第十九話 守る決意

 少しずつ陽が暮れていく。

 月と星が浮かび上がる頃には、空はすっかり藍色に染まっていた。


 駅を降りて、改札を抜ける。駅周辺の商店街を過ぎると、すっかり人通りが少なくなっていた。


 「ここ……だよね」


 表札と、スマホの地図アプリの現在位置を確認し、私は場所に間違いがないことを確認した。


 インターホンを押すと、家の中から明るいおばさんの声がした。

 ガチャリ、と玄関が開く。

 エプロン姿の女性は、満咲にどこか面影が似ていた。


――――――――――――

第十九話 守る決意

――――――――――――


 「ありがとうねぇ。うちの子、あれからすっかり部屋から出て来ないのよ~」


 困ったようにため息を落とす満咲の母親に、私はぎこちなく愛想笑いを返した。

 彼女に続いて廊下を進む。まずはお茶でも、のお言葉を有難く思いつつも、何だか申し訳ない気がして断ってしまった。


 「でも良かった。うちの子暗いから友達なんていないと思ってたんだけど、ふふ。素敵なお友達がいたのね」

 「私なんてそんな……」

 「来てくれてありがとうねぇ。あの子最近、私が何言っても口聞いてくれないのよ」


 満咲の母親は「ごめんなさい、あなたにこんなこと言っても仕方ないわよねぇ」と苦笑した。


 母親に続いて階段を上る。目の端にふと、彼女の顔が映った。

 目尻に刻まれたしわが一際濃く見えた。


 きっと苦労の絶えない人なのだろう。

 無理に頑張り過ぎてしまうところが私の母親と少し似ているかもしれない――なんて、勝手に想像した。


 母親が扉の前で満咲、と呼び掛ける。


 先程からずっと鳴りやまなかった心臓の音が、どんどん強くなっていく。

 呼吸が荒くなる。

 口の中はカラカラに干からび、喉が痛んだ。


 満咲に知られていたらどうすればいい。「あ、ははそうですよね」そんなこと、あるはずない。「満咲ちゃんには、凄く仲良くしてもらってるんです」満咲が学校に来ない理由は、私があの男を殺したのだと気がつい――


 「私が居るとお邪魔よねぇ。未玖ちゃん、私はリビングにいるからね」


 満咲の母親は「ありがとうねぇ」と数回繰り返してから、階段を下りた。

 一人になった途端、耳元で脈打つ音が一層強くなっていく。


 「満咲……あ……の、私」


 指先が冷え、身体が火照っていく。乾いた唇が震える。思うように声が出せない。喉から掠れた呼吸の音が幾度となく通過した。

 頭の中を幾つもの思考が巡っていく。


 バレているはずがない。

 「わ……私ね」

 あり得ない。報道された通り、皆があれは単なる事故死だと

 ――満咲は取り調べで何を訊かれたんだろう

 「満咲が、学校に来ないから」

 そんなはずはない。あれは怪奇現象、死神の力なんて誰も信じないよ

 ――満咲は私のことを、どう思っているのかな

 ――ヒトゴロシ


 「わた、し。ただ満咲のこと、」


 頭の中を幾つもの思考が巡り、混線し、ショートし、ノイズ音がした。

 ザーザーと砂嵐の音が頭を埋め尽くす中、


 「未玖」


 砂嵐に混じって、懐かしい声がした。

 ゆっくりとドアが開き、ドアの向こうの景色が目に映る。

 灯りのない暗い部屋。目の前の少女はピンク色のパジャマ姿で、下ろした髪からはいつもの彼女と違った印象を受けた。


 赤く腫れた両瞼の下で、つぶらな瞳が私を見上げる。

 部屋の奥にいる幽霊少年の姿が目に映った。


 「み……満咲、」


 喉から心臓が飛び出してしまいそうだった。

 荒い呼吸が耳元で響く。顎がガクガクと鳴っているのが分かった。


 ごめんなさい――そう言おうとした瞬間、

 身体に強い衝撃を受けた。


 満咲が私に抱きついたのだと理解した。


 その瞬間、頭の中を埋め尽くしていた砂嵐が止み、震えが嘘のようにスッと収まった。


 どこからか、誰かの泣き声が聞こえた。

 それが自分に抱きつく彼女の声だと気がついた。


 暫くの間、満咲は何も言わずに声を上げて泣いていた。


 「満、咲」


 (あ、はは。良かった満咲が無事で。満咲が無事で無事で無)


