第十六話 血の涙
雲一つない深い空に、煌々と輝く月が一つ。
生温い風。草木が擦れざわめく。
(満咲、早……く……)
赤く染まった視界の端に、友の姿が映った。
彼女は逃げ出すこともなく、ただその場に立っていた。
唇を強く噛み締め、俯きながら。
私が身を挺して守ろうとした友は、依然としてその場に留まり拳を震わせていた。
(に、げて)
少しずつ意識が遠のいていく。
次の瞬間、男が一際大きく拳を振り上げた。
――脳裏を、一抹の恐怖が掠めた。
どこかで死神の叫ぶ声が聞こえた。
少年の泣き喚く声が聞こえた。
彼女の嗤い声が聞こえた。
『さあ、早く』
『この男を殺して、楽になるの』
『怖いでしょう』
怖い。
私はこのまま、殺されてしまうかもしれない。
『痛いでしょう』
痛い。
息が苦しくなるくらい、気が遠くなるくらいに。
『それなら――』
でも、
「で……きない……そ……な事……」
乾いた唇が弱々しく震えた。
久方振りに発した声は、酷く掠れていた。
頭上の男が興味深そうに私を覗き込んでは、小首を傾げてニヤリと笑った。
それに合わせて、私も思わず顔を引き攣らせて笑った。
情けないけれど、
惨めだけれど、
《満咲の代わりに犠牲になれば、私の犯した罪は許されるだろうか》
全て、綺麗事に過ぎなかった。
助けて欲しい、と願ってしまった。
死にたくないと、願ってしまった。
自分で他人に手を下す覚悟も出来ぬまま、罪を
――これが、本当の私なのだ。
「……ねぇ」
どこからか、声が聞こえた。
震えた声。けれどとても、真っ直ぐな声だった。
それが満咲の声だと分かった瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「お願いが、あるんだけど」
―――――――――――
第十六話 血の涙
―――――――――――
彼女の声を聞いた男は、私を殴る手を止めた。
男は沈黙したまま、ゆっくりと彼女の方へ視線を移していく。
遠くの方で草木がざわついた。
消えかけた蛍光灯が明滅を繰り返した。
人気のない静かな夜の公園に冷たい風が吹き抜ける。
逃げてと口に出そうとした瞬間、千切れた唇にピリ、と痛みが走った。
視界の端に友の顔が映った。
「私を好きなようにすればいい」
「…………」
「代わりに、未玖を解放して」
その顔には、強い怒りが宿っていた。
その顔には、強い覚悟が宿っていた。
何故だか無性に、嫌な予感が込み上げた。
それは焦りに近い感情で、
「おやおや、美しい友情ですか」
男は沈黙していた。
不様に腫れ上がった女子高生二人の顔を交互に眺めながら、嘆息を一つ。
それから、頭上の悪魔は赤く染まった自身の右拳を眺めながら、ヒヒ、と乾いた笑みを溢す。
「羨ましい限りですねぇ」
そう言って、男は立ち上がり、ゆっくりと満咲の元へ向かった。
「いいですね。いいですねぇ? 自己犠牲ですか」
「…………っ」
「美しい、うつくしい自己犠牲」
天から一粒の雫がこぼれ落ちた。
空は次第に陰り、やがて黒い雲が覆っていく。
「……そんなもの存在しない」
男はギリ、と歯を喰いしばり、満咲を睨みつけ低い声で唸った。
コートのポケットに手を伸ばした男は、次の瞬間――
「反吐が出る。」
私は思わず息を呑んだ。
瞳孔が開き、呼吸が、浅く、 なっ て い、く。
「え…………?」
男の手の中から、銀色のナイフが鋭い光を放った。
満咲は真っ直ぐに私を見つめ、恐怖に耐えながら必死に言葉を紡いだ。
震えた声。
覚悟を決めた彼女の最期の台詞は、確かに私の耳に届く。
「今までありがとう、未玖」
――それは、
「もう十分だよ」
――それは、一番あってはならない結末なのだ。
「私ね。幸せだった」
――させてはならない。
「最後に未玖みたいな人間と会えて、幸せだった」
――このまま親友を失っては、ならない。
「ありがとう。さようなら」
満咲は笑っていた。
苦悶に顔を歪め、大粒の涙を流しながら。
地面に這いつくばりながら、私は満咲を見上げた。
立ち上がろうと、必死になって全身に力を籠めた。
けれど身体はまるで金縛りにあったかのように動かず、
(満咲……!)
だめだ。
だめだ。
そんな事があってはならないのに。
「これで私、弟に会えるかな」
彼女の両肩は酷く震えていた。
彼女の歯がガタガタと音を立てていた。
それでも、満咲は逃げ出さなかった。
私を守ろうと。
私の代わりに、犠牲になろうと。
一粒、一粒。
天を覆う雨雲から溢れ出した雫が、頬を伝う。
男が少しずつ満咲の元へ近づいていく。
彼女は歯を強く喰いしばった後、恐怖に耐えながら笑った。
「今行くね……陽」
真っ赤に染まった視界の端に、
「そんな……姉ちゃん……」
近くで、少年の空しい声が聞こえた。
全身に力を籠める。
――早く、
幽霊少年の泣き声が聞こえる。
――早く、助けなきゃ。
しかし依然として身体は鉛のように重たく、焦りばかりが募っていく。
酷い耳鳴りがして、
《俺ね。本当は……最後に姉ちゃんに、ありがとうって言いたかったんだ》
――姉ちゃんを、助けて。
その瞬間。
幽霊少年の声が、耳元でハッキリと聞こえた気がした。
刹那。
すべての音が、ピタリと止んだ。
真っ白な空間に、私と男がたった二人。
一粒、一粒。
天から溢れ出した雫が、頬を伝う。
千切れた目尻の皮膚から、血の涙が頬を伝う。
――マモラナケレバ。
強い何かが、私を突き動かした。
(
だから、私は――
男の
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