなかった。
気道が何かに締め付けられているような感覚がして、思うように息が出来なかった。
心底、自分の情けなさに辟易する。
「俺。ちょっと、散歩してくるよ」
辛うじて出した声は震えていた。予想外の反応だったのか、未玖は驚きを顔に浮かべていた。
握る掌にじっとりと汗が滲んだ。
「え、どうしたの急に」
「いや、何となく……かな。ハハ」
苦し紛れに浮かべた笑顔はぎこちなくて、いつものように上手く笑うことができなかった。
「さっき言ってたお笑い番組だって、今から帰れば間に合うかもしれないし……」
「あ、ああ。それはいいんだ。もう」
先程捕らえた奴の気配が、時間と共に少しずつ遠ざかっていく。
途端に、焦りと、依然として腹の奥底から込み上げてくる
「もし俺の帰りが遅くなっても、気にしないでくれ」
「ミタ……?」
「もし、俺が帰ってこなくても」
握っていた未玖の手を離し、俺は背を向けた。
「待ってるよ、ミタ」
背中の向こうで聞こえた彼女の最後の台詞は、弱々しく震えていた。
空に浮かび上がり、宙を駆ける。
向かい風に逆らい、
掌には僅かに彼女の温もりが残っていて、無意識のうちに歯を食いしばった。
心配そうに自分を見つめる彼女の最後の表情が頭から離れない。
《ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて》
――違う。全部嘘なんだ。
《私は、受け入れるよ。この力を。この運命を》
――君が苦しんでいるのも、全部、俺の所為なんだ。
君に本当のことを打ち明ければ、この胸の痛みは消えてくれるのだろうか。
君に「本当の仕事」を打ち明ければ、俺の心は楽になるのだろうか。
けれど、君に全てを打ち明ければ、俺の「本当の仕事」に君を巻き込んでしまうかもしれない。
それだけは、あってはならないと思った。
人間なんて、どうでもいいと思っていた。
――はずだった。
でも、君は。君だけは、守りたいと思ってしまったから。
(近くにいる)
屋根の上を伝いながら、目標の気配を辿っていく。
天界の牢獄を抜け出した大罪人がすぐ近くにいる。
自らに課せられた使命を今一度思い起こし、逸れてしまった思考を再び元へと戻した。
大罪人を捕らえ、天界へと転送する。そのために俺は下界まで奴を追って来たのだ。
スゥ、と息を吸い、湿った空気を肺に送り込む。
ゆっくりと息を吐きながら瞼を閉じ、意識を集中させる。
次の瞬間、ピリリと肌を刺すような気配がした。全身の筋肉が引き締まり、強い使命感が自分を突き動かす。
星の瞬く夜空の下、住宅街の屋根の上を駆けて、駆けて、駆けて、
(『鎌』が使えないのは、アイツも同じはず)
奴と対峙した瞬間を想定し、俺は使命を果たす覚悟を決めた。
――はずだった。
《待ってるよ、ミタ》
ふと、彼女の言葉が頭を過ぎった。
(はは。どうして)
定めたはずの覚悟は揺らぎ、再び
このまま彼女を一人残して俺が居なくなってしまったら、彼女はどうなってしまうのだろう。
彼女を苦しめた元凶は、紛れもなく俺だというのに。
夜空の黒の中で微かに瞬いていた光が、分厚い雲に遮られやがて途絶えていく。
向かい風がやけに冷たく感じた。
屋根の下の家は家族そろって夕食の時を迎えているようだ。子供達の賑やかな声に混じって、お笑い番組の音が聞こえてきた。
気がつけば俺は足を止めていた。
《待ってるよ、ミタ》
(どうして君の家に帰りたい、なんて)
黒々とした
すべてはあの日に始まった。
「あの人」に下界に送られた日、俺は大罪人を追っていた。
幽かに感じる気配を辿りながら奴を探し回っていたとき、俺に突然
それはあまりに唐突で。
それは俺の目の前に広がった。
それは、少女が追われ、ナイフを持った男に切りつけられ死んでいく「未来」だった。
気がつけば、俺はその少女に力を与えていた。
死ぬはずだった彼女の運命を変えてしまった。
下界がどうなろうと、俺には関係なかった。
人間なんてどうでもいい、と思っていた。
《つ、使えないよ。こんな力》
そんな目で俺を見るな。
《お願い。返せないの? この力……》
折角助けてやったのに、何故辛そうな目で俺を見るんだ。
責めるような目で俺を見るんだ。
《なあ。何か勘違いしてないか? 君》
全部、君の所為だろ。
《俺は、君のことが嫌いだ》
《俺を面倒臭いことに巻き込んだ、君のことが大嫌いだ》
《折角君は、俺の
君が死神の力を手にして何を感じようが、どう苦しもうが、関係ない。
君の所為なんだよ。
《ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて》
俺が与えた力で、君がどう苦しもうが。
《私は、受け入れるよ。この力を。この運命を》
俺の所為で、君がどう苦しもうが。
俺の所為で……。
そうだった。
突然「未来」が見えて、咄嗟に君を助けようと思ったのは、この俺だ。
君はあの時、あの場所で死ぬはずだった。
それ捻じ曲げ、君に死神の力を分け与えたのは、この俺だ。
君の運命を捻じ曲げ、心の優しい君を苦しめたのも。
君に嘘をつき、君にすべての罪をなすりつけたのも。
君の手を黒く染めてしまったのは、
初めから全部――この俺だった。
ずっと心の奥底で感じていた焦りを、全部君の所為にしてしまった。
沸き起こっていた得体の知れない
《それでも、君が死んだら困るんだよ》
《頼むから、死んだ方が良かったなんて、もうそんな事言わないでくれ》
君を苦しめたのは、俺だというのに。
口を突いて出るのはいつも自分を守るための言葉ばかり。
《折角君は、俺の
俺が
腹の底を渦巻いていた
それが罪悪感なのだと、俺はその時点でようやく気がついた。
人間なんて、どうでもいいと思っていた。
でも、君だけは守りたいと思ったから。
――守らなければいけないと、思ったから。
俺は歯を食いしばり覚悟を定めた。
屋根の下から幸せそうな家族の声が聞こえた。賑やかなテレビの音を背に、俺は再び前へ進む。
《待ってるよ、ミタ》
未玖に本当のことを告げることはできない。
それでも、
(ああ。帰るさ、必ず――)
必ず帰ってみせる。
俺は使命を果たして、そして君を守る。
俺の所為で苦しめてしまった君を、一人にさせないために。
第二章 守る決意 完
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