第十七話 帰ろう、一緒に
ザーザーと雨の降る音が響く。
道行く人々は傘を差し、街灯が薄暗い住宅路地を照らす。
私はあの場所から逃げ出すためだけに、あてもなく走っていた。
足がもつれそうになっても、どれだけ息が苦しくても。
私は死に物狂いで走り続けた。
(私……どうして……っ)
水溜まりに足を取られ、バランスを崩す。
アスファルトの舗装されていない穴に足が引っ掛かり、私の身体は勢いよく地面に倒れ込んだ。
生暖かいものが口内に広がっていく。
すぐ傍に立った電柱から、灯りが静かに私を照らした。
道行く人々が何事かと私を一瞥しては、また何事もなかったかのように通り過ぎていく。
彼らは赤紫色に腫れ上がった醜い顔の私と目が合っては、慌てて視線を逸らした。
まるで化け物でも見てしまったかのような、そんな顔つきで。
――クスクス。
――クスクス。
どこからか、彼女の声が聞こえた。
それは、私を嘲笑う冷えきった声。
『だから言ったじゃない』
『あなたはこの力から逃れられない、と』
――あなたが殺したのよ。
耳元で囁かれた気がして、ゾクリと悪寒が這い上った。
あの時、私は確かに見た。
男が力を失い、地面に倒れる姿を。
あの時、私は確かに見た。
満咲が恐怖に顔を歪め、その場から動けなくなる瞬間を。
瞳孔は開かれ、叫び声は枯れ、力なく蹲る他ない親友の姿を。
目と鼻の先。
突然、それまで生きていた人間が白目を剥き崩れ落ちる怪奇現象を前に、怯える他ない親友の姿を。
――私は、見てしまったのだ。
(こんな力、使わないって決めたのに……!)
土砂降りの雨の中、街灯の光が静かに私を照らす。
私は地面に這いつくばったまま、声を上げて泣いた。
視界が酷く澱んで、周りがよく見えなかった。
幾つもの粒が地面に打ち付けられては細かい飛沫を上げているのを、私はただ虚ろに眺めていた。
(私はまた、人を……)
圧し掛かる重圧はとても支え切れるものではなかった。
今もなお、男が事切れた瞬間の表情が脳裏を掠めては、吐き気が込み上げる。
「まったくしょうがないな、君は。いい加減泣くの止めなよ」
頭上から死神の声がした。
「君はあの子を守ったんだろ? 何で泣く必要があるんだよ」
虚ろな眼差しで声のする方を見上げる。彼は、得意げに「俺だったら今頃、全力で勝利を噛み締めているところだな!」と言葉を続けた。
「まるで英雄だな。君は大切な友人を守ったんだ」
そう言って、彼は私に手を差し伸べた。
私は彼の手は取らず、痛みを堪えながら自力で立ち上がった。
顔についた泥を拭い、虚ろな表情で私は呟いた。
「英雄なんかじゃ、ない。私は、ただの」
ヒトゴロシ。
――言葉を続けようとした瞬間、唇が強張って声が出せなかった。
「それにしても、クスクス。君、酷い顔だよ? 目元なんてまるでピエ……。ッハハ、○-1グランプリに出たら優勝出来るかもね」
「…………」
「ごめんごめん、冗談だって。まったく、君はもっと早く力を使えばよかったんだ」
「な……」
「なあ。折角の可愛い顔が台無しだろ?」
雨空の下、小さな人形は乾いた声で笑った。
陰になった彼の表情はよく見えなかったが、彼が心から笑っている訳でないことくらい、私にも想像できた。
立ち上がった足が震え出す。
命を奪った二人の死に際の表情が過ぎっては、どこからともなく怨嗟の声が纏わりついてくるような気がして私は、
情けなく震えた吐息を漏らした。
「心のどこかで、私が死なせた二人が言ってくる気がするの。『何で殺したんだ』って」
一週間前のあのときとは違う。
私は、あの人が死んでしまうことを分かっていて、右目を瞑った。
人を殺すことを、自分で選択したんだ。
目尻から溢れた温い雫が大粒の雨に混じり零れ落ちていく。
「死んだ方が良かったのかな」
通り過ぎていく人々が私を一瞥しては、見てはいけないものを見てしまったかのように慌てて目を逸らしていく。
まるで