 ――良かった、


 堰を切ったように泣く彼女の背中をさすりながら、その時私は、顔から薄ら笑いを剥がすことが出来なかった。


  ☆★☆


 部屋の電気をつけると、パステルカラーで統一された乙女の空間が広がった。

 心なしか甘い匂いがする気もする。私は「これが女子の部屋か」と再認識しつつ、散らかった自分の部屋との差を実感し僅かに肩を落とした。


 視線を下ろすと、部屋の中央に敷かれたハート形のカーペットが目に入った。

 何故だかいたたまれなくなり、私はその上にちょこんと座した。満咲がお風呂上りの髪を櫛で解かしながら、「何で正座?」と目で問い掛けてくる。


 櫛を机の上に置き、満咲は私に背を向けたまま呟いた。


 「警察の人に訊かれたの。『どうやって殺したんだ』って」

 「み、咲……」

 「未玖はさ。あの男の人、私が殺したんだって思う?」


 部屋の電気が一瞬消え、また元の明かりを取り戻した。


 満咲の隣で幽霊少年が縋るような目線を私に向ける。少年は今にも泣きそうな顔をしていた。

 一方私は、何も言葉にすることが出来なかった。


 顔面蒼白で視線を泳がせる私を見て、満咲は伏目がちに笑う。


 「冗談だよ、未玖。私はただ、……怖かったの」

 「満咲……」

 「突然あの男の人に襲われて、何度も殴られて、殺されそうになって……目の前で突然、その人が倒れて」


 満咲は「よいしょ、」と私の隣で体育座りをした。湿った髪から僅かにシャンプーの香りがする。

 喉まで出かかっていた言葉が、うまく出て来なかった。


 「ずっと考えてた。あれは本当に事故死だったのか、って」


 ドクン、と胸が強く跳ねる。

 数刻後にようやく呼吸が止まっていたことを自覚する。染み一つないカーペットの毛並みが真っ直ぐに揃っているのを、意味もなく凝視していた。


 「もしが言ってたみたいに、これが事故じゃないとしたら、誰が」

 「………」

 「はは、怖いなあ。でも、何でだろう。私はに、命を助けてもらったってことだよね」

 「…………」

 「未玖」


 すぐ隣から、満咲の震えが伝わって来た。


 「あの日、本当はね。いなくなっちゃってもいいかなって思ってたんだ」

 「…………!」

 「私がいなくなっても、嘘つき共はどうせ悲しまないから」


 止まっていた呼吸を、ゆっくりと取り戻していく。


 私は隣の満咲に視線を移した。

 湿り気のあるまとまった髪が垂れ、腫れ上がった頬が黒髪に隠れたせいで、表情はあまりよく見えなかった。


 彼女は淡々と自らの過去を語った。

 弟が亡くなった経緯を。

 親が信じられなくなったことを。


 誰も他人ひとを信じられなくなってしまったことを。


 「あの日未玖、弟に会いたいかって聞いてきたでしょ」

 「…………」

 「会いたいよ。会って謝りたい。だから、宇宙に行けば会えるかなって、思ったりもしたんだけど」


 満咲は私の顔を覗き込んでから、突然クスリと笑みを浮かべた。


 「やっぱり馬鹿だよね、未玖」

 「み……満咲……?」

 「あの時の未玖、ボロボロになってまで私の心配してた。本当に、馬鹿だよ」


 彼女は困ったようにハハと笑いながら、私の肩にちょこんと寄り掛かった。

 普段より近い距離。いつもは見せない彼女の一面に、私は思わず視線を泳がせた。


 「私なんかのために、あんな危ないことしちゃ駄目だよ」

 「…………」

 「でも、救われた」


 安堵の混じった声音で呟いてから、彼女はゆっくりと立ち上がり、目前のベッドに腰を掛けた。

 体重の掛かった部分が大きく沈み込み、ギィ、と音がした。