「あの時私、死んだ方が良かったのかなあ……?」
ぽろぽろと涙が溢れて止まらなかった。
視界が歪む。私は腫れ上がった唇を強く、強く噛み締めた。
ヒトゴロシ。
お前なんて――人間じゃない。
道行く人々が、そう言っているような気がした。
あの時罪を償って死んでおくべきだったのだ、と言っているような気がした。
《まるで英雄だな、未玖。君は大切な友人を守ったんだ》
私は、英雄なんかじゃない。
私は、人間を二人も殺してしまった。
全身の力が抜けていく。
電柱にもたれかかった私は、よろよろとその場にしゃがみ込んだ。
自分の両掌が視界に映った。
それらが一瞬真っ赤に染まって見えた気がして、私は思わずヒッと顔を引き攣らせた。
死神は黙っていた。
静かに、氷のように冷たい雨が降り注ぐ。
道行く人の数は次第に減り、雨の音だけが路地に響く。
暫くの沈黙の後、頭上から死神の声が聞こえた。
「本当に面倒臭いな。君」
それは酷く冷たい声で。
一瞬、肺が凍りついたかのような錯覚が襲った後、途端に呼吸が苦しくなった。
耳元で、自分の荒い呼吸が聞こえた。
歯の奥がガタガタと鳴っているのが、自分でもわかった。
どれだけ息を吸い込んでも、肺が広がらない。
次第に視界が明滅し、酷い寒気が全身を覆った。
しかし、次の瞬間――
「俺だって、君が死ぬのを見るのは嫌なんだ」
「え……?」
思わず声が零れた。
何故なら、
街灯の下、死神の表情が僅かに灯りに照らされた。
冷淡な死神の頬を、一滴の涙が伝っていく。
――彼がどうして泣いているのか、理解出来なかったから。
「前にも言ったろ。生きていきたいなら覚悟を決めろ、って」
小さな肩を上下させながら、彼は一つ一つ言葉を紡いだ。
死神ミタは涙を流しながら、真っ直ぐに私を見つめた。
「誰かを守るために、誰かを傷つけることを躊躇う時間なんてない」
「………………」
「いつだって、
冷たい死神の言葉。
その瞬間は何故だか、とても温かく感じた。
「誰かを傷つけないで生きてる奴なんて、いないだろ?」
やがて雨が上がり、空を覆っていた雲が晴れていく。
夜空の向こう側に隠れていた月が姿を見せては、地上を煌々と照らした。
「頼むから、死んだ方が良かったなんて、もうそんな事言わないでくれ」
「ミタ……」
「折角君は、
彼はそう言うと、申し訳なさそうに視線を逸らした。
天使のように長い睫毛の下で、黒い瞳が僅かに揺れていた。
死神は口をつぐんだまま、それ以上何も言わなかった。
それは何かを隠しているかのような、どこか後ろめたさのようなものを孕んだ不安げな表情で、
そのとき彼が何故そんな表情をしていたのか、私には理解できなかった。
雨に濡れたアスファルトの上に、天井に輝く月が映った。
電線から滴り落ちた雫が波紋を起こし、水面に映った月が揺らいでは、やがて元の輝きを取り戻していく。
「あーあ。何でこんな面倒臭いことに巻き込まれちゃったのかなー」
「わ、私……」
死神ミタはハア、とわざとらしく大きなため息をついてから、両腕を頭の後ろに組み、困ったように笑って続けた。
「俺が暇じゃなかったら、絶対にこんなこと言わないんだからな?」
「ご、ごめんなさ……」
「後で、俺にアイス食べさせてくれたら許してやる」
彼はそう言ってニッと笑ってみせた。
ぶっきらぼうな死神の言葉が、私の心に優しく沁みわたった。
「ほら、帰るぞ。君の家に」
ミタが私の頭を撫でる。
優しい温度が冷え切った身体を包み込んでいく。
不意に、嗚咽が漏れ出した。
一週間前と同じ――彼の言葉も、彼の手も。
冷たく見えて本当は温かいその優しさが、心細くて不安だった私にとっては何よりもかけがえのないものに感じられて、
気がつけば私は、ミタにしがみついて泣きじゃくっていた。
第十七話 帰ろう、一緒に
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