 「私ね、未玖。ずっと、いなくなるタイミングを探してた」

 「…………」

 「けどやっぱり、もう少し……生きてもいいかなって」


 彼女は照れくさそうにはにかんだ。


 「私を助けに来てくれて、ありがとう」



 その笑顔の眩しさに、思わずぽろ、と涙が溢れ出すのを止めることが出来なかった。

 咄嗟に表情筋に力を籠める。けれど、感情を堪えようと必死になればなる程、反してそれは溢れ出していった。


 黒いもやで覆われていた視界に、一筋の光が差し込んだような気がした。

 「ありがとう」――その一言に、救われた自分がいた。


 「未玖、どうして泣いてるの? もう、相変わらず大袈裟だなあ」

 「うぅ。そんなこと、ないよ」


 強がった私の言葉は涙混じりで何とも情けなくて、

 満咲は呆れたように笑った。


 「どうせ未玖のことだから、私が死んだら、凄く悲しむもんね。凄くすごく悲しくて……寂しさのあまり死んじゃうかも……」

 「もう、心配性過ぎだよ。大体、寂しくて死んじゃうなんて、私うさぎじゃないんだから」

 「そうだよ。うさぎはか弱くて、放っておくと、すぐに死んじゃうんだよ……?」

 「再三主張するけど、うさぎじゃないよ?」

 「あ、そっかあ。うさぎじゃなくて、実験動物だったね……」

 「毎度思うけど、私の人権って考えたことあるかな?」


 満咲は黙ったままはて、と小首を傾げた。

 暫くの間互いに顔を見合わせた後、私達は涙交じりの声で苦笑した。



 「あのね、未玖。私」


 壁に掛けられた時計の秒針音がチク、タク、と響く。


 満咲は真っ直ぐに私を見つめた。

 私の傍にいる二人は、満咲の瞳には映らない。


 「もうちょっと……人を信じてみることにする」


 人間が嘘つきばかりに見えた、と言っていた。

 人同士の本当の繋がりなどない、と言っていた。


 あの日から、彼女の景色はずっと灰色で、

 愛想笑いを浮かべながら、薄っぺらい繋がりの中で、誰もが嘘をついて生きているのだと、そう言っていた。


 けれど――



 「未玖みたいな鹿もいるんだって、信じてみる」


 それは屈託のない笑顔で。

 彼女の侮辱の言葉には、一切の嘘も悪意も感じられなかった。



 「あはは。満咲はいつもストレートに失礼なんだよなぁ」

 「何で? 本当のことだよ……?」


 そういうところだよ、と言おうとした瞬間、彼女の表情が固まった。

 その口は開かれたまま、彼女は真っ直ぐにこちらを――否、私の背後を見ていた。


 まるで、幻でも見ているかのように。

 キラキラとその瞳を輝かせながら。


 「陽……」


 彼女の瞳に映る、幾つもの光の粒。

 彼女の視線の先を見やると、そこには幽霊少年の姿があった。


 「ど……うして、ここに……」


 空中に手を伸ばす。

 淡い光を纏った少年は、大粒の涙を湛え微笑みを浮かべていた。


 それは実に、満ち足りた表情だった。


 「姉ちゃん、ようやく気づいてくれた」

 「な……」

 「姉ちゃん、俺。ずっと傍にいたんだ」



 《だっておねえちゃん、幽霊見えるでしょ》


 ある日突然、私達に助けを求めてきた幽霊。


 《姉ちゃんは俺のことなんて見えないからさ。俺はずっと……何年も、傍にいるのに》


 ずっと、満咲の傍にいた幽霊。

 叶わぬ想いを胸に秘めながら、この世に未練を残し成仏が叶わなかった幽霊。


 《最後に姉ちゃんに、ありがとうって言いたかったんだ》


 その時、私は唐突に理解した。

 彼の本当の未練は、そこにあった訳ではなかったのだ、と。


 「わ、たし、私。嘘ついてた。本当は父さんと母さんが来ないって、分かってたのに」

 「姉ちゃん……」

 「嘘つきで、ごめん。こんな嘘つきな姉ちゃんで、ごめんね」

 「姉ちゃん。俺、ずっと伝えたかったんだ」


 少年が満咲に歩み寄る。

 一歩一歩。彼が足を進める度に、光の粒が柔らかく宙を舞う。


 「今までずっと、ありがとう」

 「…………!」

 「生きてよ。俺の分まで」


 幽霊少年はそう言って笑った。


 ずっと満咲の傍にいた幽霊。

 心配性の彼女によく似た、心配性の弟。

 彼の本当の未練は――



 「俺がいなくても、もう悲しまないで」



 その時の少年の笑顔が、目に焼きついて離れなかった。

 儚い笑顔は薄れ、輪郭が次第に朧になり消えていく。

 幾つもの小さな光が舞い、やがてそれらは完全に見えなくなった。


 「陽……」


 満咲の目の下に、涙の跡が残っていた。

 やがて口を開いたかと思えば、彼女は涙を拭い、咄嗟に笑みを浮かべた。


 「あ、はは。ごめん、未玖。何か今、弟がいたような気がして」

 「満咲……」

 「可笑しいよね。でも、なんでだろ」


 拭っても拭っても、彼女の目からはぽろぽろと涙が溢れていく。

 涙交じりの声で、彼女は続けた。


 「すごく……元気が出たみたい」



 彼女はそう言って笑った。

 それは普段見たことのない笑顔で、


 《誰もが皆、上辺だけで笑ってるんだと思ってた》


 それが、本当の笑顔を忘れた彼女の、嘘のない本心なのだと思った。



 「良かったね、未玖。少年、成仏出来て」


 後ろからミタの声がした。

 少年の願いが叶って、本当に良かったと思った。


 「良かったね。この子を守れて」


 満咲が無事で、本当に良かったと思った。


 《二人のために、私に出来ることは精一杯したいんだ》


 満咲とこの子が少しでも笑って、この先の未来を歩けるように。

 こんな私でも二人のために出来ることがあったのだと、理解した。


 ベッドの上に腰掛けて、満咲が泣きながら笑っていた。

 私もつられて、困ったように笑った。


 奥から熱いものが込み上げてきて、喉がきゅっと締め付けられるような感覚がした。

 気を抜いたら涙が溢れてしまいそうで、涙を堪えるようにして、私は拳を強く握りしめた。


 (間違ってなかったんだ)


 あの時満咲を助けられて本当に良かったと、心から思った。

 だから、


 ――覚悟を決めなければいけないと、心から思った。


 《いいか。生きていきたいなら、覚悟を決めろ》


 もう、弱音を吐いたりしないと。

 もう、迷ったりしないと。


 《誰かを傷つけずに生きていける奴なんて、どこにもいない》

 《いつだって、俺達は選ばなくちゃいけないんだ》


 罪を犯して大切な人を守るか、この手を汚さずに大切な人を失うか。

 どちらかを選ばなくてはならないなら、私は、大切な人を守る方を選ぶ。



 満咲は涙を拭いながら、何度も「ありがとう」を繰り返していた。

 ミタは安心したように、何度も「良かった」を繰り返していた。


 幽霊少年の最期の笑顔が、頭から離れなかった。


 (そうか。この力は……)


 この力はきっと、誰かを守るためにあるんだ。

 だから友達を、家族を、大切な人を守るために、私は力を使おう。


 きっとそれが、あの時生き永らえた私の存在意義だと思うから。

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